20世紀アメリカの現代音楽の、まあ多少は知られた作曲家である、《モートン・フェルドマン》(☆)。1926年NY市クイーンズに生まれ、87年NY州バファローにて没す(☆)。
この人物を〈猛豚(モォトン)〉と、オレは個人的に呼んでいる……。さもなくば、〈タバコデヴ〉。
なぜそんなン言われるハメになるのかは、彼の名前で画像検索すれば、すぐにご理解なされるハズ(☆)。その言いように、〈共感〉できるかどうかは別として。
いや、あの、これは。傑作ホラー劇画シリーズ『彼岸島』でおなじみの巨匠・松本光司氏が、彼の熱烈な愛読者(=キモ傘)どもから、《アイスデブ先生ェ》呼ばわりされてるみたいなモンでゲスな! ガハハハハ!
……ところで。このブログの前々記事で、〈面白くもないし、つまらなくもない〉という逆のパワーワードが出ちゃったときに(★)、またフと想いだされたのが、この猛豚……モートン・フェルドマンつぁんのことなのだった。
自分のかってな感じ方によるとモォトンは、この〈面白くもないし、つまらなくもない〉というインプレッションに帰結しがちな音楽の創作、そんなことに彼の一生を捧げたお人なのだった。
この人の音楽、それとの初の出遭い(そこね)方は、多少だけ憶えていて。
それは高橋アキさんの演奏によるピアノ独奏曲『トライアディック・メモリーズ(三和音の記憶)』(1981)のCDを、なぜかフと購入してしまったこと(☆)。
それがもう、実にぼんやりしたボヨヨ〜ンという響きが延々と、まる60分間も続くだけのヘンな大作で。ちなみにモォトンの音楽は、ほとんどだいたいがそんな感じだけど。
で、大むかしの当時の感想は、〈さっぱり分からないが?〉ということに終始。
だがその後、約10年ほど経ってからフと聞き直してみたら、〈ワケは分からんけど、なんかイイような気も?〉という感想へと、ビッグバン進化。
……ったく現代音楽なんぞを聞く耳ないね、オレみてェな〈世間の一般ピーポー〉はよぉ〜。モォトンとかを聞いたって、いいところそのていどの受けとめ方だぜェ〜。
でも、なんとなくイイような気はするんだよね。
そのいっぽう。『トライアディック・メモリーズ』から少し遅れて世に出た、われらが神に等しきブライアン・イーノさまによる『サーズデイ・アフタヌーン』(1984)は、ちょっとそれに似てなくもない作品だと言えなくもない。
まあ少なくとも、ぼんやりボヨヨ〜ンというピアノの響きが延々と60分間も続く、という点が似てなくもない。しかし《構造》は違うと思うので、そのあたりのチャンとした説明は、大学とかで現代音楽を研究なされてるような方々の社会的責務だと考えられる。
で、似てなくもないような気もしつつ、しかしそれらを聞き比べたら、とんでもねェ違いがいっこあるってことは、どういう“誰”にでもすぐ分かるハズだ。
すなわち、イーノさまの音楽の“すべて”から常に感じられるような聞き手へのやさしみと思いやりが、モォトンにはほとんどなさめ、ということ。
それはまあ。聖にして崇高なるイーノさまのご創作といえども《ポップミュージック》の一種ではあるので、ゆえに違う、それはそう。
かつまた彼の提唱による《アンビエントミュージック》は、ご奉仕と善意が99%の音楽である(断言)。それはユーザ側での効果と効用を実現するものでなくばならず、言わばダンスミュージックと同様の実用性を志向する(べき)音楽である。
そういう実用性を軽視しちゃってるしゃらくさいヤツは、ただの実験的エレクトロニックか何かでしか、“ない”。《アンビエント》とは一定以上のクオリティを語ることばであって、単なる形式やジャンルの呼称では、けっして“ない”(★)。
と、ちょっと話がそれまんたが。別にモォトンさんを、何かディスろうとしている流れでもなく、こっちはこっちで何かスゴい。
で、仮にモォトンの音楽に、聞き手への善意がなかったとしても──そんなことを言いきりはしないけど──、しかし何か一種の誠意が常に込められていそう、とは思う。
そしてその《誠意》の対象とは、〈面白くもないが、つまらなくもない〉という水準を維持しつづけること。……かのように、自分は邪推しちゃうんだよね。
たとえばこんなエピソードを、どこかで風聞した。モォトンというお人もコンサート等に出かけ、他人らによる音楽を聞くことがあったが──そりゃそうだろうが──。
しかし、その音楽がイイ調子で引きこまれ、ついついあわせて身体を揺すっているようなことを自覚すると、ぶぜんかふんぜんの表情でモォトンは席を立ち、それきり会場へ戻ってくることはなかったそうな。
どうせ会場の裏でヤニでもふかしてたんだろォが、このタバコデヴ! まあそんなことは大いに許すとして、とにかく音楽の《アトラクティヴ》めいた側面を、かなり徹底して忌避したいという、ふしぎな情熱に生きた人だったもよう。
……かといって? 仮にモォトンによる音楽が、ただでさえクッソ長い曲ばかりの上に、しかもひたすら面白くないだけだったら、ンなものは誰も聞きゃしねェ、少なくともオレら一般ピーポーは。
けれど。ぼんや〜りしてるばかりでワケは分からないが、しかしなぜだか〈つまらなくもない〉感じという水準を、必ず維持してくさる。
たぶん何かが、心に響いているのだろう。そこいらがモォトンの不可解きわまる、タバコデヴ・パワーの発揮されているところだ。
そんなモォトンによる音楽が、ご本人の没後30年もして、意外だが忘れ去られる方向には、ない。むしろ、ほんのりにしても広めに親しまれつつある感じがまた、分からないけどそうかな、という想いを自分にさせているんだ。