ポ  サ  研

─ ポスト真実 のサウンド研究, ヴェィパーゥエィヴ と仲間たち, 欲望 複製 反復 ─

ボードリヤール「なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか」 - 感想文その1, 愚劣さと陶酔のカ〜ニヴァル!

さいしょに私ごとで、恐縮なんスけど。パソコンの再構成、およびLinuxのインストールでつまづいてしまった結果、この記事はいつもと違う環境で書いてんでぇース。

まあ、ふだんからアタマがいい感じのことは書いてないんで、とくに何も変わらないとも言えなくないが──。
とはいえ? 〈わざわざアキバでHDDを新調してきて、そしてこのていたらく……〉という下がりきった気分でオレは。まあそういうことなんだよね。う〜。

でも、まあ。ご存じのようにOSのインスコなんて、トラブルがなくてさえも、やたら時間のクッソかかるもので。
そしてその間の退屈しのぎとして、たまにはむずかしげな活字の本でも見てよって気になったりするのは、逆にいいことなんだろうか。

で、そのご本というのが、何となく図書館から借りてたボードリヤール「なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか」(Jean Baudrillard: Pourquoi tout n'a-t-il pas deja disparu?, 2008)なのだったが。

さいしょに概要を述べておくと、現代フランスを代表する《社会学者》であったジャン・ボードリヤール(1929-2008)、これはその遺著みたいなもの。
しかしボードリさんの業績や主張みたいなことは、自分なんかにはとても要約とかできない。ただ、《後期資本主義》、《高度消費社会》、《情報文明》──、といった用語らの出てくるような言説らの、偉大なるオリジネイターではあろうと考えられる。

するてェとボードリさんは間接的にしても、われわれのヴェイパーウェイヴのご父祖くらいに、なり気味。いや、そのことを感じているからこそ、こうしてまんがでもなく挿し絵もないようなご本に、ちょっくら目を通してるワケなんだが。

人間は、テクノロジーをつうじて、デジタル的秩序への登録をつうじて消滅するという代償を払って、はじめて不死の存在となる
だが、これは不死の開かれた形であり、現実には、人間という種に関するかぎり、すでに選択は済んでおり、人類は人工知性の優越性のうちに体現される。

(以下すべて本書、p.39-40)

──うん。けっきょく同じことかも知れないんだけど逆に自分は、いまや〈デジタル的秩序への登録〉がなされてもいないような生き物は、人間とさえ見なされない《存在》以前である、ということを感じている。

だからこそいまオレたちは、時間のある限りツゥイタァーやインスタ蝿、そしてこういうブログとかをガンバっている。デジタルの世界に存在感のない生き物らは《存在》以前、という強迫に促されて。

または、もう少し社会的めいたお話にしてみると。
たとえば、マイナンバーカードとやらを持たない〈デジタル的秩序〉の外側の生き物たちが、ゆくゆくはいったいどうなってしまうのか。

いっぽうの一説によると、その何たらカードは、たぶんニホン人の8割くらいの方々にとっては、利便性と恩恵しかないような、すばらしいものであるっぽい。まさに正義のツールであるのかも。
にもかかわらず、そのニッポン人らの8割以上が、それを持たないというカタチで逆に、消極的にも抵抗を示しているのはなぜなのだろうか。

いまだわれわれは抵抗しているのかも知れないけれど、しかし現在、せいぜい8割くらいの人々らがメリットを享受するていどの話が、《正義そのもの》として全面的に押し通ろうとしている。
そうしてしまいには〈弱者はかってに死ね〉と、人々のホンネ(?)を公言できるようなピエロらを、われわれは支配者としておしいただくハメになるのだ。

亡きボードリやんが本書を著してから、もう10年以上にもなるワケだが。にしても、ここで話題になっているシュワルツェネッガーカリフォルニア州知事就任(2003年)、それがもう現在のトランプ米大統領の誕生の、実につまらんプレリュードでしかない。
〈権力者なんてェものは、いっそピエロみたいなヤツのほうが、まだいい〉というシニカルな《民意》へときれいに対応し、その面白キャラたちが、シニカルであさはかなパフォーマンスらを遂行し続けている。

代表制度の終焉への大きな一歩が踏み出されたのだが、いたるところで、見世物をあてにする者が見世物によって滅びることは、現代政治の宿命である。それは、政治屋だけでなく、「市民」にもあてはまる。

(p.61)

……とはいえそれが、意外と滅びないワケで。あるいは、滅びながらゾンビか悪霊として君臨しているんだよね。〈神々が死んでも祟りだけは残る〉と、本書のさいしょのほうでボードリィが宣告している感じで。

そして面白いのはボードりんが、アメ公らのふざけた選択をただの衆愚の表れとは見ておらず、その背後の無意識の意図を読みとっていること。
すなわち。何もかもに対してシットでファッキンだという形容詞を貼り付けて恥じないような、大USAの誇る美学と倫理。それをさらに推進し、そして全世界へ普及していくこと。

諸価値の冒涜と嘲笑という、アメリカの経験的で技術的な極限的形態、あの過激なわいせつさと、「宗教的」なはずの国民の全面的な不信ぶりこそが、アメリカのグローバルな覇権の秘密である。そのことがあらゆる人びとを魅了する。(中略)私は、皮肉ではなく賞賛として、そう考えている。

(p.62)

これをムリにでもヴェイパーウェイヴの話にしてみると、パワー(権力)の愚劣さに対抗してわれわれもまた、諸価値の冒涜・嘲笑・過激なわいせつさ、そういうものらを《表現》し。かつまた〈全面的な不信〉をエンジョイし。そして《収奪》という美徳を見習って、存在しているサウンド資源(&ゴミ)らを略奪&盗用しているが。
しかしどうにもパワーがない──、いやま、あったら逆によくないにしても。

フィリピン大統領「マスクはガソリンで拭くといい」(2020/07/31) - BBC
フィリピン大統領「マスクはガソリンで
拭くといい」(2020/07/31) - BBC

いまわれわれの歓迎する愚劣丸出し
ピエロ的支配者像、そのまたひとつ

ムキ出しの愚劣さ、厚顔無恥、そしてシニシズム等々を、“誰も”が堂々とぶつけあっているこの世界の中で、オレらのヴェイパーウェイヴは、少なくともウソのある表現にはなっていない。どう見てもマシな方、誠意を感じるようなところもちょっとある。
かといって、それが《何》になるのだろうか?

……ということで、もうけっこう話が長くなっているので。この感想文をいったん〆くくりたいです。
で、少なくともあと一回。ボードリやんやんの考えた黒人白人対立の図式、そして現在のG.フロイド氏虐殺とその波紋、そうしてわれらのヴェイパー・ヒーローである《Kid Mania》のリアクション()、という話はぜひ書いておきたいので、よろっしゅオナシャ〜っス!

それにしても?

ただいま自分は、USBメモリからLive起動させたUbuntuで、これを書いてんスけど。
意外にひととおりのことがデキなくはないが、それにしてもいちいちレスポンスが悪い。

そして現在、遅さをきわめながら実行中のタスク……。何かの手違いでHDDがインストールを受けつけないので物理フォーマットによる対処、これがもし成功しないと、また新しく別のHDDを買ってこないとならないんだろうか。

そしてこういうつまんねー苦労もまた、オレごときがどうにかボードリつぁんも言う〈デジタル的秩序〉、そこにハマっていくためにはしょーがねェのだろうか。
いや正直、ウィンドォ〜ズならよくあったようなトラブルだが、しかしLinuxでそれにぶつかることは、想定外だったんだよね。

そんな、《GAFA》っぽいものらに対するLinuxGnuOSS的なもの。そして、《後期資本主義》とかに対するヴェイパーウェイヴ。
オレらははたして、《オルタナティブ》みたいになれているのだろうか。そしてそうだとしても、そのオルタナにどういう意味が?

《人間》とやらの終焉を眺めながら、あるものたちはシニカルな態度に終始し、また別のものたちはギリギリの尊厳へとしがみつく。たったそれだけ? それ以上の意味が、何か?

日向奈くらら/石川オレオ「私のクラスの生徒が一晩で24人死にました。」 - だからといって、どうしろと?

そのタイトルがあまりにもショッキングなホラー作品、「私のクラスの生徒が一晩で24人死にました。」。これの原作小説は2017年に出ているもので()、そのコミック版がいま、コミックウォーカーにて掲載中。もっか、その第4話の前半までを拝見したところ。

そしてタイトルから察せられるように、今作の叙述の視点は、青少年らではなくて、クラスの担任の先生にある。そこに自分は、ちょっと新しみを感じたのだった。

飯能市あたりの私立進学高の女性教師、《北原奈保子》。その担任する2年C組に深刻なイジメが起こっていることを知って、対処しようとはするが、しかし事態を改善できない。
やがて夏休みが訪れて終わり、そして、2学期の初日。イジメの首謀者3人と被害者の計4人が、なぜなのか失踪していることが明らかに。
そしてその夜、受け持ちの生徒らからのナゾめいたEメール(か何か)の相次いだことに、危機を感じた奈保子。そして彼女は、急行した彼女のクラスの教室で、恐るべき光景を目にする──。

つまり24人の生徒が、そこで死んでいた。それも、お互いに殺しあったか、さもなくば自殺した、かのような体で。
いやはやナゾだし、奇々怪々である。どういう理由でこんなことになったのか、黒魔術とかクトゥルーの邪神とかによることなのか。また、いっぽうで失踪中の生徒ら4人は、どこでどうしているのだろうか?

そういうツカミの興味深さを、まず大いに認めながら。しかし自分がいっそう引きこまれるのは、このお話が教師である奈保子の視点から語られている、そのあたりなんだ。

とは……。ただでさえ激務であるらしい進学高の教師、その上にイジメ問題の発生、さらに生徒らの失踪、そしてトドメに、この惨劇──。そのいちいちで奈保子は責められ詰められ、しまいには2ちゃん的な掲示板で〈無能教師〉と名指されたりで、まったくもって、やるせないにもホドがあるのだった。
誰がもっとも気の毒なのか? それがよく分からなくなってくるんだ。

もしも地獄先生のぬ〜べ〜だったなら、何でもかんでも事件なんか解決してしまうんだが。しかし奈保子には、そんなとくべつなチカラはない。
そして、怪奇と酸鼻さをきわめた事件のさ中にあって彼女は、むしろ自分の未来や将来を憂慮しているのかも知れない──が、誰にそれを責めうるのだろうか?

さらに。お話が進むと、やがて叙述の視点は、地元警察の刑事らへと移っていくんだが。その彼らにしたって奈保子と同じで、とくにサエたところが何もない。
よって、妖怪ハンターこと稗田礼二郎のように、怪奇な事件を鮮やかに解明していくことなどは、とうていデキない。ただ、気の重いめんどうな仕事として、彼らはそれにかかっているだけ。

自分にとっての今作の目新しさは、そういう平凡なオトナたちのつらみを、みょうにリアルに描いていることなんだよね。そのいっぽうの、事件の突飛さとの対照もくっきりと。

だいたい本来の《まんが》なんてものは、子どもや少年少女らの視点から描かれるもの。「地獄先生ぬ〜べ〜」の主人公はオトナだけど、しかし子どもたちから見てのヒーローとして描かれているワケで。
いっぽうこのお話「24人死にました」にしても、ほぼ同じお話を生徒の視点から描くことは可能だったかも、しかしそうはなっていない。それは原作が小説だからってのもあるんだろうが、ともあれ結果として、ヘンな新鮮味に帰結している。

いや、実のところ、ことの真相が黒魔術だろうが邪神だろうが、未知の奇病や寄生虫のせいだろうが、そんなのは、別にどれでもいいのでは? それはまあ邪神も怖いが、しかし現実社会で何らかの思わぬ責任を問われ、キャリアをロスし路頭に迷うとか、そっちのほうが、よほど怖いことかも?

ところで。このシリーズ作「24人死」について版元は、〈嫌ホラー〉というキャッチフレーズで、それを売り込もうとしているんだけど。
だがしかし、さわやかでハッピーなホラーなんて存在しないに等しいんだから、どういうことを指して〈嫌ホラー〉と言うのだろうか。ちょっとそれは、ハッキリ言われていない風。

ことによったら、悪魔や邪神より、現実の人間とその社会のほうが、よっぽど怖い──そんな興ざめでイヤな事実を突きつけてくるので〈嫌ホラー〉……。なんてことはないと思うが?

死夢VANITY: lovely reveries (2018) - ゴージャスな白昼夢、すてきな空想に溺れ死ぬ

《死夢VANITY》は、米ヴァージニアの人と伝えられているヴェイパーウェイヴ・クリエイター()。その活動は2015年あたりにもっとも活発で、しかし2018年のアルバム“lovely reveries”以降、音さたがないっぽい。

いや。直前の記事で《VANITAS命死》をご紹介したワケだが()、〈確か似たような名前の人がいたな〜〉という気がして、ついさっき思い出したんだよね。だが作風みたいなところは、とくに似てないんだけどね。

話を戻すと、死夢VANITYによるアルバムは、2014年に2コ、15年に4コ、16年に2コ、17年と18年に1コずつ、と出ている。
前にカイル・ジョイナー氏の《BALENTS》の記事で、〈第2次ヴェイパー・ブームのころ(2016年ふきん)には多少注目されたが、しかし2018年あたりから休眠中、というクリエイターたちが、けっこういるっぽい〉──なんてことを自分は書いた()。事情は各それぞれなんだろうけど、まあカタチとして、死夢さんもその一員ということになりそう。

さて死夢VANITYの作風や方向性はかなり一貫していて、ようは〈ゴージャスなムード〉、ラグジャリーの感覚、夜の歓楽のふんいき、それらを音楽で描くことに専念している、と考えられる。
そういう志向のヴェイパーウェイヴは、《レイトナイト・ローファイ》と呼ばれることが多いワケだが()。しかし死夢ッチの場合、別にローファイにはしていないのが特徴。そして素材のほとんどはスムースジャズであるようで、R&Bとかの唄ものはめったに使わない、ということも特徴。

そんな方向性で、ここまでのキャリアを押し通してきたようだが。でもふしぎなのは、近作に向かうに従って、よりよいように聞こえることなんだ。──オレの耳には、ね。

方法的にはずっと、ほとんど変わらなくて、スムースジャズと思われる素材曲らのさわりを1分から3分間くらいに切り出し、再提示しているだけ。ことさらな加工や編集の痕跡は、ほとんど感じられない。
ただ、2016年の“summer getaway”あたりから、リバーブやEQらのちょい足し、ほんのわずかのスローダウン、それらの操作が、実にスマートで効果的になっている。旧作らと大して変わらないとも言えるんだが、しかし響きのやさしみ&快さが、確実に増している──と、オレには感じられる。

で、そういう細かいところの向上がピークにまで達したのが、2018年のアルバム“lovely reveries”。それをラストに、死夢たんの活動が現在までとだえているんだ。

そのスタイルが完成されたところでフと止めてしまう、ってな態度もヴェイパー者らしいっちゃらしいんだが、でもやっぱり惜しい気が……。いずれぜひ、復活して欲しいんだよね!

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
死夢VANITY, the creator of vaporwave, who is said to be from Virginia, USA. His works seem to be thorough in reproducing the gorgeous mood, the feeling of luxury, the joy of night pleasure, and so on.
For that purpose, he cuts out a part of material thought to be smooth jazz and re-presents it. The method is consistent, but in newer albums, the detailed sound manipulation is more sophisticated.
However, the work of 死夢VANITY is the latest “lovely reveries” in 2018, and it seems that his activity is stopped. We think this is a pity.

VANITAS命死: Music for museum dates (2020) - 娯楽 と学習, 現代アートと おセックス

《VANITAS命死》についての風説をとりあえずウ呑みにしておくと、ベルギーのアントウェルペン在住のヴェイパーウェイヴ・クリエイターであり、2019年から活動中()。
彼のポートレートがDiscogsに掲載されているんだが、それを見たら……なるほど。まるで、ご当地の大画家ルーベンスの絵に描かれた天使──ただしけっこうゴツいめの天使──のような風貌の青年なのだった()。

そしてその“Music for museum dates”は、この2020年7月発の話題作、ヴァニタス命死として5作めのフルアルバム。何かあちこちでその評判を聞くんで、話題になってるのかと思うんだけど?

で。さっきルーベンスがどうこうってヘンに高尚なネタを振りかけたが、でもオレの意思でしたことだとは、思わない。そういった流れを、ヴァニタスさん本人が作っているんだ。
何しろこの人、自称の肩書きの一部は《アート・キュレイター》。いままでに出したアルバムらの過半数が、モロにアートとか美術館とかをテーマにしたものなんだ。

そしてこのヴァニさんの最新作「美術館デートのための音楽」は、こういうコンセプトのアルバムであるそう()。

VANITAS命死のニューアルバム「ミュージアムデートミュージアム」は、現代のアートワークに捧げられた感情とデートを反映しています。 各トラックはテクスチャ化されており、ジェームズターレル、ドスーホー、トレーシーエミン、オラファーエリアソン、ウレイ&アブラモビッチ、ナムジューンパイクなどの現代美術の卓越性に基づいています。

<3の日に自分と特別な人を連れて行く

(グーグル翻訳システムの出力)

……ナム・ジュン・パイク(白南準)以外はけっこう新しい名前の列挙されていることが、ニクい、実に。つまり、オレの知らんアーティストらの名がちょっと出てる、という意味。ヤベェ。

しかしなんだが。これら現代の卓越したアートワークであるらしきものたちを、性交の前振りのエンターテインメントみたいに押さえていること。
すなわち、デートプランの序盤にラヴロマンス的な映画の鑑賞を組み込んで、性交へのイキオイをつける──そういうツールかのように扱っている態度が、下劣きわまる。
いやァ、まったくもってヴァニちゃんよォ、やっぱオメェもとんだヴェイパー野郎だなァ──と、オレの中の共感が止まらないのだった。

そしてそんな感じのコンセプトにもとづき、ついいま気づいたことだが、各トラックらのタイトルは、言われたような現代アート作品らの題名から借用されている。
まず、第1曲の“Seated Ballerina, 2017”は、ジェフ・クーンズから。第2曲の“TV Garden, 2000”は、パイク。そして第3曲は草間彌生……以下、あれこれ。
だが、そんな風にカッコをつけくさっても、それらを視ている主体の主眼は、おセックスになだれ込むことに他ならない──。そのことを、われわれは忘れるべきではない。

そういやむかし、山上たつひこがきデカの、あの一同が美術館に出かけるお話で。独身女教師の《あべ先生》が、ご存じミケちゃんダヴィデ像〉の局部に見とれて思わず放心、よだれ……というシーンがあったんだが。
それは単なる《ギャグ》では、ない。忘れてはならぬアートシーンの一部分として、そういうことはあるのだ。

さて、ここからやっと音楽の話をすると。ヴァニタス命死「美術館デートのための音楽」は、けっこう卓越して洗練された作品かのように聞こえるのだった。意外に。

ことによったらヴェイパーウェイヴの文脈から切断し、〈ジャジーグルーヴの新作でぇース〉、チルっぽいラウンジ音楽でぇース、とか言っても、通用してしまうのでは?
だってヴェイパー特有の、ああいうヘンな音とか出てないし。たぶんサンプリングベースで作られてると思うんだけど、でも、ちょっとその製法に見当がつかない。

言い換えると、オレが思うヴェイパーウェイヴって、安易でテキトーなデッチ上げと感じさせるところにキュートさがあるんだが。
しかしこれはそうじゃなくて、何か堅固な音楽らしさがある。ずいぶん、ちゃんとしてる風だ。

なお、初期──と言ってもついさいきんだが、初期のヴァニたんの音楽には、もうちょいヴェイパーくささがあった。オレらの好む、わざとらしいスローダウン、ことさらなローファイ加工、そういった操作らが目立っていた。
ただし、その時期から、かなり手が込んだキチッとした作りではあったんだ。

そしてこの最新作は、そういうことさらさが消失した結果、カップル向けのBGMとしても通用しそうな、みょうにいい感じのジャジーでメロウでエレクトロニックなラウンジ音楽になっているのだろうか。

だが、そんな風にカッコをつけくさっても、けっきょくはおセックス目的のムード音楽だということを──。え、あれ、そうなのかな?

ちょっとオレは思うんだけど、そのコンセプトに出ているようなアートらの〈アヴァンギャルド〉っぽいところと、いっぽうこの音楽のあまりなスムースさに、不整合があるのだろうか。アートの高尚さからドスケベまでの持って行きに、少々の飛躍があるのか。

ただし、聞いて愉しいスマートな音楽ではあることにはマチガイがない。いや、その《実用性》までは知らないけどなあっ。
かつ、現代アートらをキモチいくファックしちゃおうぜェ、というコンセプトにオレが共感してしまったので、われわれのヴァニタス命死は大いにヨシである、と結論づけうる。

だが、そんな風にカッコつけたことを述べくさっても、けっきょくは──?

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
VANITAS命死 is a vaporwave creator living in Antwerp, Belgium. His latest album, “Music for museum dates”, is about the idea of using advanced contemporary art to make sex a success.
The concept is wonderful. It's also a musically smooth lounge, so it's considered a good BGM for f**k. No, it's a joke, but it's good anyway.

【付記】 これ余談なんだけど、文中に出ているナム・ジュン・パイク氏にちょっと会って、お話を聞いたことがあるんだよね。いやもう、ずいぶんむかし。どんなことを話してらしたっけ……。

まず想い出せるのは、第2次世界大戦の直後にアメリカの《抽象表現主義美術》が大ブレイク、そしてNYがパリを退け、世界のアートセンターに成り上がったことについて、〈もちろん、おカネでしょ〉と、述べておられたような? カネが動けばアートも動くということで、まあ通説みたいなことだけど。
それともうひとつ、パイク氏の祖国である韓国、それと北朝鮮との統一には、かなり前向きな観測を抱いておられる、ということが印象に残った。しかし、それからけっこうな時間が過ぎ去ってしまったが……。

まあほんと余談だし、しかも大したことを想い出せず。でも他にこんなことを書く場もないんで、許しましょう!

施川ユウキ「バーナード嬢曰く。」 - ドぉ〜グラぁ〜! きしょいヤツらが奇書を読む。

子いわく、〈義を見てせざるは勇なきなり〉。とまあ、名言で始めてみたけれど──。

さて、いまここでちょっと、Pixivコミックで公開中バーナード嬢曰く。)の宣伝をしてみたい理由。それは、そこに付された《いいね!》の数が、あまりにも少ないので泣けたからなんだ!

そういや? 〈いいね!とリツイートのシステムを考えたヤツは地獄に堕ちろ〉と、当のツーイター社の主任か誰かが言ったらしいが(怪情報)、マッチポンプかよちくしょう!
だからこのシステム自体どうかとは思うんだけど、それにしても《惨状》ってものを、オレらは見てるんだよね。

具体的にどうなのか? 「バーナード嬢曰く。」(以下・ド嬢)と、同じサイトでほぼ同時期から公開されているタイトルら──かつジャンルも同じギャグ系──、それらの《いいね!》数の現在値ら(2020/07/26)を比較してみよう。

施川ユウキ「ド嬢」 2020年3月〜17話まで公開 635いいね(
tugeneko「上野さんは不器用」 同年1月〜14話まで公開 6,072いいね(
涼川りんあそびあそばせ 同年1月〜14話まで公開 41,169いいね(

どういう格差社会だよえーっ! って、これが《現実》なのかっ……!?

ちなみに比較対象の「上野さん」と「あそあそ」も、オレは好きなまんが。自分の中では、三者の序列はつけがたい。
だってのに、この現実の格差──その原因は? ひとつ安直に思いつくことは、各ヒロインらの美しさの差が票数に表れているのか、ということだがっ……!!

まあ見た目のことはしょうがないので、どげんしてか「ド嬢」をPRせんければならん。

本を読まずに読んだコトにしたいグータラ読書家“バーナード嬢”と、読書好きな友人たちが図書室で過ごすブンガクな日々──。

(公式のアオリ文)

けっこう似たようなお話で、谷川ニコ「クズとメガネと文学少女(偽)」)を、以前ご紹介いたしたような気もする。しかしそっちのヒロインのほうが、まだしも読書をガンバろうとしていた感じ。
いっぽうこちらの《ド嬢》さんは、読書家を装いながら、しかし断じて読みはしない、ということをガンバっているふしがある。しかもその読まなさを、強引に正当化してかかるのが実に頼もしい!

さてその第17話は、三大奇書というエピソードから始まる。何が《三大奇書》かということは、皆さまご存じと思うが……(もしくは参考画像をご参照)。

でもオレは、ずっと前から疑問なんだよね。
あの三作、オレも面白いと思うけど、しかし《奇書》っていうくくりがピンとこねェ。奇書という語は、《大長編の異端的ミステリー》という意味じゃないと思うんだけど。

じゃあ何が《奇書》かというと──いまは和書に限り──、まず「家畜人ヤプー」あたりがそれっぽい。あるいは、「椿井文書」・「竹内文書」・「東日流外三郡誌」のような、偽作文献ら。さもなくば《トンデモ本大賞》を獲ってるヤツとか()、奇書そのものなのでは?

とはいえ「ヤプー」はともかく、それ以下のヤツは、ことさら見るに値するような気がしない。わざわざ読むような本で奇書っぽい──ということだと、やはりいいのか?

そもそもド嬢は、《三大奇書》などという話題をどこから仕入れてきたんだろう。かつ、そもそも誰が言い出したことなのかが不明だが、しかしその時期は1970年代末あたり、とは分かっているらしい()。

そして物語に戻ると、ガチの読書家である友人は、お脳のたんじゅんなド嬢が「ドグラ・マグラ」にハマったりしたらヤベーのでは、と懸念。だがしかし、どうせ10ページも読まず放り出すので大丈夫だと確信できる。ブウウ────ンンン────ンンンン。

ところでこのこともご存じだと思うけど、その《三大奇書》のうち、「ドグラ・マグラ」()と「黒死館殺人事件」()は、青空文庫にて無料閲覧可能。どうせだからスマホタブレットらのハイテクを用い、オサレなカフェーやプールサイドあたりで奇書らを耽読──、この夏のトレンドはそれか……!
で、そのついでに、「ド嬢」への《いいね!》付与を、ちょっとお願いしちゃうんだよね!!