ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

SLUSHWAVE 2021 & WORLDWIDE.WAV - 2021年6月のVaporwave オンライン・フェス!(情報追加)

【2021/06/05】 私たちの大好きなヴェイパーウェイヴ! その、2021年6月に挙行されるオンライン・フェスティヴァルふたつのお知らせです!

【2021/06/11】 《WORLDWIDE.WAV》についての情報を、追加&更新しました!

【タイトル】 SLUSHWAVE 2021
【開催日時】 日本時間(JST)では6月6日&7日・午前3時スタート
【視聴URL】 YouTube)/Twitch(

【主催者】 Vapor Memory(YouTubeにおけるヴェイパー活動のボス)/desert sand feels warm at night(スラッシュ界のスター的アーティスト)/global pattern(在ペテルスブルグの気鋭のレーベル)
【予想される音楽傾向】 おそらくは、ぐでぇ〜、どろろぉ〜っ、としたスラッシュウェイヴ大会
【主な出演者】 from tokyo to honolulu/Gatewayゲートウェイ/MindSpring Memories/P U D E R P O L L I/S O A R E R/Second∞Sight/カゴシマ・タンジェリン/夢のチャンネル/等々々

【追記】 成功として終了しました!
しかし第2日、YouTubeにおいて、映像の一部が著作権の何かでチェックされ、放映ストップ。よってサブのチャンネルへ移動して続行、という現象があったことを記録しておきます。

【タイトル】 WORLDWIDE.WAV
【開催日時】 日本時間の6月12日午前10時からノンストップで、30 hours 開催
かつ、6つのTwitchチャンネルで同時に放映となるもよう
【視聴URLらを含む総合ガイドページ】 WORLDWIDE.WAV - Utopia District(

【主催者】 My Pet Flamingo(在ウェールズのヴェイパー系レーベル)/Utopia District(すでにおなじみのヴェイパーポータルサイト
【予想される音楽傾向】 フューチャーファンク & クラシックヴェイパー
【主な出演者】 Bl00dwave/b o d y l i n e/猫 シ Corp./CVLTVRΣ/Saint Pepsi/b l u e s c r e e n/Tupperwave/等々々

さあ、ぜひともチャンネルを合わせましょう!

紙魚丸『惰性67パーセント』 - ちょっと 行きます、ヴェネツィアにまで

このところ私がなぜか《アート》に関心を持ち気味ですので、ひとつアートの香りの豊かなまんが作品を、ご紹介しましょう。
それは、月刊ウルトラジャンプ掲載の、紙魚丸(しみまる)先生による惰性67パーセント(2014-連載中)。
そのヒロインをはじめ、主要な登場人物らはすべて美術大学の学生ですので、いやが上にもアートっぽさは少なからずある──はずです。

ですが。

読んでおられる方々はご存じのように、このお話は……。
かなりひまであるらしい大学生たちが、やたらひんぴんと酒盛りに興じ、その酔いのはずみやら何やらで、エッチなハプニングらが生じがち。
……といった物語でも、あるもよう。

今作のヒロインである《吉澤みなみ》さんがユニークな女性で、実におおらかというのか。彼女のアパートに学友たち(男性らを含む)が、用もなく上がり込んできてたむろしがちなことを、ぜんぜん気にしていないようです。むしろ、歓迎している気味も。
ゆえにお話の舞台は、彼女の部屋であることが多いのですが。

そこで、私は想い出しました。

高橋留美子先生による名作ラブコメめぞん一刻(1980)の内容について、《アジール, 仏:Asyl》という学術めいた用語を用いて何らかの説明を試みたのは、大塚英志さんだったと記憶しています。
そのアジールとは、《聖域》とか《避難所》とかいう意味の語らしくて。
つまり、社会の中にいまだしっかりした居場所のない者たち──『めぞん』のヒーロー《五代くん》のような学生らをも含む──の居場所、〈モラトリアム〉っぽい人たちの宿りの場、すなわち《一刻館》はアジールなのである、といったお説があったような気が。

と、そんなことが言われるなら、みなみさんの住まうお部屋も一種のアジールなのかなと、さっき私は思ったのです。
そして、そこからもう少し考えてみると。

いま私たちが見ている『惰性67パーセント』の内容には、その『めぞん一刻』に似ているところが少なからずあるな、という気がしてきたんですよね!
いや、それはもう、まずアパート住まいの学生たちを描くラブ&おピンク・コメディだという両作品の大わくが、ほぼ同じですが。

それと両作には、人物たちがやたらに大酒を喰らって泥酔、その状態をてこにして展開、というエピソードらが目だっているようです。
つまり泥酔して、しらふなら言わないようなことを述べ、正気ならしないようなことをする。しかもしばしば、酔いがさめてから、そのことを忘れている。そしてそこらから、ハプニングの連鎖が発生──。

まず『めぞん』の場合、そんな泥酔エピソードの数そのものは多くなかったようですが。しかしそれらが、重要めいた場面らに出ているのが印象的でした。

すなわち五代くんが、ある夜、泥酔まぎれに彼の意中の女性である《響子》さんに〈好きじゃあああ!〉と告げて、しかしそのことをさっぱり忘れてしまう。
また別の日に、五代くんは酒のいきおいで悪友の誘いに応じ、何かの風俗店に彼の童貞を棄ててきてしまう。しかもそれがすぐばれて、響子さんは超おかんむり状態に。

といったことからお話が、展開したりこじれたりしていた気がします。……ちょっとこういう作劇には、ひきょうのきらいがなくはない、とも思うのですが。

そのいっぽうの『惰性』には、そういうお話の中での重みがない代わりに、まいど乱発しすぎです、そんな泥酔エピソードらを!
まあ、ささいなところを例で言うと。酔いのいきおいで女性たちが服を脱ぎ始めるので、その場の男たちが動揺したり逃げまどったりする(第6話)、など。

と、いうところから、すでにお察しかも知れませんが。
『めぞん』と『惰性』の重なる特徴のもうひとつは、それぞれのヒーローめいた男性キャラクターたちの、小心で消極的、おくびょうで優柔不断──、そういうところです。

まず、『めぞん』の五代くんがどういう人であったか、それについては皆さまもご存じだということにして。ここでは、『惰性』のヒーローめいた青年《西田くん》について、少し見ておきます。

みなみさんと同じ美術大学の、アニメ科の3年生であるらしい西田くん。やや小柄で、かわいい感じの男の子です。もちろんけがれなき童貞です。なかなかりっぱなマンションに独り暮らししており、ご実家の裕福さが察せられます。

で、この青年が! とくに用事はなくとも女子大生のお部屋に上がり込んで、へいきでダラダラしている──という異様な図太さと、それに対してうらはらな、小心・消極・おくびょうで優柔不断というところを、まいど魅せつけています。
彼は気の合うみなみさんと、いまにも男女的な関係になりそうでもありながら、しかし彼のほうから、そういう方向にことを運ぶことはしません。むしろ、そういう流れを、必死になってまで避けているようにさえも見えます。

なぜでしょう? 私からその理由の、〈説明〉をこころみますと……。

みなみさんに対して西田くんが、〈ぼくの恋人になりなさい〉とでも言ったとすれば。それに対する彼女の反応がどうであれ、彼は気のおけない異性の親友のひとりを失ってしまうでしょう。
だとすれば、《ゲームの理論》的な計算によりまして、自分からは動かないのが得策なのでしょうか? そういうわけなので、タイトルに言われた《惰性》が67パーセントの姿勢を、西田くんは保ち続けるのでしょうか。

かつまた。いらだたしい気にさせられることですが、この西田くんは、みなみさんだけをパートナーとして求めてやまぬような、そんな忠誠心などは持ち合わせていません。
もっと他に、ベターなパートナーの候補がいるのでは……と。そんなことを夢想するので、とりあえず決定的な選択や行動らをしない。というか、何もしないのです。

かつまた。実にいらだたしい気がしてならないのですが、この西田くんの行動の原理として、まず自らが《無罪 - 無垢 - innocent》であることを求めてやまぬ、ということがありそうです。
ゆえに、エロス的なハプニングたちへの参加や加担をかたくなに避けようとして、しばしばコミカルな行動に出るばかりか。また、見通しのない男女関係に踏み込むことなどは不届ききわまる、のようなことを口で言ったりもします(第61話)。

ですけどそれは、要するに《責任》を負わされたくはない、ということでしょう。

西田くんの習慣でもあるアダルトビデオの鑑賞などは異なり、現実の女性らについては、その身体にちょっと触れるだけでも、小さくはない《責任》が生じそうです。まして性交などにおよんだりしたら、そこから生じる《責任》は無限大である、とも考えられます。

そうした無限の《責任》を想定し、かつそんな責任を取れない、または取りたくないのだとすれば、まさにジャック・ラカンさんの言われたごとく、《性交は不可能である》でしょう。まあ、ちょっとその言の意味を、曲解していそうですけれど!

また別に私は、そんな西田くんの姿勢をおかしい、成り立っていない、などと非難したいとも思っておりません。
じっさいに誰をも傷つけていないなら、いいのではないでしょうか? そうやって責任らを回避し、決定的な行動におよぶことを避けつづけ、《無罪 - 無垢 - innocent》であるチェリーくんとして生涯をまっとうすれば、やがてあっぱれ天国へでも召されるのではないでしょうか? そんなものがあった場合には。

で、ここで高橋留美子先生の、もうひとつの名作うる星やつら(1978)の内容を思い出しますと……。

けっきょく《男》たちが求めているのは無責任なハーレム生活のエンジョイであり、その実現が不可能なら、せめて想像の世界にそれを建設するでしょう。私たちの西田くんにしても、本音ではハーレムを求めてやまぬ的な傾向が明らかでしょう。
ところが、そこへ。押井守監督による劇場版アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)の結末あたりでは、どこかで見たような姿の幼女がヒーローの前にふと現れて、〈セキニン、とってね!〉と、実につや消しなことを言います。

と、いうアニメ『うる星2』のお話は──。想像の世界のハーレムを超えるような手ごたえを何か求め、《現実》めいた世界で何か行動をするなら、おのずとそこに責任が生じてしまう──。くらいの意味と、解釈できなくはないでしょう。
そして、少なくはない男性たちはそこらで観念し、せめてそうした責任を、引き受けるようなポーズくらいは示しながら、生きているのでしょうか。

しかし──ゆえに──私たちの西田くんは、そうした責任の生じてしまいそうな《行動》のすべてを、回避しながら生きていきます。
これは、かの偉大さがきわまった『うる星』シリーズのヒーロー《諸星あたる》くん、その衰退しきった後身の姿でもあるのでしょうか。〈無責任なナンパ活動 -と- 責任逃れの無作為〉、両極端にも見えるアチチュードらの根本は、同じものなのでしょうか。

なお。ここでお話の流れを変えて、《作家論》みたいなことを少し述べますと。

『惰性』以前の紙魚丸先生は、もっぱらアダルトコミックの分野でご活躍なされていたことを、まんが通である皆さんはご存じだと思います。そちらの分野では、たぶん三冊くらいの単行本が出ているようです。
で、あくまでも参考資料として、そちらの作品らを拝見し、『惰性』と比較してみると──。

見てきたように『惰性』では、不自然なまでに、作中の男女らが性的な行動をしない。少なくとも、じっさいの相手のある性的な行動をしない。
が、そのいっぽうの紙魚丸先生のアダルト作品らでは、いくらポルノであるにせよ不自然なまでにイージー&とうとつに、作中の男女らが性的な行動へとおよぶ。主に、女性側の積極性によって。

このふかしぎな対照性が、ひとまず存在しそうに思えます。しかし《ジャンル論》で考えてしまいますと、そこにふしぎはありません。

とは──。まず、アダルトコミックであるならば性的な行為や行動らが、“必ず”、描かれなければならない。
いっぽう一般誌のおピンクコメディでは、その決定的な行為が描かれてしまうと、そこで物語が実質的に終わってしまう。よって、いわゆる〈寸止め〉が──その果てしなき連鎖が!──あるべき。

ですが、そんなジャンル論的な見方などを押し通すのではなく……。

いずれにしても、男性らの側の《責任》のなさや軽さが、きっちりと描写されています。〈無責任な性的乱脈 -と- 責任逃れの無作為〉、うんぬんです。
その一貫性を、紙魚丸先生の作品系列に、私は感じました。

言い方を換えれば紙魚丸先生は、“バランスの取れた適切な男女関係”みたいなものは、描かないのです。ただしそんな、“適切な男女関係”というものが、どこかに実在するのかどうかは存じません。これも曲解でしょうけれど、ラカンさんのまたいわく──《性的関係は存在しない》

というわけで、何も《行動》をしないなら何らの《責任》もない。それはそれでよいのでは(?)──という、いったんの結論が得られたとしましょう。

あ、いや、その。『惰性67パーセント』というまんが作品の、まず基本的な構えみたいなものをご説明しようとして、なぜかここまでの長いお話になってしまいました。

ではこの作品が、ふくいくと格調も高くかぐわせている《アートの香り》なんてものが、存在するのでしょうか。いやしくも美術大学が舞台であるようなお話として。

それが、ぜんぜんなくもないということで、ひとつのエピソードをご紹介します。

──すでに3年生になっているみなみさんたち、そろそろ卒業後の身の振り方を、意識せざるをえない時期です。
そこで、考えたのか考えていないのか、みなみさんは、〈卒後は画家としてやっていく、就職なんかしない〉、などと言い出します(第54話)。

なお、ここまで説明していませんでしたが、みなみさんは絵画科の学生で、かつアダルトコミックの制作に多少の実績があります(第1話、第37話、等々)。そこで、後者のスキルを活かして生活費を稼ぎつつ、アーティストとして活動していくというのです。
で、どういう未来のプランを彼女が思い描いているかというと──。

〈いきなり銀座は ハードル高いから 表参道あたりで 小さなギャラリー借りて 個展を開くだろ……
最初はそれほど 注目されないんだけど たまたま来日してた ニューヨークの キュレーターの目に 留まるんだ
その後 ヴェネツィア ビエンナーレにも出展
国内より むしろ 海外で人気が出て 逆輸入する形で 日本でも注目され〔…〕
画集がバカ売れ クレジットカードの 柄とかになったり
〔そしてついには作品が、〕落札されてしまう…… オークション 2000万ドルで……っ!!〉

という誇大なる妄想をとうとうと聞かされて、彼女の親友らは呆れ返るのですが……。

そのいっぽうの西田くんの姿勢は相変わらずで、どうせ失敗するから就職活動なんかしない、もういっそ《院》にでも進学しようか……と、実に後ろ向きです。決断は先送りして《行動》をしなければ、とりあえず許されるはず、と思い込んでいるふしがありありです。

──ところで、みなみさんの将来のプランですけれど。

その実現はきわめて困難だとは思いますが、しかしぜんぜん不可能でまったくの無意味、でもないんじゃないかな……という気が、私はするんですよね!
何ら《責任》を取る気のない立場から言いますが、やれるところまでやったらいいように思います。その活動を10年間も続けてヴェネツィアあたりにまで行けなければ、さっぱりとあきらめがつくでしょうし。

なお。2000万ドルはなかなかないでしょうけれど、前の記事で名前が出たイギリスの女性アーティストであるトレイシー・エミンさん()、その代表作らしき立体作品『マイ・ベッド』(1998)は、2014年に約436万ドルで落札されたことがあるそうです()。

それがどういう作品であるか考えると、いずれみなみさんの作品にも10万ドルくらいの値はつかないでもないのでは、という気もしてしまいます。
むしろ絵なんか描かずに、いつも散らかった彼女のお部屋を、そのまま《インスタレーション》にでも仕立てると、意外に好評を博するかも知れません。『マイ・ルーム』、とでもタイトルづけして。

では? 仮にみなみさんの『マイ・ルーム』にはろくな値段がつかずだったとして、それと436万ドルの『マイ・ベッド』との違いは、いったい何なのでしょうか?

そんなものはおそらく、〈なぜビットコインの価格が現在このようであるのか?〉という質問と、同じような答になるのでしょう。ですけれど、それもひとつの、無視はしえない《現実》とやらの一部分ではあります。

ともあれ私たちには、どういう《責任》を取る気もぜんぜんないので(!)。よって、西田くんはいつまでその清らかさをキープし続けるのか、またみなみさんはヴェネツィアまで行けるのか行けないのか──、愉しみながら、それらを眺めていくでしょう。

コッティントン『現代アート入門』(2020) - 《抵抗のポストモダニズム》と Vaporwave

私たちのヴェイパーウェイヴは、まずとうぜんポップ音楽であるとして……。と同時に、あり方として、《現代アート》にちょっと関係がありそうでしょうか?
それは音楽の《レディメイド》、またはポップアートや《アプロプリエーション》、それらに近い仲間であるのでしょうか?

そんな思い込みから、少し私は《現代アート》みたいなものを調べています。

──ということで見た文献らの一冊が、いまご紹介する、デイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』です。
その著者は英キングストン大学の名誉教授でおられ、ご専門の分野はキュビスム絵画だそうです。英語の原著は、2013年に刊行されています。

ですが……。『〜入門』というわりにこの本は、あまり初心者向けではない気もします。
そもそも、わずか200Pほどのハンディな本です。仮にポップアート以降(1962〜)に対象を絞ったとしても、その“すべて”を分かる感じに、その中に記述しつくすことはむりでしょう。

まあともかく、本書の記述の中ではっきり示されているのは、アートを支えている──と言えなくもない──、《マーケット》の重要性です。
現代アートと資本主義との、切っても切りようのない関係が強調されています。

〈〔1960-70年代に話題を呼んだ、〕ミニマリズムコンセプチュアル・アートの作品の売れ行きはさほど芳しくない結果となった。
〔…〕結局それは、絵画作品やポップほどの楽しみを与えてくれるものではなく〔…〕そのせいでいくつかのギャラリーが潰れた。〉

(p.44, 改行は引用者による)

そういうことで、ミニマルとコンセプは、ビジネス的にはダメでした。批評家すじの評価がよくても、見ばえのしない《アート》の商品性の薄さは、いかんせんでした。
そこでアート業界は1980年代初頭から、〈具象への回帰〉を意図的に仕掛けていきます。そして、その《ニューペインティング》か何かいうグッズのキャンペーンが、大成功してしまいます。

かくて、《アート》のような業界にさえもはびこっている、いまわしきルッキズム

──ずっと前から、私は考えていました。しょせん私たち大衆は、《アート》みたいなものを拝見しても、イラストレーションやデザイン、さもなくば、まんがの一種としてしか、それらを眺められていないのではないか、と。
そして、つまりはそうであるようです。ゆえに、《アート》であろうと見ばえは重要です。高尚さを匂わせながらも、一定量の感覚的な快を、受け手に与えなければならない──と、歴史がそのことを証明しているようです。

また、その逆のところをも、見ておきますと。例のジェフ・クーンズさんという超セレブ的な《アーティスト》が、存在なされるようですが……。
たとえば彼の、何かと金ピカに塗られた作品群。それは、〈どうせ現代アートを買う者なんて、悪趣味な成金しかいない〉というマーケットの状況をクールに見すえ、その趣味の悪さにあっぱれ迎合して大成功したグッズ類である──、と、大いに高く評価できるでしょう。

《ポップ》の代表的アーティストのひとり、クレス・オルデンバーグの1960年のマニフェストより──
〈包装紙を剥ぎ取った後に子供が舐める芸術の側に私はいる。夜を照らす明滅する芸術の側に私はいる。〔…〕クール・アート、セブンアップ・アート、ペプシ・アート〔…等々々…〕の側に私はいる。〉

(p.149)

むじゃきですよね! セブンアップペプシコーラ等の、ラベルをデザインするようなお気持ちで、ご制作をなされていたのでしょうか。

でまあ。ともあれ、商業文化や大量消費文明を批判している感じの《アート》たちでさえ、それらもまた、商品であるしかないようです。
このジレンマは、どうにかなるものなのでしょうか? 次のようなことが書かれています。

〈一九八三年〔…〕批評家ハル・フォスターが、答えのきざしを示唆している。


今日の文化政治における基本的な対立は、モダニズム脱構築しようと努めることで現状に抵抗するポストモダニズムと、モダニズムを拒絶して現状を讃えるポストモダニズムとのあいだにある。
すなわち、抵抗のポストモダニズムと反動のポストモダニズムがあるのだ。
〔…そして前者は、〕文化的なコードを食い物にするというよりも、問いに付そうとするのであり、社会的・政治的関係性を覆い隠すのではなく、探求しようとするのである。

アメリカ人芸術家シンディ・シャーマンとバーバラ・クルーガーは、〔…フェミニズム的であるだけでなく、〕こうした文脈にも位置づけられる。〉

(p.162, 改行は引用者による)

《抵抗のポストモダニズム──とは、実にすばらしく聞こえのよいキャッチフレーズです!
しかし、その好例が、いまだにシンディさん&バービィさんなのでしょうか。もはや、30年以上も前に脚光を浴びたアーティストらであるようですが……。

ここで私の想い出話を、少し書かせていただきましょう。

すでに20年くらい前のことですが、とあるヤボ用で私は、米ロサンゼルスを訪れました。初めての海外旅行でした。
その旅程の中の、一日の空き時間を利用して私は、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)を訪れました。

そのときの、展観。まず、さきに名の出たオルデンバーグさん、そしてラウシェンバーグ、ウォーホル、リキテンスタイン……といったネオダダやポップのヒーローたちの、画集や雑誌で見たような作品らが並んでいたと、記憶しています。
そして私も少年時代には、そうしたお作らの図版を見て、〈いいなあ、カッコいい!〉と感じていたと思います。

ところが。そのとき、長じてから眺めたそれらの実物は、きわめて貧弱で薄弱なこさえもの、という印象にしかなりませんでした。──それが逆にいいのかも知れませんが!

それから館内を少し歩くと私は、マーク・ロスコさんの絵画を5〜6点ほど並べている部屋にいたりました。そしてそれらを眺めることによって、ついに──やっと──、太平洋を横断する私の旅は、意味のあるものになったのです。

けどまあロスコさんへの賛辞なんて、いまは月並みすぎて、あまり述べたくないですよね!
ちなみにコッティントンさんの記述の中でも、いま議論の余地なくすばらしいと言える現代アートの代表として、ロスコとポロックが呼び出されています。実にノーマルです。

──で、そうしてロスコさんのコーナーで多くの時間を使ったあと、さいごに私はミュージアムショップへと足を運びました。
そうしますと、そこで異様に目だっていたのが、キース・ヘリングさんあたりに並んで、さきに名の出たバーバラ・クルーガーさんのグッズ類、《商品》でした。〈店長すいせん! 品切れ注意! いま売れています!〉、とでも言わんばかりのいきおいで。

これが、《抵抗のポストモダニズム的なアーティストのある場所です。

いや、そもそも当時でさえ、〈おいおいバービィさんやヘリングさんとか、もう古いでしょうが〉と、そのとき私は感じました。失敬ですけれど。
それからさらに、目もくらむほどの長い歳月が過ぎ去って、いまだ現在もバービィさんが、私たちのクイーンなのでしょうか。ハートのクイーンであることを願っています。

……ここで私のささやかな想い出話を打ち切り、本書の記述へと話を戻し……。

バービィさんらによる《アプロプリエーション》以降の運動として、《YBAs(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)》のことが、少し書かれています。
とくにその一群の中でも、わざとらしくスキャンダラスな活動を続けているトレイシー・エミンさんについて──。言われるほどにはひどくない、目立ちたがりの道化の所業とだけは言い棄てがたい──、くらいな擁護があるようです。

エミンさんらのように女性のアーティストであったなら、仮にその性器をご披露するだけでも、何らかの意味が生じてしまう気配。だがその逆は、ないようです。
いまはそういう、《ポジション》を利用したアート活動にも、一定の意義は認められるでしょう。現在の情勢のもとでは。

それから本書の巻末近く、《インターネット・アート》というものの可能性が、少し点検されます。しかし、その決定的に目ざましい例は出てないようです。

そうしてほんとうの巻末は、次のようにしめくくられています。

〈さて、私たちは、資本主義の欠点を補うことで私たちを癒してくれるような芸術を望むのだろうか、あるいは資本主義に異議を唱える芸術を望むのだろうか。
あるいはそのどちらも、なのだろうか。
二兎を追うことが私たちにできるかどうかは、まだわからない。〉

(p.190, 改行は引用者による)

これが、名誉教授による考察のご結論であるようです。まず、“すべて”に先だって資本主義が存在し、それに対する何らかの態度を、アートは求められるのです(!)。すかさず迎合、あるいは逃避、さもなくば批判、等々々。
なお、文中で第一のウサギだと言われた《いやし系アート》の最高のサンプルが、また例により、たとえばロスコさんである、と書かれているようです。──ごく自然に。

そして、ここから私なりの結論を言いますと。

こうやって名誉教授のお説を拝読してきましたら、私たちのヴェイパーウェイヴというものが、きわめていい線を行っているように思えてきたんですよね!

New Dreams Ltd.: Fuji Grid TV EX (2011) - Bandcamp
New Dreams Ltd.: Fuji Grid TV EX (2011) - Bandcamp
ヴェクトロイドことラモーナさんによるCM
ソング大会です! 最悪の歴史的大傑作!

それは、まずエンターテインメントでありながら、かつ常に《資本主義》に──、そしてその生み出した商業文化と大量消費文明に、強く向き合っています。これらを意識していないヴェイパーなどは、超ありえません。

しかもそれ自体は、あざとい商品であることがありません。商業的なあざとさをパロディ化して、いつも大いにおふざけしながら。
そして、かなり多くの人がイージーにアクセス可能なインターネットを通じ、基本的には無料での鑑賞が可能です。それが《商品》としてふるまうにさいしても、〈音楽におけるフェアトレードの実現を目ざす〉──とする高まいなBandcampあたりを販路として、です。

かつまたこれは、アカデミズムに何ら関係ありません。どういう権威づけとも無縁であり、どこかの国民の血税からの支援を受けることもなく、かってに私たちは愉しんでいます。

と、ほとんど完ぺきに近い正当な構えを、私たちのヴェイパーウェイヴは備えてしまっているのでしょうか。実に美しく《抵抗のポストモダニズムであることを実現し、そして二兎も三兎もをゲット成功しているのでしょうか。

ただ。もしもヴェイパーに何らかの問題があるとすれば、これがロスコさんやポロックさんの作品らに匹敵するほどの崇高さまでは、持ちあわせていないことなのでしょうか? さもなくば……?

……いや、もちろん問題や難点らがひじょうになくもないとは、ヴェイパーについて考えています。ですがそれらのことは、いずれまた別の記事でお書きしましょう!

Wanz Dover: Music For Hospitals (2015) - あなたはよくなります、きっと。

《Wanz Dover──ワンズ・ドーヴァーさんは、米テキサス州ダラスをベースに活動しているテクノ系のDJ/プロデューサーです()。

そして2015年リリースの“Music For Hospitals”は、彼のおそらく唯一のアンビエント作品です。けれどもそれが、ワンズさんのここまで最高の成功作、のようにも言われているもよう。

作者さん側の事情はあとで見ることにして、まずこの病院用の音楽を一聴しましょう。アルバムは、全7曲・約52分を収録しています。

すると。実に息の長い展開でピアノとストリングスがゆったりとからみ合うなどして、きれいで静ひつな空間がかたち作られています。〈きっとよくなりますから!〉という、やさしいナースさんのささやきが聞こえてきそうです。
また、構成の原理は違うでしょうが、かのブライアン・イーノさんの『ミュージック・フォー・エアポーツ』)が参照されているところもありそうです。じゅうぶん実用にたえうるサウンドだ、と言えるでしょう。

ただ。6曲め、“IV Change”というトラックだけトーンが違い、私のきらいな周波数のドローン音と、さらに金属音のカチカチ連打が含まれています。
これは、ありません。あるいは、病院でなされる患者に対しての過酷な処置が、描写されてでもいるのでしょうか。

気になったのであとから調べたら、“IV Change”は、点滴の交換みたいなことのようです。“intravenous”を、略してIVと呼ぶもよう。

まあちょっとその6曲めが、イヤです。しかし続くラストのトラックがまたきれいなので、じゅうぶんに許せる〈玉にきず〉だと考えられるでしょう。

で、さて。そういうものとしてこの病院用の音楽を、折にふれ愉しんできましたが。

ですがそして。この音楽が作者ワンズさん自身の、瀕死にまでおよんだ何らかの傷病、それに続いた2週間の入院生活──、それらにインスパイアされたものであると、私が知ったのは、比較的さいきんのことです。

どうやらワンズさんはダラスではかなり知られた存在らしく、地元メディアがそのお話を、やや詳細に伝えています()。
もともとアンビエント制作への意欲を持っていた彼を、じっさいに衝き動かしたのが、この実体験であったようなのです。

──私たちのような文明社会の人間たちは、基本的には病院で生まれ、またさいご病院で死ぬことが求められています。その人生とは、病院と病院との間を結ぶジャーニーなのでしょうか。
それを考えますと、《病院のための音楽》というジャンルには、今後の大いなる発展の余地というものが──あるのでしょうか?

V.A.: NOBODY HERE, The Story Of Vaporwave (2020) - そして 反復され 続ける

フラミンゴという鳥が、なぜなのか、ヴェイパーウェイヴ or フューチャーファンクのシンボルとして、扱われます。そして《My Pet Flamingo》を名のっているのは、英ウェールズの実績あるヴェイパー系レーベルです()。

そして2020年6月にそこから出た、“NOBODY HERE: The Story Of Vaporwave”。これはオムニバスのアルバムであり、全25曲・約90分を収録します。
ラシックスタイルを中心に、レイトナイト系やフューチャーファンクなど、ヴェイパーの中でも比較的コンパクトに収まる楽曲らを、バランスよく収録していると言えるでしょう。

……で、このアルバムが、同タイトルの映画のサントラでもある、というお話なのです。
ヴェイパーウェイヴの約10年間の歴史を、証言でつづったドキュメンタリーのようなものとして、企画されたフィルムのようです()。

ただし、その映画はいまだ公開されていない感じです。違うのでしょうか、調べてみて、いかなる形でも公開されていないようなのですが……。
あるいは、これもまた、COVID-19の蔓延などのせいで、いろいろなことが遅れているのでしょうか?

けれども。ここで悪い冗談を言うと──あくまでも冗談ですが──そのようなフィルムは、完成されず公開されないほうが、より面白いような気もします(!)。
なぜなら私たちのヴェイパーウェイヴは、“vaporware”──アナウンスされるが完成されることのないソフトである《ヴェイパーウェア》──、それをもじった名称を持つからです。ですから、あれやこれやが形を成すにいたらないまま、ふわり蒸気として消えてしまっても、とくにふしぎはありません。

いや。悪い冗談はともかくとしまして……。
……そもそもこのフィルムは、クラウド・ファンディングで千名を超える有志たちから製作資金を集めているので、〈できませんでした!〉ではすまないでしょう()。ぜひ、遠くない将来の完成と公開されることを望みます。

さてなのですが。

この一連のプロジェクトのタイトルである、“NOBODY HERE”というフレーズに、いやでも私たちは聞き憶えがあるでしょう。
かんたんに〈説明〉してしまいますと、これはヴェイパーウェイヴにとっての重大な、《外傷的》であるフレーズです。

それは、もっとも広く知られた形では、“Chuck Person's Eccojams Vol. 1”(2010)──このアルバムに、暫定的なタイトル“Untitled B4”として、現れています。
そしてそのアルバムが、追って伝説として──ヴェイパーウェイヴのはえある第0号として──その決定的なプロトタイプであるプロダクトとして──、私たちを崇拝させています。

ふだん私はヴェイパーらのもと素材を、あからさまには記述しません。けれども、これについてはあまりにも周知のことなので、書くと。
この……カセットであればB面の4曲めとなる無題のトラックでは、クリス・デ・バー「レディ・イン・レッド」(1986)というソフトロックのヒット曲、そのごく一部がサンプリングされ、かつ強迫的に反復されています()。

誰もいない、ここには── 誰もいない、ここには──
誰もいない、ここには── 誰もいない、ここには──

もともとの唄で言われているのは、〈他には誰もいないのでイイコトしようぜベイビー〉、くらいなことでしょうか。
それがまあ、ごく一部だけを切り出され、かつローファイ化されエコー効果などを付加されたことにより、文意も調性もあいまいとなって……歓びとも苦悩ともつかない表情のオーガズムの継続的なニュアンスをまといながら……。

そうしてこの反復される言明は、《人間の消滅》、またはシミュラークルしかない時代の到来、そんなことを私たちに示唆しているのでしょうか。
そういう《意味》はともかくも、音楽として、きわめて強くインプレッシヴです。事情はともあれ、〈誰もいない〉です、ここには。

そして、その誰もいない世界に、私たちは送り込まれました。

なお。この“Untitled B4”とも呼ばれるトラックは、チャック・パースンさんの『エコジャムズ 第1集』よりも以前の2009年のDVDソフト、“Memory Vague”の一部として、すでに世に出ていたようです。
そちらの作者は、《Oneohtrix Point Never》というご存じの名義になっています()。
そして約30分間の音楽ビデオの、さいごの約2分がこの曲で、“NOBODY HERE”というタイトルがそこでは付与されています。

で、視てみれば、その。
人さまの曲らをかってにローファイ化&ツギハギしただけ、という《エコジャムズ》の方法も実にひどいですが()、かつまたこのビデオも、いかがなものでしょうか。

その映像の素材らは、すべてYouTubeからの拾い物だと、言われていますが。そして、それらから作られた《作品》が、また同じ場にアップロードされていることも、輪廻の因果の永劫回帰か何かでしょうか。

そして、私たちのヴェイパーウェイヴは。
この、チャックさんでありワンオートリックスでもある、ダニエル・ロパティンさん──その狂気めいた洞察を、ありえない奇妙な何かの確信を、そして他のことに還元できないその《外傷的》な印象を、あくなく反復しようとし続けています。

それが外傷的であるがゆえ、それが受け容れがたいものであるがゆえ、それはしつように、《反復》され続けるのです。
かつ。そうして《反復》のなされ続けることがまた外傷的ですが、しかしその苦痛にも近い感覚を《無意識の主体》が、大いに享楽しています。

で、ここから、音楽アルバムとしての“NOBODY HERE: The Story Of Vaporwave”、そこへと話を戻しますと……。

全25曲からなる今アルバムの、冒頭と末尾に、ロパティンさんの“NOBODY HERE”のリミックス・バージョンが収録されています。
そこらを聞いておりますと、ほんとうにいまの私たちには、還元しようのない体験と印象をただ、《反復》し続けるしかできないのだろうか、という気もしてしまいます。

とはいえそうした反復は、なされ続けなければなりません。それが、《享楽》を供給し続けていますから。

かつまた。急にフラットなことを言い出しますが、〈いいとは思うが、“それから10年”という進歩が感じられません〉という印象になりそうなのは、このアルバムがおそらく意図的に、クラシックスタイルおよび真のクラシックであるヴェイパーたちを、集めているせいでしょう。

つまりこのサントラについては、ぜひのご一聴をおすすめします。愉しめます。
そうしてドキュメンタリー映画であるほうの、“NOBODY HERE: The Story Of Vaporwave”。そのぶじの完成と成功をも願いながら、いまは筆をおくでしょう。

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
“NOBODY HERE: The Story Of Vaporwave” released by My Pet Flamingo label in June 2020. This is an omnibus album, which contains a total of 25 songs and about 90 minutes.
It can be said that it has a well-balanced selection of songs that fit relatively compactly among Vapors, such as Late Night Lo-Fi and future funk, with a focus on classical style.

And the story goes that this album is also the soundtrack to the movie of the same title.
It is said that it will be a film designed as a documentary about the 10-year history of Vaporwave.

However, it seems that the movie has not been released yet. When I looked it up, it didn't seem to be published in any way ...
Or is this also delayed due to the spread of COVID-19 and so on?

However. To make a bad joke here ── just a joke! ── I think it would be more interesting if such a film wasn't completed and released.
Because our Vaporwave has a name that is a play on “vaporware” ── software that is announced but never completed. Therefore, it is no wonder that this and that does not make any forms and disappears as fluffy vapor.

No, bad jokes aside! I hope the film will be completed and successful in the near future.

And the phrase “NOBODY HERE”, the title of these projects, must be familiar to us.
To put it simply, this is a serious, traumatic phrase for Vaporwave.

It appears in its most widely known form as a track with the tentative title “Untitled B4” on the album “Chuck Person's Eccojams Vol. 1” (2010).
And that album later make us worship as the legend, as the glorious No. 0 of Vaporwave, the definitive prototype product.

NOBODY HERE ── NOBODY HERE ──

Only a small part of the original song was cut out, and it was Lo-Fied and an echo effect was added, so the meaning and tonality became ambiguous ... And while wearing the continuous nuances of orgasm with an indistinguishable expression of joy or anguish ...

Does this obsessive-compulsive statement suggest to us “the disappearance of human”, or the arrival of an age in which there is only “simulacre”?
Regardless of the meaning, the music is very strong and impressive. Regardless of the circumstances, there is nobody here.

And we were sent into this world nobody here.

And we continue to repeat that traumatic impression because we cannot accept it or understand it. This music album is also considered to be one of the results of such repetition.
And it is also traumatic to continue to be repeated in this way, but the unconscious subject greatly enjoys the feeling like pain. This is entertainment, yeah.

And we enjoy that there is nobody here.

V.A.: NOBODY HERE, The Story Of Vaporwave (2020) - Bandcamp(
NOBODY HERE, The Story Of Vaporwave - nobodyherefilm.com(
Chuck Person's Eccojams Vol. 1 (2010) - archive.org(
Oneohtrix Point Never: Memory Vague, Full DVD (2009) - YouTube