エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

平尾アウリ『推しが武道館いってくれたら死ぬ』 - 推してもダメなら…っ!?

平尾アウリ『推しが武道館いってくれたら死ぬ』──略称は『推し武道』──。
これは岡山県をベースとするローカルな女性アイドルグループ《Cham Jam》の活動を、ファンのサイドとアイドルの側、両面から描いているマンガです()。

その第1話の雑誌掲載が2015年8月であるようなので、現在ちょうど連載が、約8周年を迎えています。単行本は、2023年7月の現在、9巻まで既刊。

ここでふいに、まえがきです。

さてこの記事は、アイドルのマンガのお話ということなので……。
続く記述の、ほぼなかばに、〈何らかの方法で“アイドル”を題材としているヴェイパーウェイヴ〉という話題が、ちらりと出ます。

そして。せっかくだと思ったので、そういう傾向のアルバムらをいくつかみつくろって、ページ内の随所でご紹介しています。よろしくね!

それで、私としてもこのマンガについてほぼ8年、けっこう長いおつきあいになっている感じです。
ああ……。思い出そうとすると、読みはじめましたころには、今作のタイトル中の超重要ワード──《推し》という語、その意味というかニュアンスを、ぜんぜん知らなかったんですよね!

それをいちおう説明すると、ファンがアイドルを応援することを“推す”と言い、その対象が、《推し》と呼ばれるのです。
それさえ知らず──。というか私はこのマンガにふれるまで、作中で言われる〈地下アイドル〉のシーンについて、ほとんど何も知りませんでした。

であったので──。いちいち意味の分からないその世界の独特のジャーゴンやタームらを、いちいちネットで調べながら読んでいました。作の内部にそれらの説明が、ないことはないですが、十分ではないと感じられたので。
──ということは、ものぐさな私にそんな多少のめんどうをさせるほどに、強く魅きこんでくるところがあった、あるのですね、今作こと『推し武道』には。

何がいいのかというと。

まず、作者・アウリ先生特有の、すっとぼけすぎているギャグ&コメディ要素。これはきわめて感覚的なもので、説明がむずかしいのですが……。
そのナラティヴが、いちおうはリアリズムの水準で進んでいるのかと思えば、とうとつにガッツリと、〈マンガ〉くさい展開がぶつかってくるのです。

えーと、たとえば……。今作のWヒロインの片方と呼べるアイドル《舞菜〔まいな〕》さん──名前からして〈マイナー〉なだけに、あまり人気がない──その公式のイメージカラーが、サーモンピンクというびみょうな色なのですが……。
それがもう、どうかと思いますが……。

さらにそうだからと言って、プロモーション用の写真でサケの切り身をアクセサリーかのように持たされている(第2話)……これは、ないんじゃないでしょうか!?
もう、ずいぶんな〈マンガ〉ですよね!

──そして。その舞菜さんを過剰にホットに“推し”ているのが、ファンのサイドのヒロイン格である《えり》、通称えりぴよさん。
さいきんはあまりないですが、初期にはこの人が、やたらによく血を出しケガをすることが、印象的でした。そのいちばんの大ごとと思われるのは、交通整理のようなバイト中、クルマにはねられ片足を骨折したことですが……(第8話)。

ところが。その事故のすぐ翌日、松葉杖はつきながらも、ほとんど平気そうな顔をして、はつらつとアイドルライブの会場に来ているんですよね!
〈タフということばは、えりさんのためにある〉のでしょうか……っ!? これがまた、ずいぶんな〈マンガ〉です!

とまあ、そのような……かなり特異なセンスのコミカルな要素らがありまして。

そもそもアウリ先生のマンガはいつも、登場人物らのほとんどが、それぞれにエキセントリックなんですよね。あいきょうのある変人たち──などとも言えそうで、そのあたりが好きなのです。

それともうひとつ、今作で私が魅かれているのは、絵としての美しさ。

アウリ先生の画風は、いまはやりの萌え絵やアニメ風ではなく、かといって一般的な少女マンガともやや違う、きわめてユニークなものです。
これにもっとも近いものは、かの崇高なる《抒情画》──竹久夢二蕗谷虹児中原淳一、という三人の天才画家の名によって代表される──その流れ、なのではないでしょうか?

ですので『推し武道』では、グループ《Cham Jam》──その略称は、ひらがなで、“ちゃむ”──のアイドルたちが、あまりにも美しく描かれまして。
そしてそのせいで逆に、〈実は、そんなに大きな人気がない!〉という作中の現実との間に、やや遊離が?……とさえ感じられてしまうほどです。

と、そのように美しく、またコミカルに、かつ哀愁味をもまじえながら──われらのちゃむというグループをめぐる物語が、つづられているのです。

👩‍🎤 🎶 🤩

で、さて。ここまでは『推し武道』というマンガ作品の、一般的なご紹介をこころざして、述べました。
そしてこれからあと、私の感想/考察らしきことを申しあげますと。

今作こと『推し武道』は、ちゃむの活動をファンのサイドとアイドルのサイド、両面から描いています。
というのも。双方の人物たちが、意図的に──その世界のマナーとして──距離をとり気味なので、そんなには深く交わることがありません。

ゆえに。ある意味では作中で、ふたつの物語が並行で進行している、という見方もできそうです。

そして、アイドルのサイドのお話は、まあ分かるというか、言わば……やや〈ふつう〉ですよね!
岡山のローカルから出て彼女らは、全国的アイドルへのブレイクを、遠くに目ざしています。そのひとつの目標が、日本武道館でのライブの敢行です。

そのように、アイドルに限らず芸能人のような人らがサクセスを目ざし、奮闘するような物語らは、かなりのむかしから、ざらにあり続けている……のような言い方、少し失礼でしょうけど。
しかし、まあそうでしょう。

ですけれど、そのいっぽう。〈地下アイドル〉のファンのサイドの物語などは、その存在がユニークである──少なくとも『推し武道』スタートの時点では、実にユニークだったのではないでしょうか?

GeneractionX: 気さく (2020) - Bandcamp
GeneractionX: 気さく (2020) - Bandcamp
アイドル+'80年代PC、たまりません!

そういえば。私がかなり強く愛好しております、一種のポップ音楽で《ヴェイパーウェイヴ》というものが、ございまして。
そして、主に1980〜90年代あたりのノスタルジックな“もの”たちの引用・流用が、そのジャンルの特徴です。
かつなぜかニホンからの題材らが頻出し、よってその時代のアイドルさんたちの、楽曲やイメージたちもまた、しげく利用されています。

なお。付言すれば、そこで男性のアイドルというのは、あまり問題とされていない点が、『推し武道』と重なります。──が、それはさておき。

それで私も、そういうノスタルジアにひたりすぎですから。ゆえに、とくにことわりもなく、ただ《アイドル》と言われましたら、そうした時代のまばゆき高みにあったスターたちを、ついつい思い浮かべます。

ですけど、今21世紀の〈地下アイドル〉って、そんなものじゃないですよね!

──そもそも。歴史的な記念すべき『推し武道』第1話の出だしに、ちゃむの定期ライブの会場へ向かうファンたち……と、始まるエピソードがあります。
そうすると、会場である地下劇場ふきんの路上で、ちゃむのメンバーたち自身が手ずから、呼び込みのチラシを通行人らに配っています。

まあ、アイドルといっても、そのていど──ということです。
だいたいちゃむの活動を見ていますと、その随所に、プロっぽく“なさ”を感じるんですよね。いい意味でも、それ以外でも、まるで学園祭の催しかのような感じがあります。

それで、そうだからこそ。とても〈スター〉などとは呼べないレベルの〈地下アイドル〉たちを、ファンの側からも多少ならず気を使って、むりにでも少しは高みの位置に置こうとするのです。

──ですから。

述べた場面で、ファンたちとアイドルたちが、路上で多少の立ち話におよびますけれど。だがしかし、古参のファンである《くまさ》さんと呼ばれる男性が、割り込みかげんで、その会話を打ち切ります。

なぜならば、アイドルとファンとの関係は、〈形式化〉されなければならないからです。
その形式化がなされなければ、アイドルとファン、という制度化された関係が成りたたなくなってしまいます。
そうすればどうなるかというと、だいたいのところでは、若いお嬢さんにからんでいる中高年のおじさん、というみっともない絵図ができてしまうのです。

──ですから。

ご紹介しましたくまささんは、重要なわき役であり、われらがちゃむのファン一同の、リーダー格です。
そして。あまりはっきり言うことはありませんが、彼は〈形式化が大事、《制度》がたいせつ〉──ということを、強く意識しています。

そして。その《制度》とやらのエッセンスとは、ぶっちゃけた話、〈アイドルとの“接触”には、対価が要る〉ということです。
すなわち! さきに述べたシーンに続き、新参のファンのびみょうな無作法をやんわりとたしなめていく感じで、くまささんいわく──。

お金を出してこその接触/気持ちいいでしょう?
1000円で買う推しの5秒/興奮するでしょう?

解説すればおそらく、千円というお金を出せば、ライブ後の〈握手会〉において、彼の《推し》であるアイドルさんとの5秒間の“接触”が許され、その間に会話をすることもできる、ということでしょう。そこを堂々と追求していくべきなのだ、と。
さらにその金額を積み増して、たとえば1万円なら50秒の接触、といったこともできなくはないようですが……。しかし、高いですね!

なお。いま調べたら弁護士さんの相談料が、一般的かつ大まかな相場で、1時間につき5千〜1万円ほどだそうです。
これも安いという気はしませんが、それにしても〈地下アイドル〉ふぜいとの約1分間が、その高度な専門家との1時間と、同じ価格であるとは……っ!?

ですが、そんな法外とさえ思える“お金を出してこその接触──それこそが、バタイユさんの言われた“蕩尽”めいたスリルと興奮を呼び、かつ、ファンの側の自己肯定感をも、大いに高めるのでしょう。

というのも。

われらのくまささんは、自分の容姿や何かを過剰に卑下するあまり、《制度》の外での女性との“接触”などを、あらかじめ断念してしまっています。
その卑下があまりにも過剰だと、私には思えます──そんなにまでは見苦しい感じでもないし、何かと有能で思いやりのある人なんですけどね!

ですが。ともかくも、はっきり断念してしまっているので……(第5話)。
そこで。きっちりと形式化された“接触”に彼の情熱を注ぎ、それによって心のどこかを満たそうとしているのです。

そして。マネーをきっちりと出し入れしている限りは、この《制度》の中で人々は、セーフティです。

それに対し、形式化されざる制度外の人間関係は──とくに異性間のようなところに注目してみますが──言わば、ノールールの野試合みたいなもので、お互いがセーフティでありません。

そこにおいては、こちらが軽いジャブを意図して繰りだしたモーションが、相手に意外と激甚なダメージを与えてしまうかも知れません。
あるいはそのジャブへのカウンターとして、パンチではないナイフの必殺斬撃が、ザシュッと戻ってきてしまうかも知れません!

むろんそれらは、心理的とか社会的とかの意味において、ですが──いちおうは。

そしてそういうリスクらを、恐れるあまりに……。制度的に〈“推し”を推す〉という活動が、現在のニッポンにあるのではないかと、私は思うんですよね。通常の人間関係もしくは男女関係の、制度化され商業化された、代替で模造の品として。
それがまあ、『推し武道』から私の読みとったことの、ひとつなのです。

──それで。世を広く見たならランクのけっして高くない芸能人もどきを、過剰な高みに見あげて“推して”いくことの前提として、まずそのファンの側の過剰な自己卑下が、あるのでしょう。

この『推し武道』には、ファンの側の主要キャラクターが三人おられまして。ご紹介したえりさん/くまささん、そして《基〔もとい〕》くん。
いずれもりっぱな青年らであるようだと、私には思えるのですが……。

しかし彼らの自己評価が、いちように異様に低いらしいことが、強く印象的です。

〈青年らに特有の、根拠なき自信や全能感〉みたいなものが、かつて、あると言われていましたが……。そういうものが、いま、喪われつつあるのでしょうか?
このさいはっきり言いますと、あたら有為な青年たちの精神力/行動力/経済力などなどが、無為な〈推し〉活動において空費されているのでは──という印象は、見ていて少々あるのです。

ただし。述べたようなリスクもなく、そして対価とサービスの釣りあった(とされる)正当な取り引きの上の遊びですから、それが愉しいのも分かります。

しかも〈推す〉ということばには、あたかもいいことかのようなニュアンスがあるんですよね!
つまり芸能界などの、より高いところを目ざしている《推し》たちを、まさに下から、“推し”上げようとしている感じになるわけで。

だから、自分ではない、人のための〈いいこと〉ではあるまいかとも、錯覚ができるのです。

そういえば……。私もいちじは、少し考えました。作中のファンたちが、《推し》を推すためにものすごいらしい大金を使っているのを見て、〈いっそ本人にちょくせつ渡したほうが、いいんじゃないかな?〉……などと。

しかしいま思えば、ぜんぜん違いますね! たいせつなのは、形式化された制度内のギブ&テイクである、ということです。
かつまた、いちおうは文化的な活動であるというたてまえも重要です。推された結果、《推し》の格が上がるということがいちおうの目的であり、制度外の単なる贈与では、そういう効果がありません。

だいたい……。ちゃむ所属のアイドルたちは、給料やギャラのようなものをちゃんと受けとっているのかどうかも明示されないし、お金のことはあまり気にしていないようです。描かれている限りでは。
まあ、そのメンバーら七名の半分くらいはまだ高校生のようなので、生活費を稼ぐ必要などは薄そうなのですが。

ですが、そのあっさりおっとりした彼女たちも、仲良しですけどグループ内の序列のようなものは、ぜんぜん気にしていないわけでもありません。
そしてそれを上げていくためには、各自のファンからの推しマネーを、集めなくてはなりません。かつ、それもとうぜん形式化されている活動であり、ただ単にお金を求めているのではありません。

──別のマンガで見たのかも知れませんけれど、過剰にホットに推しているファンの人は、〈“推し”が高みに昇っていくための、こやしであれば自分はいい〉、などと言うようです。それと似たようなことは、よくえりさんも言っています。

ゆえにタイトルに言われますように、〈推しが武道館いってくれたら死ぬ〉わけです(第5話)。死んで何かがどうなるとも思えませんけれど、ともあれ《推し》への過剰な評価と、徹底した献身への意気ごみが、そこで言われているのです。

──と、そうした〈自分はどうでもいい〉という、はた目にはかなりふかしぎな自己放棄が、ここにはあるのではないでしょうか?

ただし。過剰に〈“推し”を推して〉いる方々は、その自己を放棄しながらのファン活動によって、逆に、かろうじて自己を保っているようでもあるのです。
自分と並んでいるファンらの中で、自分がもっとも自分を殺しながら《推し》を推しているのでは──という自己認識によりまして、はじめてその自己が、肯定されているようなのです。

そういえば。今作『推し武道』について、その宣伝は、〈現に推すことをがんばっている人々へのエール!〉、くらいを言っている感じです。
なお、また。私はほとんど視ていませんが、今作は、TVのドラマとアニメさらに劇場映画──と、映像化の機会に多く恵まれています。そしてそれぞれの宣伝がまた、そのようなニュアンスのようです。

ですけれど、自分なんかは、そういうタイプのファンではない気がするな……わりに遠い世界の驚くべきお話を、好奇心をもって愉しく眺めているのだ……とばかり、考えていたのですが。

が、しかし。特定のバンド等への執着はあまりないですが、私にしても〈ヴェイパーウェイヴ推し〉なので。その〈地下〉の──アンダーグラウンドな──ポップ音楽をちょっと推している感じですので、そういう部分での共感も、なくはないような気がしてきたんですよね。

ああ、いや、本格派の推しピープルに比べたら、何ひとつはげんでいないですけれど! だがそれにしても、ヴェイパー関係のコミュニティにて少しは存在感を示すことで、やっと自分を保っているような気配は自覚するのです。

👩‍🎤 🎶 🤩

また、なお。《推し》という語は英語では、“fave”という──という説を、どこかで聞いたのですが──。

ですけれど、違うと思うんですよね! 人が誰かのことを、〈お気に入り〉だと呼ぶさいに、その主体はとうぜん自分でしょう。
ところが《推し》という言い方は、そこを転倒させています。むしろ《推し》のほうが主体であって、その尊さがきわまった“もの”を、とうぜんの責務として自分が推させていただく──というような、変質的で倒錯的なニュアンスがあると思われます。

そしてそのような変質的なファン活動は、このニッポン国にしか、ないものなのかも知れません。あるのでしょうか、他の文化圏に──?
そして。そういうものがあってしまっている原因や前提は、むやみと人々の価値を押しさげて、そこに屈辱感と卑屈さのマインドを植えつけていく、このニッポンの社会なのかも知れません。

そして、その無法な価値の押しさげは、何のためなのでしょうか?
人々を安い労働力として使うため、まず人々に、自己卑下や自己放棄が強要されているのではないでしょうか。かの《総資本》なるものの、暗黙の意思により。

なお、そういえば。また別の、いま私が大注目しているマンガ、『劇光仮面』
特撮の方面のいきすぎたコスプレ・マニアたちを描くような物語ですが、その第29話が少々とうとつに、〈地下アイドル〉のことから始まるお話で……()。

そこにて作者・山口貴由先生は、次のようなことをはっきりと、ナレーションの形式で書いておられます。
そのファンである方々が、ダメ人間のド底辺かのように見られ自認するような人々だからこそ、逆に、あるいは相応に、低レベルな〈裏アイドル〉などを推してみることにいやしを感じるのだと……!

ですから。こういう見方に終始してもつまらないわけですが、〈総資本 ─ 階層の上位の“エンタメ”企業体 ─ いわゆる“運営” ─ 地下アイドル ─ ファン層〉の、マネーの循環を実現する、すばらしい《制度》があるな──とも、言えます。

むろん。〈マネーの循環〉などと申しましても、前記の図式の右側にある項らがピラミッドの下層であり、そしてひどい搾取をこうむるシステムです。
──偏見でしょうか? そして人々を〈地下アイドル〉などに喰いつかせるために、総資本の意思と操作が、あらかじめ人々の価値を押しさげるのです。

で、ところで。

私が見ているひとつのブログ、《LWのサイゼリヤ》というところがありまして。書いておられるLWさんが、私の知らない多くのことをよくご存じだなと、いつも感服しています()。
そして──。そのブログにおいては、アニメを視るとかマンガを読むとかいった行為らが、〈コンテンツ消費〉ということばで呼ばれています。

さいしょに見たときその表現を、〈あまりにもドライ!〉……ちと露悪的なのではないか、と感じたことを、すなおに告白いたしましょう。
ですけれど。“たかが”アイドルの追っかけをなすようなことを、何かいいことかのように錯覚させる《制度》のあるところにて、そういうドライな態度/見方の効用もあるな──と、近ごろは感じているのです。

べつに熱烈なファン活動がよくないとも言いたくはなく、しかし。
しかしいいも悪いもない、自分の愉しみのための〈消費〉であるくらいに、ニュートラルに考えたほうがいいのではないでしょうか。

それと。さっき名前だけ出た『推し武道』作中のファンのひとり、基くん……。

そのお仲間であるくまささんなどは、〈地下アイドル〉ファンとしてひとつのお手本であるまでに、その《制度》をきっちりと支持し、ぞんぶんに自分を殺しながら、彼のささやかで大きな愉しみを得ていますけれど……。

しかし基くんは、そんな解脱に近い境地になどは、いたっていません。

彼のようなファンのあり方を、〈リア恋勢〉と呼ぶそうなのですが──(第5話)。基くんはちゃむのメンバーのひとり《空音〔そらね〕》さんに、リアルの本気で恋着しているのです。
さらには、できることなら男女としてつきあいたい、結婚したい、とさえ考えています。

ですが。その想いを、はっきりと態度に出し、そして行動にまで移したならば、彼と彼女らを引きあわせながら引きはなしている《制度》が、そこで崩壊してしまうでしょう。
ゆえに基くんは、そういうことに、踏みきれません。

ですが。私は、その行動に踏みきったほうがいいのではなかろうか──と、感じているのです。

──ああ、そのいわゆる〈地下アイドル〉のシーンの内部的には、ファンがアイドルとの私的な交際を求めるなどは、完ぺきイリーガルでしょう。それはそう。
ですけれどその大きな外側の、広い人間社会、悠久の歴史、そして限られた生命の刻〔とき〕……くらいの尺度で見たときに、やりたいことならチャレンジしたほうがいい、と思えるんですよね。ストーカー犯罪者かのようには、ならない限りにおいて。

とはいえ──。

このマンガの登場人物らの中で私は、基くんに対して、まあ、もっとも共感できるところがあるのですけれど。
ですが、しかし。

ですがしかし、このマンガをユニークで面白い物語にしているのは、私がまったく共感も理解もできない──〈“推し”のためなら死ねる!〉みたいな奇矯きわまることをはばかりなく申され、じっさいにその生活のほとんどを《推し》にささげている、えりさんの存在なんですよね。
──それはもう、実に明らかに!

そんなおかしい人を、あるかのように描き、そういう人が世にいないこともないことを明らかにした──。これが、すごいでしょう?
もし、そうでなく。今作『推し武道』が基くんのお話だったなら、それこそざらにあり、あったような物語にしか、なっていなかったでしょう。おお!

で、そうして基くんが、今後どうするというのか……。いや別にどういう決断もしないまま、ということも考えられるのですが……。
……で、ここまで長らく愉しませていただいた『推し武道』も、そろそろ物語の終わりが、見えてきた気がしているんですよね。

というのは。ちゃむのリーダーで不動の人気No.1であった《れお》さんが、グループから、〈卒業〉しようとしているからです(第52話)。
それでれおさんをずっと強く推してきたくまささんは、そうなれば自分はアイドルファンであることを辞めるだろうと、嘆きに嘆いています(第53話)。

そうして。現在(2023年7月)の最新エピソードである第54話では、他のちゃむメンバーたちに強く引きとめられつつも、れおさんが、その〈卒業〉への決意の固さを語っています。

このマンガを眺めている私をも含め、われらの《Cham Jam》とともにある人々の、とても愉しい時間が過ごされてきましたが……。
しかしそうした愉しいときが、いつまでも続くものではないと、つらい現実がここに提示されているのです。

で、これが今作のエピローグの始まりなのかな……と、観測しているのですが。

ただし。私の予想や予測らは当たらなくて有名なので、ポストれおさん時代のちゃむの物語がさらに続いたとしても、さほどの驚きはありません!

👩‍🎤 🎶 🤩

──などと──。『推し武道』を拝見してきての〈感想〉を、まあ実に長々と、書きつらねてしまってまいりました。
ここまでをご高覧の皆さまには、深く心からお礼を申しあげないわけにはいきません。ありがとうございます。

……ですけれど、しかし。『推し武道』およびその周辺の話題については、まだ書きたりない想いがあるんですよね!

そのいちばんの心残りは……。フロイトさんの名著、『集団心理学と自我の分析』(1921)──これには、集団としてのファン(ミーハーさん)の心理を分析しているような一節が、あるのです。その卓見を、ぜひともご紹介しておきたかったのです。

そういうところもありまして、皆さまのご要望があろうとなかろうと、いずれこれの続編めいた記事を書きそうな気がしています。
そのせつには、ぜひよろしくお願いいたします!

それと、あとりっぱな蛇足なのですが。『推し武道』をきっかけに知ることとなった、〈地下アイドル〉かいわいの用語らについて。

その世界で言われているらしい、〈メンカラー〉だとか〈キンブレ〉だとか〈推し変〉だとか……。そのへんは──びっくりするような奇妙な語らではありつつも──まあ、分かります。説明を聞いたならば。

ああ、それと! いま本編を見ていたらその第1話に、〈鍵開け〉という異様きわまる隠語が、そっと出ていました。
あまり気をつけて見ていなかったようで、驚きました。

そこでいま調べたら、〈鍵開け〉とは、〈握手会〉での一番乗りを言うようです。逆にそのラストが、〈鍵閉め〉です。

だが、ですけれど、しかし。

他でも言われているようなことば──わりに一般的であるようなことばらが、何か独特な意味で使われている──。
そういう用語のいくつかについて、やや受けいれにくいものを感じた──ということを、いま述べたいのです。

そして。そういうものの第一は、今作の大前提にさえもなっているような、〈地下アイドル〉という語です。
とは。あえて〈地下〉だと形容するのなら、そもそも地上には出ようがないような性格や内容のあるものが、地下──アンダーグラウンドのポップ音楽だと思うからです。

そのとうぜんにして文字通りに永遠のお手本であり典型であるのは、かのヴェルヴェット・アンダーグラウンドです。

その演奏自体にいまだ破格でエクストリームだと感じられるところが多く、しかも唄らのモチーフで印象的なものが、ヘビー・ドラッグ/ビザールな性行動/バイオレンス、等々々……と、きていました。
そんなんでエド・サリバン・ショーに出演できるわけもなく、また、マジソン・スクエア・ガーデンあたりでライブができる見込みもありませんでした。ゆえに、大した〈地下〉のロックバンドで、あり続けているのです。

──あと、そういえば。ご覧のブログのタイトルもいま現在、《エッコ チェンバー “地下”》ですが。
──これは。そのメインの題材であるヴェイパーウェイヴという音楽めいたサウンドが、おおむね著作権無視の無断サンプリングからできているので、やはり堂々とおもての舞台では活動しにくいから、等々です。

で、そのいっぽうの、ちゃむはどうでしょうか?

そのパフォーマンス等にいかがわしいところがあるでもなく、また武道館という晴れの舞台を目ざし、かつテレビなどにもぜひ出演したい意向のようです。
それらのことは別にいいのですけれど、しかし何ら世間をはばかるようなところのないグループに、〈地下〉の……という形容詞は、似合いません。

──けれど、まあ。

それを実情に合わせて正確に、ローカルにしてマイナーなアイドルだと言いきってしまっては、あまりカッコよくはない……。
ゆえに、おかしいとも思えますが〈地下アイドル〉と呼称されていることを、大目に見なければならないのでしょう。

それと、もうひとつ。そうした〈地下アイドル〉たちのファンである方たちが、作中で〈オタク〉と呼ばれ、またそれを自称しています。

たとえば作中のえりさんは、舞菜さんという《推し》に対してのオタクである──と、いうように。またそのことを略して〈えりぴよは“舞菜オタ”〉、などと言われます。
さらには、アイドルらの中でも口にえんりょのない少女らは、楽屋あたりでファンたちを、こっそりと〈オタク〉呼ばわりしています!!(第15話など)。

そして〈オタク〉なる語のこういう用法は、現実の世界のアイドルかいわいにも、ほぼ同じようにあるらしいのですが。しかし。

そこらで私は、〈狭く特定された対象に対する、きわめて熱烈で忠誠心の篤いファン〉を、〈オタク〉と呼びかえてしまうことに、いささか反発を感じるのです。

なぜならば。私の思うオタクとは、対象である領域について、広く浅くカタログ的な知識らを漁り、かつそれらをむだにウダウダとご披露したがり──しかも、かってな思い込みを半分くらい混じえ──。
そしてわけ知りのギョーカイ通を気どり、へんに評論家めいた口を利くようなやから──で、あるからです。

ああ、いや。もちろん、それを言っている私にも、実にそういうところがあるわけですが! デュフフフ……。

かつまた。いま申しあげたような純ナマのオタクさんたちが、シーンの中には、いないこともないようですけれど。
しかし、ファンの側でスポットの当たっているえりさんら三人には、そういう性質が、ほとんどありません。

けれど、まあ……。オタクであったり〈おたく〉と書かれたりもすることば、その、“本来の意味”とは……? そのところから、まったく議論のつきていないところでも、ありますし……?
それこれの、ゆえに。現に言われているらしいアイドル系用語である〈オタク〉を、ひとまずは〈事実〉として、受けいれなければならないのでしょうか。


平尾アウリ『推しが武道館いってくれたら死ぬ』
"If My Favorite Pop Idol Made It to the Budokan, I Would Die" - manga by Auri Hirao (2015 - present)

[sum-up in ԑngłiꙅh]
Many people are probably aware of the existence of a type of entertainer known as "idols" in Japan's entertainment culture.
However, it may not be widely known that there is a subordinate type of idols known as "underground idols".

……Right! They are called "underground" idols to emphasize that they are "not widely known".

Well, these underground idols are also, somewhat, professional idols. And most of them are girl groups.

However, they rarely appear on TV or perform in large venues. They are minor.
Conversely, if a group is performing at such a high level, they are no longer "underground" idols!

Also, there are many groups that are rooted in various parts of Japan and are active locally. And because Japan is culturally so centralized, many of these local groups are aiming to make their way to Tokyo. But the road is long and far.

And in underground idol scene, there is also a unique service, called "contact/touching". Fans who buy the group's merchandise are allowed to shake hands and exchange a few words with the idol at a "handshake session" held after live performances. This is "contact".

The "contact" is extremely limited in time, and in the case depicted in the manga, it is roughly 5 seconds for every 1,000 yen (14 US$ now). Expensive!
However. If you spend more, you will be allowed longer "contact" depending on the amount. And it is reported that there are many lonely middle-aged or older males who go to the events, looking forward to such "contact" with their idols more than anything else.

And the manga "If My Favorite Pop Idol Made It to the Budokan, I Would Die" (Oshi ga Budokan Ittekuretara Shinu/abbr. Oshi-Budo) depicts the scene between underground idols and their fans, as described above. The girl group is "Cham Jam", based in Okayama, western Japan.

BTW, Budokan is a huge and prestigious venue in Tokyo, where The Beatles also played. Most Japanese commercial musicians, not only idols, aim to perform there.

And it should be noted that more than half of this manga is about the fans' side of the story.

There have probably been several manga depicting underground idols before this one. However, this seems to be the first manga that clearly depicts the endearing and inexplicable craziness of these fans, who are so passionately devoted to the minor idols mentioned above, and who lavishly spend their meager money on them.
And for that, "Oshi-Budo" has succeeded in drawing great surprise and sympathy from the public.

And. Let me explain a little about the strange word "Oshi" in the title of this manga.

In Japan today, people who are extremely ardent fans of "something", not limited to underground idols, call the object of their adoration and worship "Oshi".
This "Oshi" is a new Japanese word that appeared at most 10 years ago. At the time this manga series "Oshi-Budo" began, it was a novel term that was still unknown to the public.

The word "推し/Oshi" is a derivative of the Japanese verb "推す/osu", which means "to recommend" or "to promote".
Hence. Fans recommend "Oshi", the objects of their adoration, to others. Also, they ardently promote the elevation of the object to a higher status.

And. In order to raise the status of the object, it is simply effective to increase the amount of sales of "Oshi", which are some kind of commodity or commercial existence. Therefore, it is said that there are people who are willing to spend unthinkable amounts of money for the sake of "Oshi".

BTW, there is a theory that the English translation of the Japanese word "Oshi" is "fave". However, I do not agree with this theory.

Because! The existence referred to by the word "Oshi" transcends the fact that it is an object "to be liked/fave-ed".
For those who are fans of "Oshi", "Oshi" just is considered the subject and the center of the whole world. So they say extremely perverse things, like "I can spend my money for my Oshi, and I'm so much grateful for that!!".

This very strange way of being a fan is unique to Japan, isn't it? I think so.

And. I suspect that the self-deprecating attitude of the fans in front of their "Oshi" may have originated from their excessive self-deprecation before that.

For example, all of the ardent fans who appear in "Oshi-Budo" manga series have extremely low self-esteem. In spite of the fact that, from my point of view, each of them is a rather respectable young person.
On the side of the fans, in this manga, there are three main characters. And all of them are non-regular workers, and all of them spend a large part of their not-so-much income on "Oshi".

Some say that it is because they are such socially vulnerable people that they are attracted to the "underground idols", the weakest link in the entertainment world. It seems to me that this is true to a certain extent.

In my opinion, there is a tendency of Japanese society and culture that imposes self-deprecation and servility on people. Is it because there is the morality of Eastern culture "humility is a virtue"? Moreover, such self-deprecation matches very well with the will and interest of "gross capital" to use people as cheap labor!

And. Fans who worship "Oshi" to the end show a strange self-abandonment attitude that they don't care what happens to themselves as long as the rank of "Oshi" rises. It the extreme!

No, rather. Fans who worship their "Oshi" to the hilt may cling to their "Oshi" in order to somehow counteract their painful feelings of self-deprecation and self-denial. They think that as long as they ardently support their "Oshi" which is extremely precious, they are worthy of existing in this world.

I think it is quite strange, but there are such people in Japan today. It is said that the number of such people who worship "Oshi" and renounce themselves is increasing day by day.

And the manga "Oshi-Budo" freshly and realistically depicts this new "Oshi" phenomenon, while comically and lyrically describing the joys and sorrows within it. I consider it a wonderful work!