あるきっかけで、つかぬことを、近ごろ想いだしたのですが……。
確か、1993〜95年あたりの大むかし……。朝日新聞の文化欄に、その時代のトレンディな論客でいらした浅田彰先生が、こんなことをちょっと、お書きになっていた気がするんですよね。
……あたかも、ハッカーめいたサイバー・キッズが、パソコンの操作によってハウス・ミュージックを発明したように……
で。お察しのこととは思うのですが、その論述の本題は、ハウス論ではありません。
音楽の話でさえもなく、たぶん世界がサイバーっぽくなっていくようなお話の傍証として、たとえばそういう現象もあった──“かのように”、チラリと述べておられたかと思うのです。
それと、まあ。これは当時は印象的なできごとだったので、朝日に掲載の……浅田先生が……という記憶は鮮明なのですが、しかしいま確証はないことです。
かといって確認しようにも、電車に乗っていく遠くの図書館で、朝日の縮刷版を3〜4年間分もチェキる時間はありません。
ゆえに……投げやりな解決策で! テクストの以下では実名を伏せて、くだんの執筆者さまを、《A・A先生》と呼称いたしましょう。これによって裁判が、じゃっかん有利になるはずです。訴えられた場合に。
それでは、お話を戻しまして──。
ハウスというのが、米シカゴ発の《ハウス・ミュージック》のことであったなら、ハッカーもどきのサイバーなパソコン・キッズみたいな方々は、何の関係もありません。その誕生について。
そんなことは、おそらく皆さまもよくご存じでしょう。
それが、いかにして誕生したものなのか──たぶん、ウィキペディアとかにも書かれてありましょう。とくにその英語版であれば、まあそうかな……くらいには書かれているでしょう(☆)。
また、あるいは。もしそんな文字らを読むのがめんどうならば。〈“ゆっくり”解説動画〉か何かでてきとうに、まとめたハウス史が視聴できるのではないでしょうか。
いや実のところは、別にそういった“知識”が要るものだとも思っていないので……。
ですから。ご覧のようにこのページ上で、F・ナックルズ、M・ジェファーソン、そしてDJピエール……というシカゴハウスの超オリジネイター各氏によるMIXを、ご紹介しています。ハウスとは何か、これらがその代表例です。
……で、そうかと言って。
とんでもない大むかしにA・A先生が、偽りのハウス誕生秘話を語っていらしたことを、いまさら責めようというつもりはないのです──その当時においては、すごく頭にきていた気もしますけど──。
なぜなら、1990年代の前半のニッポンでハウスを、それなりに正確に把握している人は、ほとんどいなかったのです。
ああ、いや。ここで私は、ちょっと自分の知っている気がする話題だからといって、何かよけいなことらを長くつらつら書いてしまいそう。よって大胆に、話をはしょってまいります。
それで。いまハウスについて考えたとき、それが、肉体から肉体で、できていったもの……ということを強く想うんですよね。
もとはと言えば、だいたいのポピュラー音楽がそうであるように、そのルーツはリズム&ブルース(R&B)です。そのR&Bとは、アフロ-アメリカン的なポピュラー音楽のことです(ただし、一般的にはジャズを含めない)。
そこからダンスフロア向けに先鋭化したサウンドたちが、まあ、発展して。ファンク・ディスコ〜フィリー・ソウル〜ハイエナジー──エレクトロニクス関係などの“白っぽい”要素らをもどんどん取りこみながら──そして、ついにはハウスの誕生となったわけですが……。
その過程を発展とでも呼ぶとき、その発展の原動力は、“何”でしょうか?
それは、ニューヨークやシカゴ等のクラブ/ディスコに集った先端的なダンス・ピープル/パーティ・クラウド、その方々の嗜好や要望に他なりません。
目の前の人々をフロアに引きだし、激しくダンスさせる……そのためのDJたちのくふうがあれこれとあり、そしてクラウドはそれに、呼応したりしなかったり。その繰り返しが、結果としてシカゴのアンダーグラウンド・クラブシーンにて、ハウスという音楽を作ったと思われます。
そして結果として“成った”ハウスは、ファンク・ディスコどころかハイエナジー等に引きくらべても、音楽めいた要素らが大はばに差し引かれ、マシーン・ビートばかりがドカチャカと大きく鳴って騒音性がきわまり、しかも構成が異様に反復的です。
が、そうかと言ってもルーツ的でソウル的な要素らが残っていなくもないというか、ときにはかなり大きいので、その分裂性がまたいいんですよね。
そのようなシカゴハウスの奇妙チン妙な特徴を、私はかつて、〈インダストリアル・ソウル〉と呼んでおりました。
しかもそうした曲たちを、テンポを合わせて次々に、シームレスにつないでいく。そうすると、慣れない人には90〜120分間もずっと同じ曲が鳴っているようにさえ聞こえるらしいのですが、むしろそのくらいでいいわけです。反復と持続の中に起伏がある、という状態を作っていきたいのです。
そういうハウスのDJ-ingについて──。持続についての固執がきわめて強くあり、大げさに言うならパラノイアック、〈パラノ的〉かなあ……とも、考えたことがあります。
それに対し。同じターンテーブル起源の音楽ですが、ヒップホップDJらのなされることは切断・飛躍が目だってスキゾフレニーク、〈スキゾ的〉かな、と……まあ言えなくもないのでは。この二元論は、かのA・A先生のお家芸の関連のことですので、余談ですけど触れておいてよいでしょう。
で。それもこれも、アンダーグラウンド・クラブのダンスフロアで肉体を揺らし汗を流す人々のため、その方々の嗜好に応じてのことです。その悦びのため、ハウス系のDJやプロデューサーらもまた、ダラダラと汗をしぼってきたのです。
であるので、ベッドルームでパソコン・キッズが座ったまんまのクールな頭脳プレーでやったようなことでは、ありません。関係ない。とまあそんなことは皆さまもよくご存じと、知った上で述べてきましたが……。
ここで。座興みたいなことですが、ひとつ逆に考えてみましょう。
当時にハウスをご存じでなかったA・A先生は、なぜそれを、ハッカーめいたパソコン・キッズによる所産かのように思いこまれたのでしょうか?
むしろ、そうした新奇なデジタルっぽい(らしい)音楽が、サイバーにしてハイテックなキッズによって、座ったままのパソコンの操作で発明されて欲しい……そのような無意識の願望が、《錯誤行為》として表れたのだと思われます。
A・A先生のご風貌もまた、一貫して〈ナード〉っぽくおられ──ここでの“nerd”は〈おたく〉ではなく、ガリ勉くん風という意味──ますが。そして何やら先端的らしき音楽であるハウスを、彼の同志めいたナード少年らが開発成功したのなら、ご同慶のいたりで実に悦ばしい……と、そのくらいの願望をたくましくなされたのでしょうか。
と、フロイトさんリスペクトで分析かぶれの私ですから、そういうことを平気で述べたりするんですよね。ごくまれに……ですが!
また。A・A先生とは別のところでも、わりにそういう話の歪曲がその時代のニッポンには、あったように思えます。
つまり、〈ベッドルーム・テクノ〉ということば──一種の標語──が、ちょっと盛んに言われたりしましたが……。そういう誘導がありましたが……。
しかし。そんなひっそりとパーソナルなものではない、街頭や公共の場にての《アシッドハウス》大フィーバー・1988年の戦慄的な恐ろしいまでの狂熱が、その余熱が、20世紀末期のハウス/テクノ関係の隆盛を支えていたことは、さすがに知らねばなりません。私も逸話でしか知りませんが(☆)。
🪩 🤸 🤖
だいたいニッポン人は踊らない、クラブ/ディスコよりもカラオケに行きたい人が多いわけですから、そういう座りこむ方向に話をねじ曲げていくんですよね。
クラブ文化とカラオケ文化は排他的なもので、そのいっぽうが盛んな文化圏では、他方は流行らない……。そう言えばそんなことをも、むかし考えておりました。
ともあれ。私みたいなものが申すのも何なのですが──いまはもう、ほとんど踊らないので──ダンスで流された汗は、ウソをつきようがない。
何らかの真実が、そこにはあります。つまらない音楽を分かったふりして聞くことはできても、つまらないと感じながら2時間とか踊りつづけることができるでしょうか。
さてさて。ここで大きく、冒頭のところまでお話を戻すのですが……。
なぜにまた、A・A先生(らしき人)のチン妙なハウス観という大むかしのことを、ふと想いだしたかと申しますと。
ボーカロイド曲のプロデューサー、〈ボカロP〉でおられる“いよわ”さん──という方(の作品ら)が、いま注目の的らしいです。
ツイッター(現・X)でのお知り合いみたいな方である“namahoge”さんが、そのブログでご紹介なされていたので、私はそれを知ったのです(☆)。
それで、すなおな私としては。誘導された感じで、そのいよわさんによる楽曲らをいくつか拝聴いたしました。
そして、その感想が。
〈パソコンから出て、パソコンへと還る……音楽に本来ふつうになくべからずの肉体性ってものを全面的にスパッと斬りすてた、デスクトップのファインプレー……おそらくA・A先生のむかしお考えらしたような理想のひとつの実現、デジタル的サイバーなメカニカル・ポップ……〉
ともあれ何かユニークではあり、ざらにはできないものでしょう。これはこれでいいのかも知れません。
と、しかし、まあ。
例のあの《ヴェイパーウェイヴ》とかいう、ふざけきったパソコン音楽みたいなもの(……!?)を、何やら称揚・宣伝している感じのイデオローグめいたモドキ野郎こと私が、そんなことを言いきるのもおかしいのでしょうか。
あんな風ですが、ヴェイパーもまた、R&Bとかの流れを承けたもの──みすぼらしく頽落したその末裔であろうか、と考えています。それは、肉体が音楽を、音楽が肉体を、それぞれ力強く駆動していたよき時代をしのび、その墓碑銘を書きつづけています。
だとしても、まあ、それこそ。われらがボードリヤールさんの口ぶりを、ちょっと拝借の寸借いたせば、いまや肉体そのものがシミュレーションでしかないのでしょう。
であるので、今21世紀における人体改造の隆盛──たとえば美容整形/タトゥー描画/性転換……等々の施術らが前世紀に比してお盛んになっているかと見て──は、どうせなら積極的にシミュレートしていくぜっ!!……という健全な前向きさなのでしょう。
そして、そのような積極的シミュレーション活動への賛歌として、たとえばあの《ハイパーポップ》があるのでしょう。よくも悪くも身をさらす……といういさぎよさを、そこにともないながら(★)。
しかしそこまで積極的にはなりにくいニッポン人的には、いよわさんレベルのシミュレーションが、そのご趣味に合う(場合もある)のかも知れません。
Vocaloid producer “iyowa” / House Music / Physical & Simulation
[sum-up in ԑngłiꙅh]
This text is, in essence, my own hymn to House Music, and also a requiem to it.
It praises “the physicality” that is the source of its development, from R&B to Funk Disco to House.
But on the other hand, music that discards that physicality seems to be subtly popular at present.
As part of this trend, I briefly introduce a Vocaloid producer, いよわ/iyowa.
Their music may be the cyber sound of extreme digitality generated from inside a computer, as imagined by a Nipponese intellectual at the end of the 20th century.
To borrow Baudrillard's words, it may be a triumphant ode to an era in which the body itself has become nothing more than a simulation.