ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

ヴェイパーウェイヴ -に対する- ハイパーポップ - 『ユリイカ』2022年4月号・特集=hyperpop

《ハイパーポップ》と呼ばれる、今21世紀の音楽めいたサウンドらについて……。
まずは、《deko/ディーコ》さんをごフィーチャーした、約一年前の当家の記事を、ぜひご高覧ください()。
さっき自分でも読みかえしてみたのですが、これといって何か修正する必要性が、まったく感じられませんでしたから。

……と、そのようなふうに、私がこの《ハイポ》をあしらってから、約一年間が経過の現在です。
そして、先日。雑誌『ユリイカ』がハイポを特集すると、友である人がツイッターでご通報くださったので、私も臨場して一読に及びました。

さて。ここではっきりさせておくのは、あくまでも私はヴェイパーウェイヴの側、だということです。
もっとも新しい現在のポップであるヴェイパーに対し、ほぼ唯一〈向きあって〉いるジャンル──あまりきっちり定まった〈ジャンル〉ではないにしろ──が、ハイポとその周辺であるかと見て。ゆえの、〈敵情視察〉みたいなところです!

では次に、話題の雑誌『ユリイカ』2022年4月・hyperpop特集号……。これをざざっと一読のうえの、ざっとした印象を。

いく人かの寄稿者さんたちが、予想の通りに、次らをご指摘されています。

じっくりと遅いヴェイパーに対しての、せかせかとむだに速いハイポ……。どんよりと中音域しかなくしていくようなヴェイパーに対する、〈ドンシャリ〉っぽいハイポのギラギラさせた鳴り……。

そういう両者の現象的な対照性が、あまりにもさいしょから明らかなのですが。

ただ、もっとも意味をなすような差異だと私が見ているのは、根本のアチチュードのところ。
すなわち、過去の記事で述べましたように。《私》であるかのようなものを、滅却させていくか、逆に自分や身辺のものらを〈デコる〉ような感覚で《私》をねつ造していくか──。そこの態度の違いです。

追記・補足です……非人称の匿名性がクールだとされているヴェイパーに対しての、承認欲求・自己顕示のきわまり的なハイポ、とも言えてしまうでしょう。

で。実のところ、《私》がないとか薄いとかを承知しているがゆえ、〈デコる〉行為でそれをでっち上げ、顕示していくのです。
デコりを顕示することによってこそ、《私》をあるものとすることが可能だと想定されているのです、ハイポでは。異なるでしょうか?

これがつまり、SNS〈映え〉を顕示しなければ生きていることに意味がないというような、当世のヤングらの気質にフィットしている──というか、それそのものでしょう。
もっとはっきり言えば、《タトゥー/自傷行為を見せびらかしているようなものだ、と思うんですよね、ハイポは。

ラカンの理論》の正しいテーゼに、こうもあります。〈ひとつのシニフィアンは、他のシニフィアンらに対して、主体を代理=表象する〉、と。
そうして主体なるものを見失っている《自我》は、それをきざすようなシニフィアンを探しもとめ、それをおのれに刻みこもうとはします。
これをらんぼうに具体的にストレートに実践してしまうと、自らの身体にタトゥーか何かを、シニフィアンめいたものとして、ざくざくと刻みこむことになるわけです。刻まれた記号らが主体を代理=表象するだろうと、自我が想定(錯覚)するのです。

ところが。

そのタトゥー刻印であれ自傷行為であれ、思い込み自我の操作による、ただのお安い表面的デコレーションでしかありません。
ゆえに、ろくすっぽ〈主体を代理=表象〉していないので──そんなことまでをなすかも知れないような〈ひとつのシニフィアン〉を見出すことが、精神分析の核心であるようですが──。
ゆえに、タトゥー刻印であれ自傷行為であれ、〈これでよし〉というという地点には達しえず、果てしなく繰り返されつづけるのでしょう。

意識が、《それ》を知らず、知ろうとしないので、《行為》たちが反復されるのです。

──とはいえ、まあ。何にもならない自傷などはともかく、タトゥーを入れている人はどうかみたいなことを、いまどき強くは申しません。
それもまた、ひとつのライ・フスタ・イル(lie-fuster-ill)ではあるでしょう。

とはいえ。ハイポという音楽めいたサウンドの根底に、SNS上のバズりを求めて、イタさの寸前(あるいはその彼方)まで、ねつ造しあげた《私》を顕示していく──といった当代のヤングらのマインドがあるな、とは思ったもようです。
そこまでイタいことをしないヤングらにしても、しばしばそういう人らを面白がり、へたをするとヒーロー視などしているわけです。受容の土壌が、存在します。

ここですかさずヴェイパーの話にしますと、勃興期のそれをはぐくんでくれたシーンは、4chanRedditらのような〈ちゃんカルチャー〉、匿名掲示板だろうと言われます。たぶん、かなり、それはありそうです。
対して、いっぽうのハイポはインスタグラムやYouTube、あるいはTikTok的だと言えるのでしょう。ポスト・インターネット音楽の二大高峰として、きっちりと対照的に……。

では、さあ、目ざしましょう、インフルエンサーであることを!

あ、ところで。

私がこのハイポ特集号で読んだ、もっとも興味深く思えるお話は、レベッカ・ブラック》という女性シンガーめいたお方のストーリーです()。
山形一生さんによるご紹介を真に受けると、こういう物語です(p.101)。

2010年・末、別にプロ歌手でもない13歳のアメリカ人だったレベッカさんは、彼女が歌っている音楽ビデオの制作を、ARKという企業に依頼。おそらくは、〈学生時代のメモリー作り〉くらいの意図で。その代価の4千ドルは、母親が負担。
そこでARKは、楽曲「Friday/フライデー」とそのビデオを制作、レベッカさんは歌ってビデオにご出演()。
そしてなぜなのか、これが2011年3月、YouTube上でバズりにバズり。いま現在までには、160,598,796回もの視聴数をマークです! イェイッ

ところが……どういう意味での話題性だったのでしょう? 〈こんなひでェ楽曲と唄はねェな! 恥知らずか!〉くらいにそこら中でディスられまくり……。ようは、歴史的とさえ言えるまでの大炎上。そしてレベッカさんは、深く傷心。


委細ははぶいて、そのちょうど10年後の、2021年。新たにレベッカさんが発表なされたのが、うわさの楽曲「フライデー」のリミックス版の動画でした。
それが、まさしくハイポであるような音と映像になっているわけです()。

という事象を、私が見ると。

〈じっさいイタくはあるな……〉と思えるオリジナルの「フライデー」が、デコりの限りをつくしたイタさへと、華麗なる変容をとげています。イタいところはどうしようもないが、それがスタイルとしてのイタさにまで、《昇華》か何かがなされているのでしょうか。
あるいはデコりの徹底により、〈装甲〉が施されているところのイタさであるので、ご本人的にはあまりイタくもない感じになっているのでしょうか?

また、その同じ事象を見て、山形一生さんは、こう述べておられます(p.103)。

hyperpopは彼ら個人の問題を自己決定的に判断していく勇敢さや、過去に受けた傷を自己言及的な要素を持って自ら癒していく行為を肯定的に語ることができるものとしてムーブメントを生み出してきたのかもしれない。

……あ、並べてみると、私がずいぶん冷たい人みたいですね! まあそうですが。

ここははっきり正直に言うべきでしょうけれど、ここにいる私が愉しいと感じたら、それがいいわけです。
とうぜん私というモドキにしたところが、〈主体を代理=表象〉するようなシニフィアンみたいなものを、探しもとめつづけているようなのです。私ひとりだけの、それを。

そしてそのそういうシニフィアンが、まんがいち見つかってしまえば、たぶんカスみたいなみすぼらしいものであろうことを、私どもは予期しています。

で、そういうところで。

古いテレビのCMやお天気音楽などの、どうしようもなく凡俗なジャンク音源たち──、そこらに何か、きわめて虚しいが決定的なものがありそうとして、それらを漁りつづけるヴェイパーウェイヴ。そこに私は、飾りたてない誠実さと、かつ探求としてのすじのよさを、なぜかずっと感じつづけています。

本質的なのは〔、意味のある解釈よりも〕、主体が、そのような意味作用の彼方で、どのようなシニフィアン――“ノン・センス”な、“還元不可能”な、“外傷”的なシニフィアン――に、自分が主体として従属しているか、を知ることである。
ジャック・ラカンセミネールXI: 精神分析の四基本概念』)

あ、それでは、さいごに。

──予想もされた通り、この『ユリイカ』のハイポ特集号には、ものすごく多くの関連するアーティスト、楽曲ら、ジャンルなどが紹介されています。
拝読しながらそれらサウンドたちの多くを、自分の耳で鑑賞いたしました。

そしてそれらの中で、もっとも私がすばらしいと思ったのは、イングランド《Andy Stott/アンディ・シュトゥット》さんによる楽曲らです()。初めて知ったのですが、これはとてもいい! 皆さまにも、ぜひおすすめです!!

ところが……。このシュトゥットさんによる音楽は、実のところ、まったくもってハイポではない、と思われます。

では、何かといえば? まあその陰気なチルアウトとダブテクノ、その両極の間の、どこかにあるようなもの──くらいに、それは言えそうです。
まずは私どもの大好物である、モヤ〜リとしたサウンド空間とダウン気味のテンポ。そしてそこに紛れこんでいく、せん妄的&夢遊病的な女性ボーカル。ミステリアスでエロチックで、ほんとうにこころよいっ!

日ごろ私どもが親しんでいるスタイルやフィーリングでいうと、《ドリームパンク》──おおむね、そのものだとも言えます。けれども異なるシーンの人なので、そのレッテルを貼るのは控えましょう。

……ああ……いやその、です。このハイポの特集号に、それとやや関連ありげなジャンルとして、《Deconstructed Club》というものがあると、灰街令さんが書いておられだったのです(p.220)。
その《デコンストラクテッド・クラブ》というものを、まったく知らなくてびっくりしたので、すなおな私は調べました()。
するとそのデコン・クラブ系の名作のひとつとして、シュトゥットさんによるアルバム“Faith in Strangers”(2014)──これが某所に、ハイランクされていた、というわけなのです()。

ところが……。調べを進めていくと、このシュトゥットさんの音楽は、実はあまり、デコン系の代表でさえもない感じがっ!?
メインストリームめいたデコンらは、確かにハイポに近くもある、けばけばしさ&グリッチ感覚をそなえた音であるようなのです。いっぽうのシュトゥットさんの、しぶく粘りのあるサウンドとは、また違って。

ですけどしかし、ここにいる私が愉しいと感じたら、それがいいわけです。
かく、遠隔操作でシュトゥットさんとの出くわし(そこね)にまで導かれたことが、このハイポ特集号からの、最大の収穫です!

[шrαρ-υρ in ԑngłiꙅℏ]
This text is first of all a commentary on a special issue of the Japanese magazine "Eureka" on hyperpop.
I assume, by all means, that I am on the side of Vaporwave in my feelings.
And I think that hyperpop and its surroundings are almost the only genre that is "facing" the newest current pop, Vaporwave. Therefore, this is a kind of "enemy observation" activity ha ha.

So, well... My impression of hyperpop did not change much after reading this special issue.
I still feel that hyperpop music is a musical version of the young people who are driven to engage in bizarre and excessive activities in search of buzz on social networking sites, etc.

On the other hand, one of the fruits of the study I started with this material was the discovery of Andy Stott.
His music is a kind of melancholy Chill-out or Dub Techno, similar to Dreampunk on this side. The female vocals, which are lost in a hazy, desolate soundscape, create a strange eroticism. Very good!

And Stott's music, which could be described as such, is of course NOT hyperpop itself.
One of the magazine's authors mentioned the name of a little genre that seems to be somewhat related to hyperpop: "Deconstructed Club". That keyword was the starting point for the search that led to Stott's discovery.
This was the most informative part of this research for me!