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中島岳志『超国家主義』 - 神秘的ナショナリズムと、エヴァ〈人類補完計画〉

ご紹介いたします一冊の本、超国家主義 - 煩悶する青年とナショナリズム(2018, 筑摩書房)。
著者の中島岳志さんは、広い意味での〈政治学者〉でおられるようです。しかしこれは、論文のような堅い本ではありません。

その本文の主要部は、まあそのニホンの超国家主義と呼ばれる思想や運動──端的に言ってしえば、明治から昭和・戦前のウルトラ右翼──に関わった人々の、銘々伝みたいな断章らです。
各チャプターのタイトルに名前の出ている《主義者》たちは、約24人。

そして本書は約270ページの、あまり厚くはない書物です。
とすればそれぞれのチャプターが、いかにコンパクトに書かれているか、おのずとお分かりでしょう。

かつ、それぞれのまとめ方もきわめて巧みなので、そんなには堅くないどころか、とても読みやすい本になっています! おみごとです。

ああ、それと……。
この記事のタイトルにおなじみのエヴァンゲリオンが出ていますが、それは私によるこじつけではありません。ななめ読みでもさいごまでご覧になれば、どうしてなのかをお知りになるでしょう。

……で、さて。この本が訴えようとしているのは、おおむね以下のようなことだと思われます。

超国家主義》のような思想や運動は、もちろん実に有害であり論外である。
とはいえそれが、〈戦前〉の日本で小さくもない支持を集めたことには、一定の理由や事情らがある。
その理由や事情らを理解しようとしなければ、別のモードの超国家主義の、誕生や成長を促すことになってしまうだろう。

とは、本書のまえがきの、独断的な要約ですが……。

そして続いた本文の、第1章・第1節でピックアップされている人物は?
私にはとても意外だったのですが、その人は、北村透谷さんです。1868年(明治元年)生まれの、詩人であり批評家。

私も名前しか存じあげなかったくらいの、古い文人ですが。それにしても、《超国家主義者》のような印象は、いままでありませんでした。

ですけれど、しかし……。

まずは家族関係や生活のことなどに苦しみ煩悶し、そして近代化しながら矛盾を深めていくニッポン社会を深く憂い……。そこで、自然や宗教やアートなどに救いや解決を求めるけれど、しかし望んだものは得られなかった……。
そういう透谷さんの挫折と絶望が、のちの《超国家主義者》らの姿のプロトタイプになっている、ということらしいのです。

一般化して。一定以上の知性や正義感をそなえた若者たちの、自我の自由な発揚という課題と、そして彼らの目に映る社会の深刻な問題たち……。
それらの“すべて”を、一気に同時に解決しうるものという錯覚をなさせたのが、ロマンティックな幻影の《超・国家》イメージだったのです。

そこでイメージされている《国家》とは、対外および社会の内部の諸利害を調整する公的機構、などというフラットなものではありません。
それは、至上の存在です。至上の価値であり、また、最高の倫理の具現化です。

それへと〈滅私奉公〉することによって、国民たちは初めて《人》でありうるし、また初めて幸福になりうる……そのくらいの大したしろものらしいです。ゆえに、《超・国家》である、と言いたい感じになるのです。

ただし。
そのようなすばらしい《超・国家》などは、ご存じのように歴史上、いちども実在したことはありません。今後もけっして、存在しないでしょう。

であるがゆえ、《超国家主義者》たちの全員は、うそつきの腹黒いイデオローグでない場合には、負け犬として終わる──しかありません。この書で紹介されている人たちは、そのほとんどが負け犬でしょう。

中島岳志『保守と大東亜戦争』(2018, 集英社新書)
中島岳志『保守と大東亜戦争』(2018, 集英社新書)
逆視点、超国家主義を批判した“保守”の論客らを見ます

けっきょくは、北一輝さんあたりが典型になるわけですが。しかし《超国家主義》には全般的に、その前提というか出発点において、少しは共感できるところがあります。これが怖いところです。
つまりさきに述べた、個々人の身の上における煩悶と、そして不正や不平等らの横行する社会への怒りです。具体的な内容は違っても、それに似た感じを持ったことのない人は、まあめったにおられないのでは。

そして《超・国家》が、“すべて”のそれら問題を解決するという、きわめてロマンティックな幻想へいたるよりも前に……。
かなり多くの事例において、何らかの宗教への耽溺が、クッションと言うよりも、彼らの思考の飛躍を促す《スプリング》になっています。

そこで大いに目だっているのが、日蓮宗およびその関係の団体です。たとえば、〈仏法・即・国体〉をスローガンとする《立正安国会》──のちに国柱会──を設立した、田中智学さんの影響力が、実にすごかったもよう。

……まあ。ここでちょっと失敬なことを申しますれば、〈まずは宗教バカにでもならない限り、超国家主義なんてバカな考えは持ちえないよなァ〉、とも思ってしまうところです。
それで、その国柱会の活動に熱心だったことにより、かの宮沢賢治さん(詩人・童話作家)までが、この書のチャプターのひとつに収まっています。あまり《主義者》であったという印象は、ないわけですが!

で、その……。

田中智学、高山樗牛大川周明、といった各氏らが、そういった《超国家主義》めいた思想を鼓吹し、やがてその影響下に〈直接行動〉──ようするにテロが、頻発する時代が訪れます。
まずは1921年安田財閥の当主・善次郎さん、および原首相の刺殺事件。これらの実行犯たちは、はっきりとした《超国家主義》の運動家ではなかったが、しかしその思潮の影響下にはあったもよう。

それを前ぶれとして、1930年代には、いっそうのテロ・ブーム。
まず1932年に発生したのが、血盟団事件および五・一五事件。そしてこれらを主導または扇動した《主義者》が、これまた日蓮宗の何か関係者であった、井上日召さんです。

そうして続いて、《超国家主義》がらみのイベントとしては最大の、ニ・ニ六事件が、1936年に発生。
その結果、この関係ではもっとも洗練されていそうな思想体系を作った北一輝さんが、実行犯ではないが〈黒幕〉に他ならぬとして、死刑に処されました。

そのあたりにおいて、ニッポンの戦前の《超国家主義》運動はついえた、とも言えそうです。
なおニ・ニ六事件の余波として、自称の本名を《日蓮会》と言い、俗には〈死のう団〉と呼ばれた団体が、チン妙な自滅的パフォーマンスを演じ、一連の運動の終焉に花を添えました。

しかし。そこで滅んだものは、国家を強めることによって、いずれはすべての国民を幸福にしようという、《志》の部分です。
そんな志さえをも欠いた、たんなる強権国家のみが延命して栄え、そして多くの人々を不幸にしながら……。ついには〈五十年戦争〉の大惨敗、といういったんのエンディングを見せたわけです。

📖 🇯🇵 🔪

そういえば。《八紘一宇という、実に不ゆかいに聞こえるフレーズがあります。これはもともとは、田中智学さんが言い出したもののようです。
その初めには、インターナショナルな協調や人類への博愛くらいの意味で、言われていたようなのです。それが、20世紀のごく初頭のこと。

追って1936年のニ・ニ六事件のさい、反乱部隊の〈決起趣意書〉に、またこのフレーズが用いられました。そしてこのときには、〈ニッポン国の使命は諸国に進出して八紘一宇を実現すること〉と、ニュアンスが不穏に傾いています。
さらに1940年代ともなると、もろに侵略戦争の醜い自己肯定の宣伝フレーズに、それは堕してしまうのです。

このように《超国家主義》なんてものは、出だしの発想にはちょっとあいきょうがあり、かつ多少の善意がうかがえて、少なくもない人々の心を惹きます。
ですが、実践のところに移行すると、その結果は悲惨でしかありません。

なぜそうなるのか。けっきょくは論理性がなく飛躍でしかない、宗教めいた思いこみが半分の、ポエミィでありすぎる観念論だからでしょうか。
そうした思いこみの最たるものは、ニ・ニ六事件の主犯たちが、〈天皇陛下は、このテロ行為をよしとなされるはず〉──くらいに、なぜか信じこんでいたことでしょう。おめでたいですね

それこれで《超国家主義》なんてものには、その発想や姿勢らが、実に悪い意味でのイデオロギーとして利用される末路しか、ありえません。
にもかかわらず、実存主義哲学の一派などとも結びつきながら──このことはヨーロッパのファシズムにおいても顕著ですが──心なくはない青年らにちょこちょこと、アピールし続けているのです。いやですね!

ところでさいごに、この書の巻末。著者あとがきの内容が、私の目を奪いました。
いや実のところ、この記事は、ここからが本題かも知れません。
いったい何が驚きだったのか、と申しますと。

著者・中島さんが本書を著すにいたったきっかけの大きなひとつは、あの一種の名作アニメ、新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(1997)を鑑賞したことだ、と語られているのです(p.262〜3)。

とくにアニメや映画のファンではないが、しかし当時の一大話題作であり、かつ時間があったのでふと視にいって、そして大きなショックを受けた、とのことです。
1975年生まれの中島氏がまだ大学生だった時期で、おそらくは初公開の年の夏のことでしょう。

この映画では、不安や疎外に苦悩する人間が、完全な一つの生命体へと回帰し、救済に導かれる〔…〕。人間は歓喜の中で個体としての生命を失い、全体の中に液化する。これが「人類補完計画」として提示される。

映画館で頭をめぐったのは、戦前の超国家主義との類似性だった。煩悶をかかえた青年が、世界との一体化を希求し、政治行動へと傾斜する。疎外から解放された無垢なユートピアに溶け込もうとする。超国家主義エヴァンゲリオンの世界観と繋がっている。

これに続いて、超国家主義者のひとりである三井甲之さんの詩(1918)が引用され、そこにも言われている人々の〈液化〉──《超・国家》の内部でのこんぜん一体化──のようなイメージに、着目がなされます。

この「液化」への希求が、〔エヴァという〕セカイ系アニメとして再起動しているのを目の当たりにして、「超国家主義はまだ終わっていない」と思った。

そしてそれからの、約20年間にもわたった、中島さんの熱心な調査と体験ら。その成果がこの書である、ということなのです……! 何かもう、感服とリスペクトが止まりません!

そしてそういう見方からすれば、〈人類補完計画〉を遂行しようとしていた秘密結社の名称が、〈ゼーレ/Seele〉──ドイツ語の〈魂〉であることも、ふに落ちます。
社会に対して何かをしようとするときに、いきなり飛躍して〈魂〉を持ちだしてくるなんて、まさに《超国家主義》の話法&手法でしかないからです。

あとさいご、すかさず便乗、私から少し書かせていただきますと。

たぶん同じ1997年の夏、東京・新宿の上映館で、私もまた同じ映画を視たと思うのです。
ちょっと自マンしますけど私は、1995年10月のテレビ『エヴァ』第1話からの、けっこうホットなファンでしたし。
それでテクノ音楽系のミニコミ誌に、〈いま、エヴァがスゲぇ! お前らも視れ!〉と、煽る紹介文を書いたりもし……それは、第4話くらいの放映後だった気がしますが。

だが、そして。1997年のエヴァ完結編・劇場版の感想は、〈分からぬことはないが、まあガッカリですよねえ……〉。くらいでしか、なかったのですが。
しかし、心に残りつづけていたのは。〈そもそものところ、“人類補完計画”とは何だったの?〉……という疑問です。

ああ。もはや記憶もおぼろですけれど、碇パパ&その属するゼーレにとっては、〈シト〉の撃退なんてことは、目先の所用みたいなもので。
その活動らの真の目的で目標は、〈人類補完計画〉の遂行に他ならぬ……とまで、劇中で言われていたような。

にもかかわらず、その全容がすっきり分かるような説明は、本編らの中には存在しない──というのが、大方の見解であるようです。
しかし実作を視た感じとしては、さきに言われたようにその計画の発動が、人々を液化&一体化させ、おそらく救済に導いて(?)います。……ですよね?

この疑問は心のすみに、ずっと残っていましたが。
追って、少しは分かったような気がしたのは。もう21世紀になって、フロイトラカンジジェクという諸氏のご本らを拝読し──ようは精神分析にかぶれ──、それからのことです。
で、その立場から言うと。

人類補完計画〉とは、〈“性的関係”の存在する世界を取りもどそう〉、という運動です。
いや、どういう手段でそれをしようとしているのか、ということは見当もつきませんが!

ジャック・ラカンさんの理論によると、〈性的関係は存在しない〉です。ですが、人間らは誰もがそれを求めており、あったはずのそれが欠けているので自分は不幸なのだと、(無意識に)考えるのです。
それがエヴァでは〈人類補完計画〉の発動により、人々はそれぞれの想っていたパートナーと一体化し、またさらに大きなものへと液化し溶けあい……。ついに《性的関係》の存在する幸福らしき世界へと、転生か何かをしたのでしょう、か?

そして、《説明》をしてしまいますと。
性的関係があるはずだとか、また、人間らは《母国》と一体になるべきだとか、そのたぐいの思いこみは、胎児から幼児の時代の母子一体感──その幸福感の、なごりに他なりません。実につまらない説明で、恐縮ではありつつ。

とはいえエヴァという作品それ自体が、《母子一体》なるモチーフとたわむれまくっているものだとは、視ている皆さまがよくご存じのことでしょう。

で、そうですが映画のラストシーンで、その液化&一体化からとり残されたふたり、アスカさんはシンジくんに、〈きもちわるい……〉と、言いはなちます。
《性的関係》の存在しない現実の世界で、他者というものは、〈きもちわるい〉。それはそうだな、というなっとくが、《無意識》の受けとめるものとして──うれしいニュースではないですが──そこには、あったのです。

そういえば。ふだん私たちもまた、そういう〈きもちわるい〉他者らから、なるべく適切な距離をとろうとしています。
ですけれど。スポーツの応援か何かで熱中していれば、肩をくんだ隣の同好のファンである人の汗くささなど──さっきまで知らない人だったとしても──そうは、気にならないでしょう。
つかのまのことだとはしても、そこに〈液化〉の悦びが、あったりするでしょう。

そして。そうした熱中(ファナティシズム)の対象を《超・国家》として、ライフシーンらの“すべて”において、全国民を一体化させる。
労働や兵役などの社会的活動らはもちろんのこと、メシを喰うのも生殖をすることも、“すべて”は、国家のためっ!──であると。
そうもなれば、朝から晩までの〈液化〉の悦びが、あったりするのでしょうか。

超国家主義》の理想の境地とは、あるいはそういうものでもあったのでしょうか。他者の他者性を否定しさること、〈きもちわるさ〉への攻撃……!


"Ultra-nationalism: The Troubled Youth and Nationalism" (2018) by Takeshi Nakajima - Mystical Nationalism, and [Human Instrumentality Project] of Evangelion

[sum-up in ԑngłiꙅԧ]
This article is about "Ultra-nationalism".
It introduces a research book by Takeshi Nakajima, examining and then criticizing Japanese Ultra-nationalism - the ultra-right-wing ideology and movement of the late 19th and early 20th centuries, that was the background of the era of rampant terrorism.
And it is only natural to criticize such things...

However, half of the cause of this Ultra-nationalism is the loneliness and anguish of the youth in a society that is modernizing with increasing contradictions.
Nakajima's opinion is that as long as these things still remain, and as long as these points are not recognized, Ultra-nationalism cannot be said to have died out.
The "Ultra-nation", the supreme ethical embodiment of romantic illusion, is envisioned as the solution to all of life's problems and society's problems at once. Though it is the product of fantasy.

And Nakajima once found a remnant of Ultra-nationalism around the ending of Japanese animated film - that famous "The End of Evangelion" (1997).
The [Human Instrumentality Project] is a plan to bring happiness to people who have suffered in their own circumstances through unmediated unification. This idea overlaps with the innocent and harmful utopian ideology depicted by Ultra-nationalism.

We must remain vigilant against the resurgence of such fanaticism.