ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

大野左紀子『アート・ヒステリー』(2012) - あなたの勝利,私たちは祝福します

『アート・ヒステリー』の著者・大野左紀子氏は1959年生まれ、2002年まで美術制作の活動をなされ、以後は教職と著述の分野で活躍なされている方だそうです。
そして現場を離れたところから、アートシーンとそれを取り囲む一般社会がどのように見えるか、のようなお話です。

本書の正式なタイトルは『アート・ヒステリー - なんでもかんでもアートな国・ニッポン』──、その版元のウェブサイトには、このような売り文句が書かれています。

〈「これマジでアートだね!」……やたらと「アート」がもてはやされる時代=「一億総アーティスト」時代。アート礼賛を疑い、ひっくり返すべく、歴史・教育・ビジネスから「アート」を問う。〉

で、かってながらここで私は、ヴェイパーウェイヴの話をいたすのですが。
それは、既成の通俗凡俗なサウンドらを再利用・再構築することにより、シニカルにも批判的立場を明らかにしつつ、娯楽を供給する。
かつ、批判というにも、政治経済・コマーシャル文化・商業音楽・テクノロジーと、さまざまな題材らを、自分らサイドの方法からして、イジっていく。

そういう構えに、《ポップアート》や《アプロプリエーション》らの現代アートとの共通性を、前から感じていました。ああいうアートの音楽版が、ヴェイパーウェイヴなのではないだろうかと。
そしてそうした見方が、ぜんぜん成り立たないとは、いまも考えていませんが。

ただし、ぜんぜん異なるのは──。とにかくも《制度》であるところのアートらは、ポップであろうと公募展で賞を獲るような油彩画であろうと、《制度》によって支えられているということです。そのあたりを本書は、教えてくれます。

つまりアートなんてものは、義務教育の図工や美術の授業に始まり、さいごは美術館に収容され教科書に載って終わる──、その間を、画商・批評家・キュレーター・コレクター・オークショナー、そしてもろもろのアカデミーと行政らが、管理か何かしている──、そういうシステム&ビジネスの生産物である、ということです。

そしてアンディ・ウォーホルさんであろうとバーバラ・クルーガーさんであろうと、またこのあと少し登場する村上隆氏であろうと、その壮大にして堅固なるシステム、その内部での──よく言うなら内部からの──勝利者であるということ。
かつまた、この《制度》自体を支えているものは、民主主義と資本主義によって立つ文化的な国家たちであるということ。

それに対してヴェイパーウェイヴごときには、そんな支える《制度》などはありません。なくていいですが!
強いて言えば、根底のプラットフォームである《ジ・インターネット》が、それの支えではありつつ。

そして、そういう制度的なアート生産物らに拝跪し、かつそれらを生みだす《システム》への理解と共感を深める──。というのがそんなによいことなのか、ここらが疑問であるわけです。

だいたいのところアートなんてものは、社会の中の《勝利者》たちのトロフィーであり続けてきた歴史があり。それが現在は、ポピュリズムキャピタリズムによって立つ文化的な社会に君臨する《セレブ》らが、それを高く掲げ、またその題材ともなっている──あたかもベラスケスさんやゴヤさんによって描かれた王族貴族らのごとく──わけです。
とくにウォーホルさんやジェフ・クーンズさんあたりは、このあたりをしっかりと意識しながら、ご制作なされてきたでしょう。そしてまたセレブたちからの評価を得ることがアーティストらをもセレブとするので、その地位と名声に私たちは憧れています。

その他もろもろ、多岐にわたる本書の内容は、ぜひ、そのものにあたっていただきたいと思いますが。
あまり強調されていない本書の特徴として、フロイト-ラカンのチン説らが、記述のバックボーンのひとつとしてあります。ゆえに《ヒステリー》の研究ですが、私はその姿勢を支持します。

そしてさいご、もっとも私の印象に残った本書の一節を引用して、このご紹介もしくは感想文を終わります(p.229, 改行は引用者による)。

村上隆は社会の中心的優性価値(引用者注:民主主義+資本主義)に一体化しそれをアートの世界で先鋭化させることで、逆説的に突出してきたアーティストでした。
従って村上隆が金儲け主義に見えるならそれはアートの世界が金儲け主義だからであり、村上隆があざとく見えるならそれはアートの世界があざといからであり、村上隆のやっていることがオタク文化からの「収奪」であればアートはあらゆるジャンルから「収奪」し加工し自らの文脈に組み入れてきた……ということになりましょう。
こうした事態を根底から批判するには、今日のアートを支えている民主主義(個人主義)+資本主義(自由主義)を“世界宗教”の一種と見做し、そこから限りなく遠ざかる、というくらいの思想的スケールが必要になってくると思います。