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M・テヴォー/小崎哲哉, 現代アート関連書3冊 - 吉澤みなみさんをヴェネツィアへ!

アート等を愛する皆さん、ようこそ!
この記事では、以下の3冊の現代アート関連書について、おそらく何かが書かれるでしょう。

この3冊のトリオであるべき必然性は特になくて、自分のスケジュールのつごうにより、テヴォーさんと小崎さんとが同床異夢になっています。
とはいえ──偶然か必然か──ふしぎに通じている点が、なくはありません。

それは、『誤解〜』と『〜殺さないために』のカバーらを飾っているのが、ともにマウリツィオ・カテランさんの作品だということです。
そして、このカテランさんあたりが最大で最高のヒーローであるらしい、《現代アート》だか何だかの現況……。ということも考えさせられますが、ともあれ、各書籍のご紹介を。

では、まず、テヴォー『誤解としての芸術』。原著の刊行は2017年です。
その著者は1936年生のフランス人、ローザンヌ大学名誉教授。主にアール・ブリュット(Art brut/なまの芸術/アウトサイダー・アート)の専門家として彼は知られ、ずばりその『アール・ブリュット』(原著・1997年)が、名著としてほまれ高いようです。

この『誤解〜』の内容を独断的に要約してしまうと、〈芸術家みたいな人たちは、シュレーディンガーの箱”みたいなものを提示する〉、とでもなるのでしょうか(p.101)。

つまり。そこにはネコみたいなものが入っているという触れ込みですが、しかし、その生死の状況は分からない。
というか、ほんとうにネコが入っているのどうかも分からない。何か違うへんなものが入ってないとも限らず、または空っぽかも知れない。
しかも本家のシュレーディンガーと異なり、〈開けてみる〉ということがそもそもできません! “すべて”が、未確定のまま、そこにたゆとうています。

にもかかわらず、〈その中はどうなっているのか?〉を想うことが愉しい、とすれば?

そして。そうした想像の愉しみの持続を支えうるだけの、いわくありげな箱の外観、または興味をそそる前口上──、そういうものらがそなわっていれば、作品というか芸術の活動として《成功》、ということになるのでしょうか。

そして。このたとえ話で〈ネコ〉と言われているのが、《作者の意図》やら制作のコンテクストやら何やら──、総じて、《作品の背後にあるもの》たちです。
ただ、そうした《作品の背後にあるもの》たちは、鑑賞者によって想定された存在である(にすぎない)というわけです。

〈「芸術家は多くのことを知っているが、しかし事後的にしか知らない」と、ある芸術史家は言っている。〉

(p.106)

そうではなくとも──少しテヴォーさんの論を離れますが──、《絵画》とあるなら、それは必ず何らかの《イリュージョニズム》を、鑑賞者において機能させます。
すなわち、単なる線や色彩と支持体らがあるのではなく、たとえば〈ネコが描かれているな〉と、思い込むでしょう。ゆえに《絵画》であり、その本質がイリュージョニズムです。

それは、抽象画であっても似たようなことでして。線や色彩らの背後に《何か》があるはず──、という想定に支えられて、はじめて《絵画》が存在しています。

そしてそれらの《想定》には、どういう成功がありうるのでしょうか? それが、社会や《シーン》らの中で一定の《共感》を集めた場合には、一定の成功を収めたと言えるでしょうけれども。

〈〔芸術においての、“メッセージ”は……〕発信者は受信者に対して意味についての責任を免除されているのであり、意味についての責任は受信者が遡及的に発信者に負わせるということである。
したがって、前代未聞のもの、あるいは“いまだかつて見たことのないもの”といったものは、意図の相互的推測から誤解の果実として生るのだ。〉

(『誤解としての芸術』p.107, 改行は引用者による)

……《誤解の果実》
つまり、私たちが〈すぐれた作品だ〉などと言い交わしている対象たちは、その誤解という陽ざしの恩恵によって育まれ、そしてたっぷりと《想定》の甘みをたくわえた、ジューシーなフルーツであるようです。

ゆえに〈すぐれた作品〉などというものは、むしろすぐれた鑑賞者たちこそが、“創る”。まあ少なくとも、半分くらいは鑑賞者たちが創っている、といったことでしょう。

では、ちょっとここで──よくないですが時間の制約などもあり──、性急にまとめてしまいますと。

私が感じるテヴォーさんの議論の強みとして、つい芸術などに関わってしまう人間らの《無意識》が、計算に入っていることがあると思います。すなわち、《フロイト-ラカン》の系統であるのです。

なおテヴォーさんの旧著には、『不実なる鏡 - 絵画・ラカン・精神病』(1999, 人文書院)というものがあり。たぶん私はこれを──ななめ読みにしても──見ている気がするのですが、しかしすっかり忘れていました!

それと。訳書の副題に《アール・ブリュット》が出ていますが、しかし原題にそれはないし、またアウトサイダー・アートの話題が本文に多く出ていることもありません。
ですけれど、アール・ブリュットなるものの存在は、本書の主張にとって決定的です。

どちらかというとおかしな人たちが、とくに素養もなく、また目的や野心らもなく、かつ、“芸術ッ!”という構えもないまま、しかしやむにやまれぬ衝動か何かに追われて造り続けた、きてれつで奇妙きわまる、“もの”たち──。

そうしたアール・ブリュットを、《芸術》のカテゴリーに組み入れるためには、本書に書かれたようなパースペクティブが必要だったのか、と考えられます。
かつまた、逆にアール・ブリュット作品らの強力なインパクトが、そうしたパースペクティブを呼び出してもいます。
すなわち。発信者も知らないメッセージの《意味》などというものは、受信者たちが〈想像=創造〉し、そしてその意味の責任は、発信者たちが負うはめになるのです!

で、そこまで行った地点から現代アートを見ていく、最終の第8章、「地球のミュージアム化」。ここが、ほんとうの本書のやま場……でもありそうですが。
しかし。ひとまず、いまは本書の基本的な主張らの、ざっとしたご紹介まで。

そしてお次には、小崎哲哉さんによる2冊。
著者はニッポンのアートプロデューサー/ジャーナリスト、そして京都芸術大学大学院教授、でおられるそうです。

そしてこの、現代アート──『〜とは何か』(2018)、『〜を殺さないために』(2020)、これらは続いた2冊とも見られそうです。

まず、『〜とは何か』の前半で、アートセレブらの投機&売名の場へと成り果てた、アートシーンの惨状がレポートされています。
それを象徴するのがヴェネツィアビエンナーレでの、アートセレブたちが口先で〈パヨク〉めいたきれいごとらをとうとうと語り、その直後にはパーティで最上等のシャンパをすする──、みたいなグロいシーンであるでしょう。

まあ正直なところ、私みたいにナイーブな《美》の愛好家には、かなりきついお話がありました。吐き気を覚えるようなところさえも!

……そして『〜とは何か』の後半では、現状がこのようである現代アートとは、いかにして発生してしまったものか、何を《表現》してきたか、そして今後の展望、などが語られているでしょう。
興味深いと思ったのは、本書の巻末近く第8章の、現代アート採点法〉です。まるでサッカーの試合で選手らが〈5.5〉などと採点されてしまうがごとく、ともあれ作品らを数値的に評価していけば、とするご提案です。

この発想は、20世紀にはなかったと思います。見ました、私は、21世紀の《現代》を。

続いて『〜を殺さないために』では、そのような現代アートが受けている激しい〈逆風〉ら、またそれへのリアクション、といったことが描かれているでしょう。

その〈逆風〉ら、とは?

要してしまえばそれたちは、まずドナルド・トランプさん主義や〈ネトウヨ〉によって代表されるポピュリズム──その兄弟分である反知性&反エリート思念──、そしてそのいっぽうの、《ポリコレ》(political correctness)です。

ただし、こうした〈逆風〉らに逆らうことこそ、逆に現代アートの使命である、みたいなご主張があるようです。

さて、〈現代アート vs.ネトウヨ〉のマッチといえば、2019年の《「表現の不自由」展》とその中止という事案が、いまだ記憶に新しいところです。『〜を殺さないために』第2章では、その件が詳しく検討されています。

また、そのいっぽうのポリコレ陣営からは、たとえば会田誠さんの作品らのような──。
──どういうのでしょう、ある種の人々が敏感になっている部位らへの刺激、それを感じさせられるようなそれらに対し、顕在と潜在の非難や批判があるでしょう。

ところで。ちょっとここで──よくないですが時間の制約などもあり──、性急に、この紹介文をしめくくりに入ってしまうのですが。

現代アートとは何か』&『現代アートを殺さないために』。小崎哲哉さんによるこの著作らは、合計で約800ページにもなる大物です。その内容のほとんどを、コンパクトにまとめ上げる──、なんてすばらしい芸当は、とてもできませんけれども。

しかし私にとって印象的だったのは、そもそも《現代アート》とはどこから生まれてきたのか、というお話です。
そして著者の小崎哲哉さんは、それの起源を、マルセル・デュシャンの《レディメイド》作品である「泉」(1917)である、としているのです。

いや。小崎さんが独自の考えで、それを言われるのでもなくて。
2004年になされたアートセレブらへのアンケートで、〈もっとも強い影響力を持った20世紀のアート作品〉という部門にて、その「泉」が圧倒的に優勝したのだそう(『〜とは何か』, p.252)。
ちなみに2位はピカソさん、3位はウォーホルさんでした。

すなわち「泉」の栄光、覇権、そして優越は、現在の現代アート業界の常識なのです。

で、さてご存じのように、デュシャン「泉」は、既成品である男性用便器の〈あさがお〉に、ちょっと偽名でサインがなされただけの《作品》です。
よって《便器》は、“われわれ”の業界ではごほうびです。ほんとうにありがとうございました。

いや、そんな冗談はともかく──。そもそも私は、そうした高尚なる“われわれ”各位の一員でもありませんし──。

そしてそのようなレディメイドの作品である「泉」をお手本とすれば、もはやアーティストらは、いちいち、“もの”を造るような苦役から解放されるでしょう。
これがたいへんな朗報であり、ゆえに、その〈強い影響力〉がありすぎることも、まったくの必然でしょう。

このことは、あるいは……。ヴェイパー何とかという音楽めいたサウンドが、〈ちょっと他人らの楽曲をサンプリングしてローファイ化するだけ〉、というあんまりなお手軽さが人々にアピールし(?)、一時は多少だけ流行してしまった。──という愉しい喜劇の、ひとつの前ぶれだったのでしょうか。

【補足】 すでにご理解のことと、考えますが。便器でしかない既成品のひとつが、芸術家によって選別されることによって、芸術作品になる──。すなわち、作家の深く崇高なる思想と美術史への洞察が、また野心的で勇かんでアグレッシブなアチチュードが、そのつまらない物品の《背後にあるもの》である──。
といった思い込みを、人々がきたすようになれば、さきにご紹介したテヴォーさん式の《誤解の果実》が、熟れ熟れで大成功!……ということです。
そういう《誤解》を促進するためデュシャンさんは、また別の名で「泉」擁護論を記述し、雑誌に寄稿しました。自作自演で《誤解》のループを拡げ、そしていま現在の大成功に行き着いたのでした。

ですが、お話を戻せば。
〈「泉」が、至高!〉というポジションから、小崎さんの訴えているひとつのテーゼが導かれます。すなわち。

〈今日のアートはすべからくコンセプチュアル・アートであるべき〉

(『現代アートとは何か』, p.397)

かつまた、便器が《美》であると強弁はしないところから、ニホン語の〈美術〉ということばが、《排除》されます。ゆえに〈現代美術〉ではなく、〈現代アート〉です。

ところでこうした史観には、半ば〈創られたもの〉という趣きもあります。
というのも、デュシャンさん&その「泉」がそこまでも高みに見られるようになったのは、せいぜい1950年代の末くらいからだと思われるからです。

ですから。
崇高なる大傑作であるデュシャン「泉」(1917)が現代アートの進むべき道を示してくれたのに、あいも変わらず絵画ごときを描いていた抽象何とか主義の、ポロックさんやロスコさん。彼らは、アホだったのか? または、単なるアルチザン(職人)だったのか?
もちろん、そうではないでしょう。

──あまりにも圧倒的&全面的な《勝利》をしすぎた抽象表現主義の絵画、その方法や理論らが逆に美術を拘束しているような不自由さ──。
それが感じられ始めた《空気》の中で、デュシャンさんのあまりな自由さにスポットライトが当たり始めた。それが、1950年代の末くらいの情勢だったのではないでしょうか。

そうして。勝利した抽象表現主義の裏づけとなった理論、すなわち《フォーマリズム》。その、〈平面礼賛〉や〈反イリュージョニズム〉の主張。
それらの裏をかいて、ポップアートが1960年代初め、単なるポスター風イラストやまんがもどきではなくて、アートなのでございます!──という、りっぱな成り上がりを果たしました。

で、続いた60年代。まさにデュシャンさんの示した(らしき)道へ進もうとするコンセプチュアル・アートも、登場していくのですけれど……。

この過程で、デュシャンさんによるとされた、《網膜的美術・否定論》みたいなものが、しげく言われていたようなことも印象的です。
つまりはもはや、視る必要もないし、視るべきものを造る必要もない、至高の師であるデュシャン様はそう言われた!──、と受けとめていた人が少なくはなかったようです。

──ここで、思わずにいられないことは。

網膜・鼓膜・そして性感帯であるような粘膜ら──。私たち人間は、そうした《膜》らのもたらす快感と享楽からは、逃れえません。断じて、と言ってもいいほどに。

そしてその厳しゅくなる事実を、前提といたしまして。網膜の愉しみを《排除》したアートが、もしいっぽうで支配的となれば、それはレベルの低まった網膜の愉しみらの栄えを、他において大いに促すでしょう。
よって、まんがまでは行かなくとも──というか、すでにニホンではそこまで進んでいそうですが──、ラッセン的なものらが人気の〈アート〉めいたこと。イェイッ

そうして……。私たちのデュシャンさんは、コンセプがとにかくも美術界の話題の中心であったような1968年、世を去られました。
そしてその死後に公開されたのが彼の、《遺作》とも呼ばれる「落ちる水と照明ガスが与えられたとせよ」(Étant donnés: 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage)でした。

そして、そのデュシャンさんの《遺作》が──。まあ自分が実物を視てはいないので、何かを断言もしませんけれど──。

穴から覗けば、ひわいなポーズをとった少女の裸体かのような眺めが視える──という、《視る》ことについての《欲望》のすさまじさを、意識させてやまないようなものだったこと。かつそれが、一種のパノラマとして、みごとに〈造られて〉いること。
このことたちは、どのように受けとめたらよいのでしょうか。

また、この《遺作》にしても、ある意味でのコンセプチュアル・アートである、とは言えますが。それにしたって、〈もはや視ないし造りません、網膜とかは用ずみでぇース!〉のような軽快さをきわめたコンセプと、同じものなのでしょうか。

……まあ。私自身にしましても、デュシャンさんをかなりのリスペクトですので。そのことを前提に、彼が〈造らない〉という面ばかりを強調されたくはないんですよね!

いや、そもそもなぜ、《こんなこと》たちに関わっているのでしょう?

さいしょ私は、今21世紀の先端的ポップ音楽であるヴェイパーウェイヴ──それが最大の関心の対象、大きな悦びの源泉です──、その方法や構えには、現代アートの一部分であるポップアートや《アプロプリエーション》らに通じているところがあるのでは、そんなことを思っていました。
そこから、少し研究している感じですが。

では、それもそれとして。
さらに今後は、ヴェネツィアビエンナーレへの進出を目ざしている新進アーティスト《吉澤みなみ》さんの後押しをするべく、現代アート界の動向を探っている、ということにでもしましょうか。

ちなみにそのみなみさんは、さいきんの記事でご紹介したまんが、紙魚丸(しみまる)先生による惰性67パーセントのヒロインです()。皆さんも、ぜひ彼女を、ご応援なさいましょう!

ですけれど。
もはや〈造る〉ことが、アウト・オブ・デートにすぎているので。みなみさんにおかれても制作なんかをがんばるより、むしろ、展覧会の初日のパーティらにしげく出向き、国内外のアートセレブらに顔でも売ったほうが、まだしも少しヴェネツィアに近づいているかも知れません。

さいわい彼女はお酒が好きだし、また美人めいた感じでもあるようなので、おおむね各所で歓迎を受けることが予想されます。みなみさんのご健闘を祈ります!