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紙魚丸『惰性67パーセント』 - ちょっと 行きます、ヴェネツィアにまで

このところ私がなぜか《アート》に関心を持ち気味ですので、ひとつアートの香りの豊かなまんが作品を、ご紹介しましょう。
それは、月刊ウルトラジャンプ掲載の、紙魚丸(しみまる)先生による惰性67パーセント(2014-連載中)。
そのヒロインをはじめ、主要な登場人物らはすべて美術大学の学生ですので、いやが上にもアートっぽさは少なからずある──はずです。

ですが。

読んでおられる方々はご存じのように、このお話は……。
かなりひまであるらしい大学生たちが、やたらひんぴんと酒盛りに興じ、その酔いのはずみやら何やらで、エッチなハプニングらが生じがち。
……といった物語でも、あるもよう。

今作のヒロインである《吉澤みなみ》さんがユニークな女性で、実におおらかというのか。彼女のアパートに学友たち(男性らを含む)が、用もなく上がり込んできてたむろしがちなことを、ぜんぜん気にしていないようです。むしろ、歓迎している気味も。
ゆえにお話の舞台は、彼女の部屋であることが多いのですが。

そこで、私は想い出しました。

高橋留美子先生による名作ラブコメめぞん一刻(1980)の内容について、《アジール, 仏:Asyl》という学術めいた用語を用いて何らかの説明を試みたのは、大塚英志さんだったと記憶しています。
そのアジールとは、《聖域》とか《避難所》とかいう意味の語らしくて。
つまり、社会の中にいまだしっかりした居場所のない者たち──『めぞん』のヒーロー《五代くん》のような学生らをも含む──の居場所、〈モラトリアム〉っぽい人たちの宿りの場、すなわち《一刻館》はアジールなのである、といったお説があったような気が。

と、そんなことが言われるなら、みなみさんの住まうお部屋も一種のアジールなのかなと、さっき私は思ったのです。
そして、そこからもう少し考えてみると。

いま私たちが見ている『惰性67パーセント』の内容には、その『めぞん一刻』に似ているところが少なからずあるな、という気がしてきたんですよね!
いや、それはもう、まずアパート住まいの学生たちを描くラブ&おピンク・コメディだという両作品の大わくが、ほぼ同じですが。

それと両作には、人物たちがやたらに大酒を喰らって泥酔、その状態をてこにして展開、というエピソードらが目だっているようです。
つまり泥酔して、しらふなら言わないようなことを述べ、正気ならしないようなことをする。しかもしばしば、酔いがさめてから、そのことを忘れている。そしてそこらから、ハプニングの連鎖が発生──。

まず『めぞん』の場合、そんな泥酔エピソードの数そのものは多くなかったようですが。しかしそれらが、重要めいた場面らに出ているのが印象的でした。

すなわち五代くんが、ある夜、泥酔まぎれに彼の意中の女性である《響子》さんに〈好きじゃあああ!〉と告げて、しかしそのことをさっぱり忘れてしまう。
また別の日に、五代くんは酒のいきおいで悪友の誘いに応じ、何かの風俗店に彼の童貞を棄ててきてしまう。しかもそれがすぐばれて、響子さんは超おかんむり状態に。

といったことからお話が、展開したりこじれたりしていた気がします。……ちょっとこういう作劇には、ひきょうのきらいがなくはない、とも思うのですが。

そのいっぽうの『惰性』には、そういうお話の中での重みがない代わりに、まいど乱発しすぎです、そんな泥酔エピソードらを!
まあ、ささいなところを例で言うと。酔いのいきおいで女性たちが服を脱ぎ始めるので、その場の男たちが動揺したり逃げまどったりする(第6話)、など。

と、いうところから、すでにお察しかも知れませんが。
『めぞん』と『惰性』の重なる特徴のもうひとつは、それぞれのヒーローめいた男性キャラクターたちの、小心で消極的、おくびょうで優柔不断──、そういうところです。

まず、『めぞん』の五代くんがどういう人であったか、それについては皆さまもご存じだということにして。ここでは、『惰性』のヒーローめいた青年《西田くん》について、少し見ておきます。

みなみさんと同じ美術大学の、アニメ科の3年生であるらしい西田くん。やや小柄で、かわいい感じの男の子です。もちろんけがれなき童貞です。なかなかりっぱなマンションに独り暮らししており、ご実家の裕福さが察せられます。

で、この青年が! とくに用事はなくとも女子大生のお部屋に上がり込んで、へいきでダラダラしている──という異様な図太さと、それに対してうらはらな、小心・消極・おくびょうで優柔不断というところを、まいど魅せつけています。
彼は気の合うみなみさんと、いまにも男女的な関係になりそうでもありながら、しかし彼のほうから、そういう方向にことを運ぶことはしません。むしろ、そういう流れを、必死になってまで避けているようにさえも見えます。

なぜでしょう? 私からその理由の、〈説明〉をこころみますと……。

みなみさんに対して西田くんが、〈ぼくの恋人になりなさい〉とでも言ったとすれば。それに対する彼女の反応がどうであれ、彼は気のおけない異性の親友のひとりを失ってしまうでしょう。
だとすれば、《ゲームの理論》的な計算によりまして、自分からは動かないのが得策なのでしょうか? そういうわけなので、タイトルに言われた《惰性》が67パーセントの姿勢を、西田くんは保ち続けるのでしょうか。

かつまた。いらだたしい気にさせられることですが、この西田くんは、みなみさんだけをパートナーとして求めてやまぬような、そんな忠誠心などは持ち合わせていません。
もっと他に、ベターなパートナーの候補がいるのでは……と。そんなことを夢想するので、とりあえず決定的な選択や行動らをしない。というか、何もしないのです。

かつまた。実にいらだたしい気がしてならないのですが、この西田くんの行動の原理として、まず自らが《無罪 - 無垢 - innocent》であることを求めてやまぬ、ということがありそうです。
ゆえに、エロス的なハプニングたちへの参加や加担をかたくなに避けようとして、しばしばコミカルな行動に出るばかりか。また、見通しのない男女関係に踏み込むことなどは不届ききわまる、のようなことを口で言ったりもします(第61話)。

ですけどそれは、要するに《責任》を負わされたくはない、ということでしょう。

西田くんの習慣でもあるアダルトビデオの鑑賞などは異なり、現実の女性らについては、その身体にちょっと触れるだけでも、小さくはない《責任》が生じそうです。まして性交などにおよんだりしたら、そこから生じる《責任》は無限大である、とも考えられます。

そうした無限の《責任》を想定し、かつそんな責任を取れない、または取りたくないのだとすれば、まさにジャック・ラカンさんの言われたごとく、《性交は不可能である》でしょう。まあ、ちょっとその言の意味を、曲解していそうですけれど!

また別に私は、そんな西田くんの姿勢をおかしい、成り立っていない、などと非難したいとも思っておりません。
じっさいに誰をも傷つけていないなら、いいのではないでしょうか? そうやって責任らを回避し、決定的な行動におよぶことを避けつづけ、《無罪 - 無垢 - innocent》であるチェリーくんとして生涯をまっとうすれば、やがてあっぱれ天国へでも召されるのではないでしょうか? そんなものがあった場合には。

で、ここで高橋留美子先生の、もうひとつの名作うる星やつら(1978)の内容を思い出しますと……。

けっきょく《男》たちが求めているのは無責任なハーレム生活のエンジョイであり、その実現が不可能なら、せめて想像の世界にそれを建設するでしょう。私たちの西田くんにしても、本音ではハーレムを求めてやまぬ的な傾向が明らかでしょう。
ところが、そこへ。押井守監督による劇場版アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)の結末あたりでは、どこかで見たような姿の幼女がヒーローの前にふと現れて、〈セキニン、とってね!〉と、実につや消しなことを言います。

と、いうアニメ『うる星2』のお話は──。想像の世界のハーレムを超えるような手ごたえを何か求め、《現実》めいた世界で何か行動をするなら、おのずとそこに責任が生じてしまう──。くらいの意味と、解釈できなくはないでしょう。
そして、少なくはない男性たちはそこらで観念し、せめてそうした責任を、引き受けるようなポーズくらいは示しながら、生きているのでしょうか。

しかし──ゆえに──私たちの西田くんは、そうした責任の生じてしまいそうな《行動》のすべてを、回避しながら生きていきます。
これは、かの偉大さがきわまった『うる星』シリーズのヒーロー《諸星あたる》くん、その衰退しきった後身の姿でもあるのでしょうか。〈無責任なナンパ活動 -と- 責任逃れの無作為〉、両極端にも見えるアチチュードらの根本は、同じものなのでしょうか。

なお。ここでお話の流れを変えて、《作家論》みたいなことを少し述べますと。

『惰性』以前の紙魚丸先生は、もっぱらアダルトコミックの分野でご活躍なされていたことを、まんが通である皆さんはご存じだと思います。そちらの分野では、たぶん三冊くらいの単行本が出ているようです。
で、あくまでも参考資料として、そちらの作品らを拝見し、『惰性』と比較してみると──。

見てきたように『惰性』では、不自然なまでに、作中の男女らが性的な行動をしない。少なくとも、じっさいの相手のある性的な行動をしない。
が、そのいっぽうの紙魚丸先生のアダルト作品らでは、いくらポルノであるにせよ不自然なまでにイージー&とうとつに、作中の男女らが性的な行動へとおよぶ。主に、女性側の積極性によって。

このふかしぎな対照性が、ひとまず存在しそうに思えます。しかし《ジャンル論》で考えてしまいますと、そこにふしぎはありません。

とは──。まず、アダルトコミックであるならば性的な行為や行動らが、“必ず”、描かれなければならない。
いっぽう一般誌のおピンクコメディでは、その決定的な行為が描かれてしまうと、そこで物語が実質的に終わってしまう。よって、いわゆる〈寸止め〉が──その果てしなき連鎖が!──あるべき。

ですが、そんなジャンル論的な見方などを押し通すのではなく……。

いずれにしても、男性らの側の《責任》のなさや軽さが、きっちりと描写されています。〈無責任な性的乱脈 -と- 責任逃れの無作為〉、うんぬんです。
その一貫性を、紙魚丸先生の作品系列に、私は感じました。

言い方を換えれば紙魚丸先生は、“バランスの取れた適切な男女関係”みたいなものは、描かないのです。ただしそんな、“適切な男女関係”というものが、どこかに実在するのかどうかは存じません。これも曲解でしょうけれど、ラカンさんのまたいわく──《性的関係は存在しない》

というわけで、何も《行動》をしないなら何らの《責任》もない。それはそれでよいのでは(?)──という、いったんの結論が得られたとしましょう。

あ、いや、その。『惰性67パーセント』というまんが作品の、まず基本的な構えみたいなものをご説明しようとして、なぜかここまでの長いお話になってしまいました。

ではこの作品が、ふくいくと格調も高くかぐわせている《アートの香り》なんてものが、存在するのでしょうか。いやしくも美術大学が舞台であるようなお話として。

それが、ぜんぜんなくもないということで、ひとつのエピソードをご紹介します。

──すでに3年生になっているみなみさんたち、そろそろ卒業後の身の振り方を、意識せざるをえない時期です。
そこで、考えたのか考えていないのか、みなみさんは、〈卒後は画家としてやっていく、就職なんかしない〉、などと言い出します(第54話)。

なお、ここまで説明していませんでしたが、みなみさんは絵画科の学生で、かつアダルトコミックの制作に多少の実績があります(第1話、第37話、等々)。そこで、後者のスキルを活かして生活費を稼ぎつつ、アーティストとして活動していくというのです。
で、どういう未来のプランを彼女が思い描いているかというと──。

〈いきなり銀座は ハードル高いから 表参道あたりで 小さなギャラリー借りて 個展を開くだろ……
最初はそれほど 注目されないんだけど たまたま来日してた ニューヨークの キュレーターの目に 留まるんだ
その後 ヴェネツィア ビエンナーレにも出展
国内より むしろ 海外で人気が出て 逆輸入する形で 日本でも注目され〔…〕
画集がバカ売れ クレジットカードの 柄とかになったり
〔そしてついには作品が、〕落札されてしまう…… オークション 2000万ドルで……っ!!〉

という誇大なる妄想をとうとうと聞かされて、彼女の親友らは呆れ返るのですが……。

そのいっぽうの西田くんの姿勢は相変わらずで、どうせ失敗するから就職活動なんかしない、もういっそ《院》にでも進学しようか……と、実に後ろ向きです。決断は先送りして《行動》をしなければ、とりあえず許されるはず、と思い込んでいるふしがありありです。

──ところで、みなみさんの将来のプランですけれど。

その実現はきわめて困難だとは思いますが、しかしぜんぜん不可能でまったくの無意味、でもないんじゃないかな……という気が、私はするんですよね!
何ら《責任》を取る気のない立場から言いますが、やれるところまでやったらいいように思います。その活動を10年間も続けてヴェネツィアあたりにまで行けなければ、さっぱりとあきらめがつくでしょうし。

なお。2000万ドルはなかなかないでしょうけれど、前の記事で名前が出たイギリスの女性アーティストであるトレイシー・エミンさん()、その代表作らしき立体作品『マイ・ベッド』(1998)は、2014年に約436万ドルで落札されたことがあるそうです()。

それがどういう作品であるか考えると、いずれみなみさんの作品にも10万ドルくらいの値はつかないでもないのでは、という気もしてしまいます。
むしろ絵なんか描かずに、いつも散らかった彼女のお部屋を、そのまま《インスタレーション》にでも仕立てると、意外に好評を博するかも知れません。『マイ・ルーム』、とでもタイトルづけして。

では? 仮にみなみさんの『マイ・ルーム』にはろくな値段がつかずだったとして、それと436万ドルの『マイ・ベッド』との違いは、いったい何なのでしょうか?

そんなものはおそらく、〈なぜビットコインの価格が現在このようであるのか?〉という質問と、同じような答になるのでしょう。ですけれど、それもひとつの、無視はしえない《現実》とやらの一部分ではあります。

ともあれ私たちには、どういう《責任》を取る気もぜんぜんないので(!)。よって、西田くんはいつまでその清らかさをキープし続けるのか、またみなみさんはヴェネツィアまで行けるのか行けないのか──、愉しみながら、それらを眺めていくでしょう。