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J-P・サルトル『汚れた手』(1948) - ピュアである気で、だが、ときとして…

『汚れた手』──“Les mains sales”──、長きにわたったジャン=ポール・サルトルさんの執筆歴からすれば、やや初期の作でもあるような戯曲。
とうとつのようではありますが、どこかの路上でさいきんふと、それのことを思いだしたんですよね。

この戯曲『汚れた手』は1948年に初演されたものだそうで、当時としてはきわめてヴィヴィッドな題材を扱っています。
すなわち。ヨーロッパの辺境国──私の印象ではユーゴスラビアがモデル──における対ナチスレジスタンス運動……そしてその内部からの分裂と破局、というようなことを、です。

ただし、サルトルさんはさすがに《文学者》でおられまして。ゆえに、自己の政治的な信念をなまにぶつけてくるとか、または単純に情勢を絵ときしてみせるとか、そういうことはなさっていないと感じられます。
彼がちょくせつに描いているのは、あくまでも《人物》たちの造形と、それぞれの間の葛藤、というドラマです。

それにしても、まあ。人類史が認めている傑作文学のひとつではありましょうが、なぜいま、ふと『汚れた手』を思いだすのでしょうか。
そのご説明は、いたしますのですが──。

物語のときは第二次世界大戦の末期、ナチス・ドイツの敗北は時間の問題かという時期です。ところは、ナチスに侵略されている東欧の某国。
そして。このお話のいっぽうの中心に、対独左派レジスタンスの指導者であるエドレル》がいます。また一方の中心である主人公ユゴーは、左翼急進主義にかぶれたハネ上がりのお坊っちゃまです。

そのお坊っちゃんが、急進派の幹部にそそのかされ、エドレルさんを暗殺する計画の実行役として、指導部のアジトに送り込まれます。表面上は雑用係の助手として、かつ、彼の妻であるジェシカさんをともなって。

で、なぜ急進派たちが、左派勢力の身内であるエドレルさんへの反感を、暗殺しようまでにこじらせたかというと?
それはこの指導者が、国内の右派勢力との妥協をはかっていてけしからぬので──とやらのことです。
……ということ、ですが?

さてどうにかうまく、山荘みたいな指導部の拠点に潜りこんだユゴーくん。するとほどなく彼とジェシカさんは、エドレルさんの人格に惹かれるものを、とても強く感じさせられてしまいます。
常に精力的であり、その判断はすばやく的確、しかも大いなる包容力ありげ。人間としてのスケールが、ユゴーくんらの見てきたそれとは、段違いであるようです。

ことによったら、ユーゴの偉大な指導者チトーさんが、このくらい大きな人だったのかな……と、読んでいた当時、私は思ったのですが。
あるいは。政治家ではない一種の軍人ですけれど、イタリア統一の英雄ガリバルディさんが、あるいはこのようだったか……と。

あ、で、まあ。
それで少し、彼らがうちとけてきたところでユゴーくんは、エドレルさんに、つい思わず問いかけてみます。
彼が暗殺者で“しかない”とした場合には、よけいな所業がきわまる問いかけだったのですが、しかし確か、このようなことを。

あんな右派の旧政府勢力とか、まして歴史の遺物みたいな王党派とか、どうせロクなことできやしねェし、共闘みたいのする必要なくないっスか?
あんなやからはナチ公もろともブッ叩きつぶして、わが党派だけでこの国に、ピュアな左翼政権を作ったらよくないっスか?

するとエドレルさんは、ほぼこういうことを答えなさいます。

うん、いずれはそのピュアな左翼政権みたいのを作っていきたいところだが、しかしわれわれには、〈時間がない〉
とは、なおも対ナチ戦争が完全には終わってなくて、戦火はいまだ絶えず、わが祖国の同胞たちの多くが、生命の危険にさらされ続けている。というか毎日、無視しようもない数の生命らが失われている。
……こんな状況が一瞬でも長く続いてしまうことに、私はがまんがならない!
ゆえに、いっこくも一秒でも早くこの戦争を終わらせ、同胞らの生命を守るためなら、あの右派のクソったれどもと妥協をすることも、いといはしない!
とはいえ、当面の連立新政権のヘゲモニーの部分は当方がガッチリ握らせてもらう予定だがなグェッヘヘッヘヘヘ。

あっ、いやまあ。グェッヘヘヘとまでは、言ってなかった気もしますが!

そして。そういうエドレルさんの真意と熱意を知ったユゴーくんは、〈そうなのかな…?〉と思いもし、また暗殺計画への加担を、考えなおしたりもします。

ところが……! このドラマは、私ごときにはとうてい考えもつかないところから、ひどい破局にいたってしまうのです。
ちょっとその部分──いわゆるネタバレ──を、ずばり記してしまおうという気がしないので。大むかしの私の読書日記から、ややその核心に近いところを引用します。

現実主義者でありヒューマニストでもある指導者が、せっかく主人公ユゴーの尊敬を勝ちとったのに、〈もう半年間も女に触れていない〉、とかいう理由で身を誤ってしまう。これが日本や中国のお話だったら説得力に少々欠けていたところで、フランス人らがいかにスケベであるか、ということがよく知れる。

いや少し補足しますれば、フランスの大文豪であるサルトルさんが、東欧のどこかのお話として、これをお書きになったわけですが……。
それにしてもフランス人である方々の多くが、あまりにもひどいドスケベで、なくはないでしょう。その前提がなければ今作に対し、〈これは変わったお話だあ!〉という印象になってしまうでしょう。

と、いうその大展開の部分からも、この戯曲『汚れた手』を、ただの政治的寓話として読むわけにはいかないのでは──というのが、私の感じ方です。
へたをするとこれが、政治の怖さもさることながら、むしろそれを上まわる性欲の恐ろしさを感じさせる、とは……っ!?

しかし、その部分を深掘りすると、何かへんな話になりそうなので。そこは割愛し。

──いまさっきご紹介したエドレルさんの熱弁が、どこかトーキョーの路上を歩いていた私の脳裡にふと、フラッシュしたんですよね。
正義や大義らを追求するのもいいが、まずは何よりも同胞たちの生命を守ること──それが、彼の思う《政治》の第一の使命である、と。
そのご主張に私は、ユゴーくんと同様に、けっこう共感しているのかな、と確認させられながら。

で、さてなのです。そのいっぽうの、現在である2022年6月……。

多少は場所がずれますが、『汚れた手』の舞台とやや近い東ヨーロッパの一隅で──まあウクライナですが──、なおも戦争が続いています。
そして、その交戦国らの指導者の両方さまが、分かりませんけど何か高潔な正義か大義かを追求しまくるべく、けっして退くわけにはまいりませぬと、もう完ぺきに覚悟完了を、なさっているかのようです。

が、それはいかがなものか──と、私は存じます。《政治》ではない何らかのへんてこなショーを、みょうに見せつけられている気がいたしますね!
〈自分自身の血ィだけは、一滴たりとも流したりしないゾ!〉……という強固にして高雅なる信念が、そうした美々しき正義や大義らのご追求を、揚々となさいませるのでしょうか?