ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

コッティントン『現代アート入門』(2020) - 《抵抗のポストモダニズム》と Vaporwave

私たちのヴェイパーウェイヴは、まずとうぜんポップ音楽であるとして……。と同時に、あり方として、《現代アート》にちょっと関係がありそうでしょうか?
それは音楽の《レディメイド》、またはポップアートや《アプロプリエーション》、それらに近い仲間であるのでしょうか?

そんな思い込みから、少し私は《現代アート》みたいなものを調べています。

──ということで見た文献らの一冊が、いまご紹介する、デイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』です。
その著者は英キングストン大学の名誉教授でおられ、ご専門の分野はキュビスム絵画だそうです。英語の原著は、2013年に刊行されています。

ですが……。『〜入門』というわりにこの本は、あまり初心者向けではない気もします。
そもそも、わずか200Pほどのハンディな本です。仮にポップアート以降(1962〜)に対象を絞ったとしても、その“すべて”を分かる感じに、その中に記述しつくすことはむりでしょう。

まあともかく、本書の記述の中ではっきり示されているのは、アートを支えている──と言えなくもない──、《マーケット》の重要性です。
現代アートと資本主義との、切っても切りようのない関係が強調されています。

〈〔1960-70年代に話題を呼んだ、〕ミニマリズムコンセプチュアル・アートの作品の売れ行きはさほど芳しくない結果となった。
〔…〕結局それは、絵画作品やポップほどの楽しみを与えてくれるものではなく〔…〕そのせいでいくつかのギャラリーが潰れた。〉

(p.44, 改行は引用者による)

そういうことで、ミニマルとコンセプは、ビジネス的にはダメでした。批評家すじの評価がよくても、見ばえのしない《アート》の商品性の薄さは、いかんせんでした。
そこでアート業界は1980年代初頭から、〈具象への回帰〉を意図的に仕掛けていきます。そして、その《ニューペインティング》か何かいうグッズのキャンペーンが、大成功してしまいます。

かくて、《アート》のような業界にさえもはびこっている、いまわしきルッキズム

──ずっと前から、私は考えていました。しょせん私たち大衆は、《アート》みたいなものを拝見しても、イラストレーションやデザイン、さもなくば、まんがの一種としてしか、それらを眺められていないのではないか、と。
そして、つまりはそうであるようです。ゆえに、《アート》であろうと見ばえは重要です。高尚さを匂わせながらも、一定量の感覚的な快を、受け手に与えなければならない──と、歴史がそのことを証明しているようです。

また、その逆のところをも、見ておきますと。例のジェフ・クーンズさんという超セレブ的な《アーティスト》が、存在なされるようですが……。
たとえば彼の、何かと金ピカに塗られた作品群。それは、〈どうせ現代アートを買う者なんて、悪趣味な成金しかいない〉というマーケットの状況をクールに見すえ、その趣味の悪さにあっぱれ迎合して大成功したグッズ類である──、と、大いに高く評価できるでしょう。

《ポップ》の代表的アーティストのひとり、クレス・オルデンバーグの1960年のマニフェストより──
〈包装紙を剥ぎ取った後に子供が舐める芸術の側に私はいる。夜を照らす明滅する芸術の側に私はいる。〔…〕クール・アート、セブンアップ・アート、ペプシ・アート〔…等々々…〕の側に私はいる。〉

(p.149)

むじゃきですよね! セブンアップペプシコーラ等の、ラベルをデザインするようなお気持ちで、ご制作をなされていたのでしょうか。

でまあ。ともあれ、商業文化や大量消費文明を批判している感じの《アート》たちでさえ、それらもまた、商品であるしかないようです。
このジレンマは、どうにかなるものなのでしょうか? 次のようなことが書かれています。

〈一九八三年〔…〕批評家ハル・フォスターが、答えのきざしを示唆している。


今日の文化政治における基本的な対立は、モダニズム脱構築しようと努めることで現状に抵抗するポストモダニズムと、モダニズムを拒絶して現状を讃えるポストモダニズムとのあいだにある。
すなわち、抵抗のポストモダニズムと反動のポストモダニズムがあるのだ。
〔…そして前者は、〕文化的なコードを食い物にするというよりも、問いに付そうとするのであり、社会的・政治的関係性を覆い隠すのではなく、探求しようとするのである。

アメリカ人芸術家シンディ・シャーマンとバーバラ・クルーガーは、〔…フェミニズム的であるだけでなく、〕こうした文脈にも位置づけられる。〉

(p.162, 改行は引用者による)

《抵抗のポストモダニズム──とは、実にすばらしく聞こえのよいキャッチフレーズです!
しかし、その好例が、いまだにシンディさん&バービィさんなのでしょうか。もはや、30年以上も前に脚光を浴びたアーティストらであるようですが……。

ここで私の想い出話を、少し書かせていただきましょう。

すでに20年くらい前のことですが、とあるヤボ用で私は、米ロサンゼルスを訪れました。初めての海外旅行でした。
その旅程の中の、一日の空き時間を利用して私は、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)を訪れました。

そのときの、展観。まず、さきに名の出たオルデンバーグさん、そしてラウシェンバーグ、ウォーホル、リキテンスタイン……といったネオダダやポップのヒーローたちの、画集や雑誌で見たような作品らが並んでいたと、記憶しています。
そして私も少年時代には、そうしたお作らの図版を見て、〈いいなあ、カッコいい!〉と感じていたと思います。

ところが。そのとき、長じてから眺めたそれらの実物は、きわめて貧弱で薄弱なこさえもの、という印象にしかなりませんでした。──それが逆にいいのかも知れませんが!

それから館内を少し歩くと私は、マーク・ロスコさんの絵画を5〜6点ほど並べている部屋にいたりました。そしてそれらを眺めることによって、ついに──やっと──、太平洋を横断する私の旅は、意味のあるものになったのです。

けどまあロスコさんへの賛辞なんて、いまは月並みすぎて、あまり述べたくないですよね!
ちなみにコッティントンさんの記述の中でも、いま議論の余地なくすばらしいと言える現代アートの代表として、ロスコとポロックが呼び出されています。実にノーマルです。

──で、そうしてロスコさんのコーナーで多くの時間を使ったあと、さいごに私はミュージアムショップへと足を運びました。
そうしますと、そこで異様に目だっていたのが、キース・ヘリングさんあたりに並んで、さきに名の出たバーバラ・クルーガーさんのグッズ類、《商品》でした。〈店長すいせん! 品切れ注意! いま売れています!〉、とでも言わんばかりのいきおいで。

これが、《抵抗のポストモダニズム的なアーティストのある場所です。

いや、そもそも当時でさえ、〈おいおいバービィさんやヘリングさんとか、もう古いでしょうが〉と、そのとき私は感じました。失敬ですけれど。
それからさらに、目もくらむほどの長い歳月が過ぎ去って、いまだ現在もバービィさんが、私たちのクイーンなのでしょうか。ハートのクイーンであることを願っています。

……ここで私のささやかな想い出話を打ち切り、本書の記述へと話を戻し……。

バービィさんらによる《アプロプリエーション》以降の運動として、《YBAs(ヤング・ブリティッシュ・アーティスツ)》のことが、少し書かれています。
とくにその一群の中でも、わざとらしくスキャンダラスな活動を続けているトレイシー・エミンさんについて──。言われるほどにはひどくない、目立ちたがりの道化の所業とだけは言い棄てがたい──、くらいな擁護があるようです。

エミンさんらのように女性のアーティストであったなら、仮にその性器をご披露するだけでも、何らかの意味が生じてしまう気配。だがその逆は、ないようです。
いまはそういう、《ポジション》を利用したアート活動にも、一定の意義は認められるでしょう。現在の情勢のもとでは。

それから本書の巻末近く、《インターネット・アート》というものの可能性が、少し点検されます。しかし、その決定的に目ざましい例は出てないようです。

そうしてほんとうの巻末は、次のようにしめくくられています。

〈さて、私たちは、資本主義の欠点を補うことで私たちを癒してくれるような芸術を望むのだろうか、あるいは資本主義に異議を唱える芸術を望むのだろうか。
あるいはそのどちらも、なのだろうか。
二兎を追うことが私たちにできるかどうかは、まだわからない。〉

(p.190, 改行は引用者による)

これが、名誉教授による考察のご結論であるようです。まず、“すべて”に先だって資本主義が存在し、それに対する何らかの態度を、アートは求められるのです(!)。すかさず迎合、あるいは逃避、さもなくば批判、等々々。
なお、文中で第一のウサギだと言われた《いやし系アート》の最高のサンプルが、また例により、たとえばロスコさんである、と書かれているようです。──ごく自然に。

そして、ここから私なりの結論を言いますと。

こうやって名誉教授のお説を拝読してきましたら、私たちのヴェイパーウェイヴというものが、きわめていい線を行っているように思えてきたんですよね!

New Dreams Ltd.: Fuji Grid TV EX (2011) - Bandcamp
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ヴェクトロイドことラモーナさんによるCM
ソング大会です! 最悪の歴史的大傑作!

それは、まずエンターテインメントでありながら、かつ常に《資本主義》に──、そしてその生み出した商業文化と大量消費文明に、強く向き合っています。これらを意識していないヴェイパーなどは、超ありえません。

しかもそれ自体は、あざとい商品であることがありません。商業的なあざとさをパロディ化して、いつも大いにおふざけしながら。
そして、かなり多くの人がイージーにアクセス可能なインターネットを通じ、基本的には無料での鑑賞が可能です。それが《商品》としてふるまうにさいしても、〈音楽におけるフェアトレードの実現を目ざす〉──とする高まいなBandcampあたりを販路として、です。

かつまたこれは、アカデミズムに何ら関係ありません。どういう権威づけとも無縁であり、どこかの国民の血税からの支援を受けることもなく、かってに私たちは愉しんでいます。

と、ほとんど完ぺきに近い正当な構えを、私たちのヴェイパーウェイヴは備えてしまっているのでしょうか。実に美しく《抵抗のポストモダニズムであることを実現し、そして二兎も三兎もをゲット成功しているのでしょうか。

ただ。もしもヴェイパーに何らかの問題があるとすれば、これがロスコさんやポロックさんの作品らに匹敵するほどの崇高さまでは、持ちあわせていないことなのでしょうか? さもなくば……?

……いや、もちろん問題や難点らがひじょうになくもないとは、ヴェイパーについて考えています。ですがそれらのことは、いずれまた別の記事でお書きしましょう!