エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

ボードリヤール「なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか」 - 感想文その1, 愚劣さと陶酔のカ〜ニヴァル!

さいしょに私ごとで、恐縮なんスけど。パソコンの再構成、およびLinuxのインストールでつまづいてしまった結果、この記事はいつもと違う環境で書いてんでぇース。

まあ、ふだんからアタマがいい感じのことは書いてないんで、とくに何も変わらないとも言えなくないが──。
とはいえ? 〈わざわざアキバでHDDを新調してきて、そしてこのていたらく……〉という下がりきった気分でオレは。まあそういうことなんだよね。う〜。

でも、まあ。ご存じのようにOSのインスコなんて、トラブルがなくてさえも、やたら時間のクッソかかるもので。
そしてその間の退屈しのぎとして、たまにはむずかしげな活字の本でも見てよって気になったりするのは、逆にいいことなんだろうか。

で、そのご本というのが、何となく図書館から借りてたボードリヤール「なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか」(Jean Baudrillard: Pourquoi tout n'a-t-il pas deja disparu?, 2008)なのだったが。

さいしょに概要を述べておくと、現代フランスを代表する《社会学者》であったジャン・ボードリヤール(1929-2008)、これはその遺著みたいなもの。
しかしボードリさんの業績や主張みたいなことは、自分なんかにはとても要約とかできない。ただ、《後期資本主義》、《高度消費社会》、《情報文明》──、といった用語らの出てくるような言説らの、偉大なるオリジネイターではあろうと考えられる。

するてェとボードリさんは間接的にしても、われわれのヴェイパーウェイヴのご父祖くらいに、なり気味。いや、そのことを感じているからこそ、こうしてまんがでもなく挿し絵もないようなご本に、ちょっくら目を通してるワケなんだが。

人間は、テクノロジーをつうじて、デジタル的秩序への登録をつうじて消滅するという代償を払って、はじめて不死の存在となる
だが、これは不死の開かれた形であり、現実には、人間という種に関するかぎり、すでに選択は済んでおり、人類は人工知性の優越性のうちに体現される。

(以下すべて本書、p.39-40)

──うん。けっきょく同じことかも知れないんだけど逆に自分は、いまや〈デジタル的秩序への登録〉がなされてもいないような生き物は、人間とさえ見なされない《存在》以前である、ということを感じている。

だからこそいまオレたちは、時間のある限りツゥイタァーやインスタ蝿、そしてこういうブログとかをガンバっている。デジタルの世界に存在感のない生き物らは《存在》以前、という強迫に促されて。

または、もう少し社会的めいたお話にしてみると。
たとえば、マイナンバーカードとやらを持たない〈デジタル的秩序〉の外側の生き物たちが、ゆくゆくはいったいどうなってしまうのか。

いっぽうの一説によると、その何たらカードは、たぶんニホン人の8割くらいの方々にとっては、利便性と恩恵しかないような、すばらしいものであるっぽい。まさに正義のツールであるのかも。
にもかかわらず、そのニッポン人らの8割以上が、それを持たないというカタチで逆に、消極的にも抵抗を示しているのはなぜなのだろうか。

いまだわれわれは抵抗しているのかも知れないけれど、しかし現在、せいぜい8割くらいの人々らがメリットを享受するていどの話が、《正義そのもの》として全面的に押し通ろうとしている。
そうしてしまいには〈弱者はかってに死ね〉と、人々のホンネ(?)を公言できるようなピエロらを、われわれは支配者としておしいただくハメになるのだ。

亡きボードリやんが本書を著してから、もう10年以上にもなるワケだが。にしても、ここで話題になっているシュワルツェネッガーカリフォルニア州知事就任(2003年)、それがもう現在のトランプ米大統領の誕生の、実につまらんプレリュードでしかない。
〈権力者なんてェものは、いっそピエロみたいなヤツのほうが、まだいい〉というシニカルな《民意》へときれいに対応し、その面白キャラたちが、シニカルであさはかなパフォーマンスらを遂行し続けている。

代表制度の終焉への大きな一歩が踏み出されたのだが、いたるところで、見世物をあてにする者が見世物によって滅びることは、現代政治の宿命である。それは、政治屋だけでなく、「市民」にもあてはまる。

(p.61)

……とはいえそれが、意外と滅びないワケで。あるいは、滅びながらゾンビか悪霊として君臨しているんだよね。〈神々が死んでも祟りだけは残る〉と、本書のさいしょのほうでボードリィが宣告している感じで。

そして面白いのはボードりんが、アメ公らのふざけた選択をただの衆愚の表れとは見ておらず、その背後の無意識の意図を読みとっていること。
すなわち。何もかもに対してシットでファッキンだという形容詞を貼り付けて恥じないような、大USAの誇る美学と倫理。それをさらに推進し、そして全世界へ普及していくこと。

諸価値の冒涜と嘲笑という、アメリカの経験的で技術的な極限的形態、あの過激なわいせつさと、「宗教的」なはずの国民の全面的な不信ぶりこそが、アメリカのグローバルな覇権の秘密である。そのことがあらゆる人びとを魅了する。(中略)私は、皮肉ではなく賞賛として、そう考えている。

(p.62)

これをムリにでもヴェイパーウェイヴの話にしてみると、パワー(権力)の愚劣さに対抗してわれわれもまた、諸価値の冒涜・嘲笑・過激なわいせつさ、そういうものらを《表現》し。かつまた〈全面的な不信〉をエンジョイし。そして《収奪》という美徳を見習って、存在しているサウンド資源(&ゴミ)らを略奪&盗用しているが。
しかしどうにも《パワー》がない──、いやま、あったら逆によくないにしても。

フィリピン大統領「マスクはガソリンで拭くといい」(2020/07/31) - BBC
フィリピン大統領「マスクはガソリンで
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いまわれわれの歓迎する愚劣丸出し
ピエロ的支配者像、そのまたひとつ

ムキ出しの愚劣さ、厚顔無恥、そしてシニシズム等々を、“誰も”が堂々とぶつけあっているこの世界の中で、オレらのヴェイパーウェイヴは、少なくともウソのある表現にはなっていない。どう見てもマシな方、誠意を感じるようなところもちょっとある。
かといって、それが《何》になるのだろうか?

……ということで、もうけっこう話が長くなっているので。この感想文をいったん〆くくりたいです。
で、少なくともあと一回。ボードリやんやんの考えた黒人白人対立の図式、そして現在のG.フロイド氏虐殺とその波紋、そうしてわれらのヴェイパー・ヒーローである《Kid Mania》のリアクション()、という話はぜひ書いておきたいので、よろっしゅオナシャ〜っス!

それにしても?

ただいま自分は、USBメモリからLive起動させたUbuntuで、これを書いてんスけど。
意外にひととおりのことがデキなくはないが、それにしてもいちいちレスポンスが悪い。

そして現在、遅さをきわめながら実行中のタスク……。何かの手違いでHDDがインストールを受けつけないので物理フォーマットによる対処、これがもし成功しないと、また新しく別のHDDを買ってこないとならないんだろうか。

そしてこういうつまんねー苦労もまた、オレごときがどうにかボードリつぁんも言う〈デジタル的秩序〉、そこにハマっていくためにはしょーがねェのだろうか。
いや正直、ウィンドォ〜ズならよくあったようなトラブルだが、しかしLinuxでそれにぶつかることは、想定外だったんだよね。

そんな、《GAFA》っぽいものらに対するLinuxGnuOSS的なもの。そして、《後期資本主義》とかに対するヴェイパーウェイヴ。
オレらははたして、《オルタナティブ》みたいになれているのだろうか。そしてそうだとしても、そのオルタナにどういう意味が?

《人間》とやらの終焉を眺めながら、あるものたちはシニカルな態度に終始し、また別のものたちはギリギリの尊厳へとしがみつく。たったそれだけ? それ以上の意味が、何か?