マーク・フィッシャーさん(1968-2017)は、イングランドの著述家・教育者です(☆)。
そして『資本主義リアリズム』(2009)は、彼によるさいしょの刊行物です(☆)。
その邦訳書を一読しましたので、少し感想のようなこと&エトセトラを、以下に書きます。
いやさいしょに申したほうがいいのでしょうか、私はこの書の内容や主張らに、約九割くらい同意です! 大いに共感しています!!
さて。ここでフィッシャーさんがあばき出している《資本主義リアリズム》の、うすら居心地よい牢獄──とは言え、固くカギのかかった場所とも違うようですが──。
これはアルチュセール、フーコー、ドゥルーズといった諸氏らが描き出していたのと、似たようなところがありつつも。だがそれを、21世紀の現在に即したかたちに描き足している点に、大きな価値があると思われます。
ですが、そのシステムのあまりなパーフェクトさの前に、ただ打ちひしがれているだけ、では仕方ないですよね?
そこでフィッシャーさんは、本書のやや早いところで、《資本主義リアリズム》の弱点を──その持続可能性の“なさ”のきざしを──、三つ指摘されています。
これをラカンさん風にかっこよく言えば、《“現実的なもの”の回帰》がしてくるポイントたちを、です。イェイッ。
その三つとは、環境破壊・“うつ”の蔓延・官僚主義のばっこです(p.52-58)。
そして。環境問題についてはすでに議論されているところが多いとして、〈官僚主義〔ビューロクラシー〕と精神保健〔メンタルヘルス〕の問題に焦点を当てる〉──と、本書は展開されます。
そうしてそれに続く記述らは、本や新聞を読みネットを見てお勉強して書かれたようなもの、ではありません。というのは。
フィッシャーさんの本業は、イングランドの〈継続教育カレッジ〉の教員、というものでした。その学校は、非エリートの青年らを《資本主義リアリズム》システムのよき成員にするための施設……らしいのです。ちなみにフィッシャーさんご自身も、お生まれは労働者階級です。
そしてそうした周縁的な教育施設のワーカーとして見た、学生たちのメンタルのかなりなよくなさ、そして職場を侵しつづけてやまない官僚主義──という実地の体験や見聞が、続く記述らのベースになっているのです。どうりでの、迫力と説得力です!
あ、いや、もちろん、〈実地の体験や見聞〉が“すべて”だとは言っていませんが、そのあたりはお分かりください。
さて。まずフィッシャーさんがその何とかカレッジで見たものは、非エリートであるモブ学生たちの、あまりな無気力・不まじめ・集中力のなさ、です。
《資本主義リアリズム》のもと、官僚主義・業績主義・営利主義らをモットーに経営されているこのカレッジには、やる気がまったくないだけの〈学生=カスタマー〉らを何か制裁するような仕組みなど、実質的に存在していません。
それを学生らも分かっていて、もう、やりたい放題のいいかげんさに溺れているらしいのです。私語や飲食や居眠りやら何やら……このひどい様相の描写が、よくないですけど、逆に少しゆかいに思えるくらいです。
〈学級崩壊〉ということばもすでに1990年代の用語ですが、その何とかカレッジという学校もまたずっと崩壊しつづけており、しかも見かけ上は、“成り立っている”。
何しろ毎年、とにかくも学生らを卒業させ、いっぽうで入学者らを迎えているのでしょうから。かつ金銭のフローも帳簿上は、みごとに“成り立っている”はず。
これはまさしく、《資本主義リアリズム》のりっぱなモデルのひとつでしょう。
〔このカレッジの学生らから、〕教員がもっとも多く耳にする苦情は「つまらない」である。〔…〕
「つまらない」と感じることは単純に、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミュニケーションと感性的刺激の母胎に埋め込まれた状態から離脱させられ、甘ったるい即時満足の果てしないフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。
(p.66)
本書は2009年の刊行物ですから、〈スマホ中毒〉みたいな症候は、いまだなかったようです。現在だったら、確実にそれでしょうね!
そしてフィッシャーさんが特筆しているのは、授業中にヘッドホンを離さない、もしくは離せない学生のことです。これは、ほぼ私です。
なぜいつも授業中にヘッドフォンをかけているのか問いつめたことがある。
彼は、どうせ音楽を聴いているわけじゃないから問題ないだろうと答えた。
(p.67, 改行を追加)
聴いてはいないとしても、〈社会性に対する壁〉として、彼にはそれらがぜひ必要なのです。ポップ音楽、およびそのこういった享受の継続が。
これまで出会った十代の学生の多くは、鬱病的快楽主義と名づけられるような状態にあったと思う。
通常なら、鬱病は非・快楽[unhedonia]の状態が特徴だとされるが、ここで述べる状態は、快楽を感じることができないわけではなく、むしろ、快楽を求める“以外”何もできないというのが特徴だ。
(p.61-62, 改行を追加)
で、その快楽というのが、チャット参加や〈ようつべ〉のご鑑賞、またはジャンクフードやソフトドラッグらの摂取、といった実にみみっちいものになっており。
しかも彼らにはそれしかできない、それらをまったくやめられない──、それらの安い快楽たちで形成される母胎的環境から離脱している状態が、〈つまらない〉やら何やらで、とても耐えられない……というわけです。
どうしてこんなことになっているかというと、フィッシャーさんは、この非エリート階級の青年たちが押しつけられている、〈再帰的無能感〉というものを指摘します。
とは。何しろこの《資本主義リアリズム》の世界は、すべて万事が実力主義&自己責任であるはずで、そしてグローバルな自由がそれを保証しています。
とすれば、そこにおいてモブでしかないものは、つまり無能であるとしか考えられません(!)。痛いですね!
そして、このしみわたった無能感が、再帰的な自己実現によって人々をますます無能とし、そして、うつの蔓延に貢献していくのです。
いまの青年たちの思うところなんて、分かりませんが──われらのフィッシャーさんでさえ、それほどよくは分かっていない感じですが──。
たとえばジャスティン・ビーバーさんやビリー・アイリッシュさん、またはスポーツのメッシさんやクリ・ロナさん、等々々……。そういったセレブであるスターたちが存在し、その座に憧れている人はかなり多いと考えられます。
だとして、なぜ、私たちはセレブでもスターでもなく、せめてミリオネアでさえもないのでしょうか?
この《資本主義リアリズム》の世界においては、そこにどういうエクスキューズもありえません!
と、そうして《資本主義リアリズム》世界の押しつけてくる無能感と、青年らに特有の全能感のはざま──。それらの拮抗し葛藤しているところに、フィッシャーさんの指摘される、〈鬱病的快楽主義〉というアチチュードが生じ……。
さらにこじらせれば──みみっちい快楽らによる自我の防壁が崩れてしまったら──、彼らはほんとうのうつ病になっていくのでしょうか。
ここでちょっと、振りかえってみますと。
むかしどこかの論壇で、こういうことが、しげく言われていました。
〈19世紀は、“ヒステリーの時代”/20世紀は、“分裂病の時代”〉
それぞれの百年間の、社会状況や精神性らを象徴するような症候たちが、それらだということです。あまりにも広汎に言われていたことだったので、大もとの提唱者がどなただったのか、考えてもみていません。
……なのですが、私なんかも21世紀に生きていることを自覚したとき、〈じゃあ、いまは何なんだろう?〉とは思ったんですよね。
それを2010年あたりには、しっかりと分かりました。さっきのスローガンの続きとして、〈21世紀はうつ病の時代である〉と、言えそうだと。
じっさいに今世紀、うつ病はその症状などを多様化させながら──双極性どうこうとかいう二つ名などをも与えられ──、広汎に蔓延しつつある、と認識しています。統計などの見方は存じませんが、そうでもないという話は聞きません。
あとそういえば、キング・クリムゾンが抗うつ薬のすばらしさを謳歌した(!?)名曲「プロザック・ブルース」(☆)の発表が、ちょうどミレニアムの2000年です。《ポップ音楽の予言性》みたいなものは、なお現在なくもないようです。
などなど、ご紹介してきたようなことは、まさか青年らだけの問題ではなく、“誰も”がそうした無能感に、どこかでさいなまれているものと考えられます。じっさい本書の終盤あたりでフィッシャーさんは、彼の何とかカレッジの機構がワーカーたちに押しつけてくる無能感、ということも記述しています。
しかも、そうしたシステムの中で……。
逆に自分を責めることを知らず、言動の一貫性が皆無、共感性もないが、うわべのお調子だけはよく──。
つまり、ありていに言うなら厚顔無恥にして仁なきやからが、そこにおいてみごとな適応性を示し、表面的な実績を挙げ、上からも高く評価される、とのこと。
ああ、このような人格──《資本主義リアリズム》によって期待される人間像──を、いったい何と呼んだらいいのでしょうか?
たとえば、《サイコパス》とか《ソシオパス》とか……。これがまた安っぽいネット用語みたいでいやですが、しかし他に適切な言い方を、ちょっと思いつきません。
まあ、いまここでは、ネットで雑に言われるくらいな意味での《サイコパス》という語を、ひとまず採用しておきます。
そうして私たちの《資本主義リアリズム》世界の展望は、うつ病者およびその予備軍である大量のモブたちを、選ばれし優れたサイコパスらが監視し管理し収奪する──、というものになるのでしょうか? いや、すでにそうなのでしょうか?
ところで。いま少しフィッシャーさんの文脈を離れると……。
《資本主義リアリズム》の押しつけてくる過剰な自責、その対象が、自分ではなく外部に向け直されたりすると、またとんだことになるでしょう。
すなわち、これもネット用語で恐縮ですが、いわゆる《無敵の人》の誕生です。
フィッシャーさんの生きた時期のイングランドでは、〈若ぇモンらは無気力でしょーがねェな!〉だけの感じだったのでしょうか、そういう逆向き方面のお話は、本書には出ていません。
ですけれど、うつをこじらせた結果、自殺の代わりに無差別殺人をなすような《無敵の人》らの出現が相次ぐことには、この世界の中で必然性が“ある”、と思われるんですよね。実によくないですが。
無敵の人らは、または〈へたくそなサイコパス〉、とでも呼びうるのではないでしょうか。〈欲望の解放のさせ方が、へたっぴ〉……というマンガの名せりふがありますが(福本伸行『賭博破戒録カイジ』)、この世界でのサイコパスとしての成功にも──くだんの言を発した《大槻班長》もまたサイコパスです──、かなりなていどの資質やテクニックらが必要のよう。
それこれもまた、困った意味でのラカンさん的な、《“現実的なもの”の回帰》として、私たちの前にあります。《行為への移行》と呼びうるものです。
以前ご紹介したボードリヤールさんのお説によると、2006年W杯ドイツ大会決勝戦の〈ジダン頭突き事件〉──、あれはグローバル資本主義の勝利の祭典であるワールドカップの壮大なくだらなさを、みごと暴露してくれた快挙らしいですが(★)。
それと少し似たような感じで、《資本主義リアリズム》のパーフェクトさの破れ目が、それこれの〈事件〉らとして噴出するのでしょうか。
そしてまた、《無敵の人》まではいかずとも──。
オルタナ右翼やネトウヨや陰謀論者、さもなくば、《なんJ民》、《ヤフコメ厨》、《ツイカス》、あるいは《おフェミ》……。そういう方々の台頭や勃興にしても、全能感と無能感との相克、そのお苦しみの結果か、という気がするんですよね。
すなわち。そちこちで横行している〈ヘイト〉的でへんに過剰な言説や行為らは、《資本主義リアリズム》が主体らへ無限に求めてくる自責の裏返ったもの、とも考えられるでしょう。モブにすぎないとの自覚を押しつけられすぎた人々による、モブなりのセンチメンタルな逆襲なのでしょう。
しかも。こうした方々の言説や行為らは、そのすべてが、《資本主義リアリズム》のさらなる強化発展へと、貢献なさいます。ちょうど、かの無敵の人らの《行為への移行》たちが、私たちの誇る《監視社会》に、大いなる強化と発展をもたらしてくれたように!
シグナルの覇者・天気予報さん!
で、さて……。こういうことですが、どうしましょうか?
私みたいな弱きものは、“とりあえず”、自分自身がうつ病にならず、自殺せず、無敵の人にもならないように──(サイコパスへと成り上がれる資質はなさげ)──くらいしか、まずは考ええないんですよね。
対策のひとつは、やっぱり言うんですけれど、ヴェイパーウェイヴです。
これはいっぽうで抗うつ的な機能を強力に備えつつ、しかも《オレの批判的アチチュード!》という自己マン足・自己肯定感を、大いに促進してくれます。いいクスリです、ヴェイパーウェイヴ! ピンポ〜ン!
……というあさはかな宣伝CM(シグナルウェイヴ)も、半分は本気ですが。けどまあ、この駄文も、そろそろしめくくりということで……。
フィッシャーさんによる記述らのうち、《官僚主義批判》というところをほとんどカバーできませんでしたが、ぜひそのあたりは本書自体でお愉しみください。
そういう話題だと出ないわけにはいかない、われらの文豪カフカさん。その作品らに対するフィッシャーさんの読みが鋭くて、ほんとうにわくわくします!
かつ、本書に続いた彼の著作である、『わが人生の幽霊たち』(Ghosts of My Life, 2014)。これも邦訳があって近く拝読するですので、そのまた感想などを、いつかお届けするでしょう。