エッコ チェンバー 地下

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Brian Eno: Ambient 1 - Music for Airports (1978) - イーノ《アンビエント宣言》の私訳 と、《ミューザック》

ブライアン・イーノアンビエント1:ミュージック・フォー・エアポーツ」(1978)。それは《アンビエント・ミュージック》の第一号でありかつ、いまだ超えるもののない、そのジャンルの最高傑作。……ここまではいいね?
そしてそのアルバムの、ご本人によるライナーノーツは、このジャンルの創始者によるアンビエント宣言》というべきもの。いや、ずっと前から「何か言われてるなァ」とは思っていたが、それをこのたび初めてちゃんと読もうとしてみた。

アンビエント・ミュージック》


“ある環境の背景として特にデザインされた音楽”というコンセプトは、1950年代にMuzak社によってさきがけられたもので、それからそういう音楽一般が《ミューザック》と呼ばれるにいたっている。
このミューザックと呼ばれる音楽のイメージはというと、おなじみの楽曲らが、ライトでありきたりなオーケストラ編曲をこうむったようなもの。
そのようだからそれは、大部分の識別力あるリスナーたち(そして大部分の作曲家たち)を、「環境的音楽のコンセプトなどは注目に値しないアイデア」という考えに導いた。


過去3年の間、私は環境(ambience)としての音楽の使用に興味を持つようになった。そして、妥協なくしてそのように用いられるものを創ることは可能だと考えるにいたった。
私は、この領域の私自身の実験と、缶詰めみたいな音楽のさまざまな業者による製品らとの区別をつけるために、《アンビエント・ミュージック》という用語を使い始めた。


環境(ambience)とは、ふんいきであり、取り囲む影響源だと言える。また、ひとつの色合い(a tint)だとも言いうる。私の目的は、表面上は特定の時と状況のためのオリジナルの作品を制作しつつ、そして多種多様なムードとふんいきに適している環境的音楽の、小さいが多用途に使用できるカタログを作ることだ。


缶詰め音楽の会社らが、彼らの音響とふんいきの独自性を覆い隠すことによって環境らを整えようとしているのに対し、《アンビエント・ミュージック》は、それらを強化することを目的とする。
従来のバックグラウンドミュージックが、音楽からすべての疑いと不確実性の感覚(そしてすべての本物の面白み)をはぎ取ることによって生産されるのに対し、《アンビエント・ミュージック》はそれらの性質を保ち続ける。
そして、彼ら業者たちの意図が、刺激を環境に加えることによって、それを“輝かせる”こと(おそらく日常的作業らの退屈さを軽減し、生体リズムの自然な上昇下降をフラットにする)であるのに対し、《アンビエント・ミュージック》は落ちつき(calm)と考えるためのスペースを導き出すことを目的とする。


アンビエント・ミュージック》は、特に人を強いることなしに、多様な聴取のレベルらを受けいれることが可能でなければならない。それは興味深く、しかも無視することが可能なものでなければならない。


ブライアン・イーノ 1978年9月

英語の原文は、ハイパーリアルに掲載されているものを参照した()。

そして以下……まず、付帯説明(言いわけ)。

イーノによる英語原文、何とか意味は取れても構文がむげに複雑で、和訳がすごくむずかしいと思った。よってスマンが、意訳に逃げているところもある。一部は、機械翻訳の出力をイキにしている。また、日本語にすると逆に分かりにくいので、せめてもと改行等を追加している。
訳文中の〈環境(的)〉という語らは、基本的には“environment”およびその派生語らの訳。そうでない“ambience”の<環境>については、カッコ内に補った。
なお、《アンビエント・ミュージック》としてカッコでくくっているのは、《Ambient Music》という大文字入りの表記への対応。

そして、自分の感想。

イーノが《アンビエント・ミュージック》の創始にあたり、既存既成のBGMやミューザックらに対し、こうしてかなりの対抗意識を燃やしていたとは意外だった。自分なんかはゆるいリスナーなので、あまりそこらを意識していなかった。
というか、《スーパーのBGMみたいな音楽》をかなり愛しちゃっている自分としては、イーノの宣言について、少々カチンとくるところもある。だがしかし、ここまでの意識の高さ強さがあったからこそ、あの崇高さをきわめた「ミュージック・フォー・エアポーツ」などの創造が可能となったのだろうか。

ちなみにイーノさんがこき下ろしているミューザックの、それらしいものがちらほらとネットに存在している()。そのアルバムらのタイトルが“Muzak - Stimulus Progression”とあるあたりは、〈刺激を環境に加える〉というイーノの指摘の裏付けなのだろうか。
が、こういうのも、ちょっとイイと思っちゃうんだよなァ……弱い自分は。

ふだん缶詰めの食品を平気で喰っているんだから、缶詰め音楽もまたよし、くらいに考えてしまうのは、芸術家気質のなさゆえなのだろうか。また、むりにカッコつければ、缶詰めといえども《キャンベルスープ缶》くらいになればアートに向かってのワンチャンあり、という見方は安易なのだろうか。
いや考えていったらこれは、キッチュに対する態度、方法としての向かい方、ということだろうか。キッチュが必ずしも悪ではなかったとしても、ひとまずイーノは《方法》としてそれを排除し、そして人類史的大勝利を果たしたということか。