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谷川ニコ等『私がモ(…)お前らが悪い! 小説アンソロジー』 - もし私がいなければ、何もかもが悪い!

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!〜小説アンソロジー』(2019)、これを拝読しました。
今21世紀の初頭を飾っている傑作マンガ、私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!──通称『わたモテ』──その、公式の二次創作めいたアンソロジーです。

以前にこの場でご紹介しました、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!〜ミステリー小説アンソロジー』(2021)。それのシリーズ的な前作で第一弾だと、考えられる書でありましょう()。

本書に収録されているものは、小説5編とイラスト7点(カバー画含む)。本の厚みは、約208ページ。
とは、第二弾であるミステリー編(320P)に比し、ずいぶん薄い本でした。しかし価格は同じなので、追ってサービスが向上していると考えられましょう。

で、さて。私というファンは順序を逆に、第二弾のミステリー編から第一弾の無印へ、この『わたモテ』小説集を読みすすめ、ひとつ分かったことがあります。

わたモテのミステリー集について、〈なぜミステリーなのかな?〉という疑問を少しくらい抱かれた人は、おそらく私だけではなかったでしょう。
もと作品である、『わたモテ』が……まあ、《日常コメディ》みたいなマンガですから。そこから急にミステリーというのも、ややとうとつでは、と。

ですがしかし、この第一弾の無印アンソロジーを拝読したことにより、その疑問がすっきり氷解いたしました!

それは。〈女子高生同士のネチャネチャした人間関係ごときを描いてるだけでは、まったく面白くなんかならないので〉、ということです。
まあ少なくとも、私どもがいつものマンガ本編『わたモテ』から受けとっているような面白さには、なりえないのです。
その現実を、本書に所収の作品らのいくつかが、実証してくれています。

ですからせめて、表面的にでも《ミステリー》という仕立てにして、〈なぞが提示され→解決する〉、というカタルシス的なムーブメントを盛りこんでいこう、と……。
そのあたりが意図されていたとすれば、小説集の第二弾がミステリー大会になっていることに、きわめて大いなるなっとくが得られるのです。

関連し、本書を見てみて、とても強く痛感いたしましたことは……。

私たちのけがれなく優美さをきわめたヒロイン、つまり《もこっち》こと、黒木智子さん! イェイッ、その存在の、あまりな至上のかけがえなさです。
もしも彼女がいなかったとしたら、この『わたモテ』の世界には、面白いことなどひとつも発生しなかったでしょう。であると、大断言すべきです。

第5話、ホームタウン幕張を歩くもこっち&親友のゆりさん(p.157)
第5話、ホームタウン幕張を歩くもこっち&親友のゆりさん(p.157)

ですがいっぽう、本書に所収の作品らの中に、われらのもこっちがちょくせつには登場せず、ちょっと言及されるだけ、というものらがあります。
それらが、もう、実に……! 述べましたような、厳正にして厳しゅくなる事実と現実たちを、まざまざと直視させてくれるのです。

そして前記の気づきらを合体させてみますと、こういうことでしょう。

そのジメっぽい、〈女子高生同士のネチャネチャした人間関係〉などが、もつれきっているところ──。
そこへ私たちの崇高なるヒロインが、多くの場合は巻きこまれる形で介入し、状況をひっかき廻す。言われるところのトリックスターを(結果として)演じ、違う立場や違う見方らを、そこに提示する。
それにより、なぜかはともかく関係らのもつれがほぐれ、まあ目前の問題らがいちおう解決されてしまう……。

そのようにして、本編『わたモテ』のヒロインであるもこっちが、その人望と声望を高めてきたわけです。作品の内外において。

もっとも大きなその種の事例は、多くのファンがきわめて高く評価している、〈遠足編〉エピソードでしょう(単行本・13巻)。
根元陽菜さんと岡田茜さんとの、実にジメジメした……とも言いたくもなるような、ひとつのいさかい。それがもつれきったところで、不本意にも巻きこまれたもこっちが、真人間らにはぜったい思いつかないチン妙きわまる所業により、事態を丸っこく収拾してしまいます。

そして、その流れを見ていた加藤明日香さん──こういう言い方はあまりよくないが、作中の《スクールカースト》の頂点にいる最強生物──が、もこっちに大きな一目を置くことになります。
そこにいたったプロセスはよく分からないにしても、何か自分にはできないような英雄的なことを、もこっちはなしたのだ──と。この人は、分かっています。

もうひとつ。さかのぼって、『わたモテ』全編のストーリー面の一大ターニングポイントだと広く認識されている、〈修学旅行編〉(単行本・8〜9巻)。
これがまた、似たようなことで──。

不本意ながら修学旅行班の班長に任命されたもこっちが──そのつとめをやり上げようと前向きには考えながら、しかし──お得意のとんちきな奇行らを繰りかえすことによって“逆に”、班メンバーたちの中にギスギスと存在したうっ屈やわだかまり等々を、解きほぐしていきます。
そしてその達成が、現在にまで続く、彼女らの友情のきずなの強さを作りあげたのです。

……で、そうしてです。
もしも前記ふたつのお話らから、もこっちという英雄をマイナスしてしまったら、何がどうなるというのでしょう? 悪夢ですね!!

……ではありながら、しかし。
そのまったくの悪夢みたいなお話らが、この小説集に含まれているということが、きわめていかんなのです。ギャグ的要素もなくて。

……といった認識の収穫たちが、この読書によって、得られました。

さて、あと、書いておくべきことは……。

偉大なる辻真先先生──そのご生誕は1932年、大ベテランにしてなお第一線で活躍中の作家&脚本家──による第2話、本書の中の最大の問題作、「私がウレないのはどう考えても読者が悪い!」。これを、どう見ましょうか、ということです。

それがなぜ問題作かというと、ざっとネットの評判らを見た感じ、〈かなり否が多い賛否両論〉のようですので。まあ、ちょっと。

では、これがどういうお話かを、やや説明してしまいますと。

第2話、〆切りに追われパニックの文豪・黒木智子さん(p.44)
第2話、〆切りに追われパニックの文豪・黒木智子さん(p.44)

いずれどうにかプロっぽい作家になった感じのもこっちが、〆切りに追われ、そしておなじみの顔ぶれが演じる編集者たちに責められながら、何か小説とかを執筆しているようです。
しかし状況らが脈絡なくころころと変わり、たぶんそういう夢をみているのかな、とも思えますが。しかし帰着すべき《現実》が、判然としないまま、終わってしまっているもよう。

そしてそういうお話の中に、ギャグらにあわせ、タイポグラフィックな変化、いくつかの作中作の断片、そして《メタ的》な描写と展開、といった実験らが盛りこまれています。尺は、26P。

私の感想を申しあげますと、ともあれ印象の強さでは本書中でいちばんだな、と……。

いや、そのむかし、『ブンとフン』(1970)というユーモア作品がありまして。かの井上ひさし先生の、小説デビュー作だそうですが()。
それがまた、ダメで売れない〈三文文士〉のフン先生という小説家が、何かとドタバタご苦労なさるようなお話で。
そして作中作のキャラクターである《怪盗ブン》がメタ的にとび出してきて大あばれ、当時の世相をバッサリと風刺。かつその文中に、のりしろやキリトリ線などが挿入されているという、大胆な実験作でありました。

そういうお作を確か中学生くらいで拝読し、とても面白い、自由ですばらしい、と感じたことは憶えています。
そうした時代の文学的な実験とそのスピリットらを、現在に呼びかえしていることが、この短編「私がウレない(…)」の印象の強さの原因でしょうか。

📖 ✍️ 🤔

また。辻先生によるお話の中でもこっちが、原稿の枚数を稼ぐため、番号によって人々が点呼される、というシーンを描こうとします(本書, p.38)。
すなわち、〈「1番!」/「はい」/「2番!」/「あいよ」/「3番!」/「へぇーい」〉──と、いったぐあいに。
このかけあいを、いちいち改行しながら書けば、たちまち枚数がはかどってしまう作戦でしたが……。

……でしたが、このいきおいで三百人くらいを続けて呼びだそうとしたら(!)、編集者の役の吉田茉咲さんに叱られ、ぶたれて終わっています。

というこの、〈点呼の描写で原稿の枚数を稼ぐ〉というギャグが、とてもノスタルジックなんですよね。これぞ、1970'sグルーヴである、とも言えそう。確か筒井康隆先生が、どこかに書いておられたと思います。

そのようにして。このあたりで呼びだされた、辻・井上・筒井という先生らお三方が、いずれも1930年代生まれでいらして。
そしていずれも《方法》への意識の強みなどにより、ニッポンの文芸およびその周辺の世界らに、いまなお大きな影響を及ぼしつづけています。
何かその崇高なるオーラの断片が、本書所収の辻先生のお作にも、ちらりと輝いている感じなのでしょうか。

とも、申しあげながら。

せいぜいのところ20世紀に〈実験的〉だったようなことたちが、21世紀の現在の《実験》であると、言えるのでしょうか。
これは、私どもの本来のテリトリー、アンダーグラウンドなポップ音楽についても、思うことなのですが……。同じようなへんなことを何十年もやりつづけているとして、その営為が《実験》だとか《前衛》だとか、呼ばれうるのでしょうか。

ですから、実験的なフィールのあるキッチュでしかないのでしょうけれど。しかし私どもは、そのキッチュであるものたちを、(ひとまずは、)受けいれる立場です。