エッコ チェンバー 地下

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原泰久『キングダム』 - 幻想のビズネスは幻想によって裁かれ、そしてボクらは偽善を呼吸する。

原泰久氏による古代中国史(風)劇画、『キングダム』。2006年から週刊ヤングジャンプに掲載中、単行本は現在58巻まで既刊。
それが、言わずと知れた大ヒット作……どころか、21世紀にスタートした青年誌のまんがとして、たぶん一番か二番のベストセラーだと思うんだけど。すごくない?

しかし、作品『キングダム』のことは、いったんおくとして──(その話は後述)。

この2020年8月から現在にかけて、また別の話題を原泰久先生が、結果として振りまいている。バズっちゃっている。
それがどういう話題かって、おそらくご存じだろうけど、ぺであのそっけない記述によれば……。

〈2020年に妻と離婚。同年、タレントの小島瑠璃子との交際が報じられた。9月3日、Twitterで週刊誌上の離婚報道を認めてファンに対して謝罪した。〉(

けれどこの謝罪文の提出が、いまのところあまり、消火活動として機能していない気配。いやむしろ、謝罪したからには有罪を認めた、すなわち悪人である、許せん!──という《論理》の発動が考えられる。

そういえば。ついいま知ったことだが原泰久先生は、〈2000年、九州芸術工科大学大学院修士課程、情報伝達専攻 修了〉、というすばらしい学歴をお持ちだとか()。
しかしこの大学院で研究されている、《情報伝達》の理論だか技術だか、その実効性はどうなの……?

いや、そうじゃないっ。何となく流れに乗って、ついオレまでが皮肉っぽいことを書いちゃった気がするけれど。
まず原則的には、ヨソの人らの不倫や離婚らごとき、とやかく言うのはくだらないと思ってるんだよね。別に犯罪ってワケじゃないし、どうせ人間社会にはつきものなんだから。

……だがしかし。こういう《醜聞》の発覚にいたるまで原泰久先生(たち)が、〈よき家庭人でもある〉という端正にして高潔なるイメージ(=幻想)を、長らく彼(ら)のビズネス宣材の一部にしてきたとすれば、それはまたどうだろうか。
その商売には、アンフェアなところがある!──と指摘されてしまうのも、ちょっとやむをえないのでは?

だいたい、この《高度情報社会》みたいなワールドでオレたちは、モノであるより情報を消費しながら生きている。たとえば《ラーメンハゲ》こと芹沢サンの名言にも、〈ヤツらはラーメンを食ってるんじゃない。“情報”を食ってるんだ!〉、とあるように()。

だが“情報”とだけ言いきったら、ちと抽象的。そこでもう一段階ほど具体的に言えば、その情報らが喚起する、好ましき《幻想》──それをエンジョイすることに対し、オレらは悦んでカネを出しているのだろう。
よってその《幻想》を売っているものたちが、せっかくの幻想らを自分でブチ壊しにかかるのは、実に商法としていただけない。そこいらで原泰久先生が叱られているんなら、まあ分からん話でもなし、と言わざるを。

いや、だからって、わざわざご本人(ら)のツイ垢等に凸とかするのはどうかってワケだが……。
けれどだいたい、悦んで《幻想》に対してカネや時間を使っているオレたちは、その《幻想》を幻想だとは、ほぼ思っていない。ゆえにその《幻想》らの崩壊に対しては、つい激烈な反応に出がちなんだよね。

なので、『わたモテ』や『あいまいみー』らの傑作に正しく描かれている通り、《女性声優》であれば、断じて処女であるべしというオレらの《幻想》を、きっちりと支え通さねばならない。さもないと、たいへんなことに!

と、そんな《幻想》らをヘンに追い求めてるオレらを搾取する、幻想ビズネス──。あるいはボロい商売なのかも知れないが、しかしその反面のリスクはとても大きいのかも。

ところで? ここからちょっと、われらが原泰久先生の作品『キングダム』、その内容についてふれたいんだけど。

自分的に、多少これを集中して読んでいたのはむかしのことで、〈初期から一時までは、確かにスゴく面白かったけどなァ〉というイメージしか、いまはない。
という〈一時〉とは、どこが一時なのか? 確か、呂不韋が失脚しちゃって以後、自分としてはまあどうでもイイお話になった気がしてるんだけど。

しかしまあ、いまこういう駄文を書いてるので、ネット上の《試し読み》で冒頭を再読したら、あ、なるほど……! この初期『キングダム』は、確かに凄ェイカしてやがる、と確認できた。

そしてその冒頭に、われらの原泰久先生は、きっぱりと描き込んでいるんだよね。

〈(孔子も讃えた西周の君子的統治という、)聖者の刻(とき)は 終わった
その時代──── 人間の欲望は 解放されていた
五百年の 大戦争時代、「春秋戦国時代」である──。〉

このイントロに続いて登場した、主人公の信ちゃんとその親友の漂くんは、端的に言ってド底辺の少年奴隷。そのどん底の生活からはい上がるため、ふたりして殺人の技とパワーを磨きあっている。自分らの《欲望》ムキ出しで、手段とかを選ぼうという気もなしに。

そして。そういうさわやかな《偽善のなさ》からスタートした『キングダム』は、追って現在にいたるまで、そうした性格を保ち続けているだろうか?

そもそも、です。始皇帝による諸国侵略&暴政ストーリーなんて、どっちかというと本来は、《胸糞》的なお話ではないだろうか。
けれどこの『キングダム』がその序盤で描いた、信ちゃんはモロにみじめな奴隷、エイ政も王だけど権力基盤が薄弱で死なされそう──、そうした窮地から《必死で》はい上がろうとする少年たちの姿。それが、共感を大いに集めたと思うんだけど。

だがしかし。そんな《必死》の窮地からの脱出というモチーフがほとんど消失して以降、『キングダム』の内容には、ヘンな偽善性が目立っていないだろうか。
もっとはっきり言えば、いくら大むかしのお話にしても、ムリな詭弁と作りごとによって戦争や殺戮をムダに美化する、堂々たるクソまんがになってはいないだろうか。

そして。しっけいだけど、〈ああ、またこのウソと偽善のまんが……〉という『キングダム』評価がすっかり定着したところで(!?)、現在いま原泰久先生というその著者が、まるでウソつきの偽善者でもあるかのように一部で、そしられている。
たぶん、初心を忘れるべきではなかったんだよね。〈聖人君子とかクソ喰らえッ! レッツ・欲望の大解放ッ!!〉という、『キングダム』冒頭で打ち出されたテーゼを。

ところが、それが、まるで太宰治ヴィヨンの妻の夫の画家でもあるかのような──。そしてその偽善性が、太宰によるフィクションの内容と同様に大ウケだったので、偽善は偽善で押し通さないとヤバい、そのことを教えられたんだよね。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

──ってまあ? 以上の記述の後半の『キングダム』評価は、ずっと前から思ってたことたちを、いま言えることばでまとめたものなんだけど。
がしかし、こういうディスっぽい話を、ご本人が弱まっているタイミングで世に放つってのも、ヒキョーだって言われたらそれはそうか……。まあこんなオレちゃんも、クソリプの機関銃みたいなツイッタァラーの先生方と、けっこう似てないワケでもないってことか!