ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave et compagnie, Désir Duplication Répétition ─

山本弘『MM9』 - 21世紀の《怪獣》耽溺者, または SF と 観念論

どうにもオレらが《怪獣》ってものをいまだ、すこりすぎなキライを感じてしまう、21世紀のいま現在。
現実的には怪獣なんて、出てもいないし、その被害をこうむった人もいないはずだが。けれども怪獣を語るお話らの出現は、いっこうにあとを絶たないよね?

まあ逆にその《現実味》のなさがよいのかな、とも思う。これを戦争や災害の惨禍とか、クマやイノシシらの《害獣》を駆除するお話とかに置き換えたら、リアルであっても軽みがなさすぎ。
するとエンターテインメントとしての《怪獣もの》は、根本的には〈なさそうなお話〉──ゆえに安心してエンジョイ可能──に、ほどほどの何かのリアリティを加味。そのバランスが、制作の勘どころなのだろうか。

さてなんだけど。このブログの7月上旬の、〈2020年下半期、かってに注目のWebコミック・ベスト5〉とかいう記事()。
そこに自分は、《怪獣》という語がタイトルに入ったまんがを、2コもピックアップしていた。井上淳哉『怪獣自衛隊)、松本直也『怪獣8号』)、というふたつの作品。

別にわざわざ怪獣ものを入れようと思ったわけもなく、じゃあ自分もやっぱり《怪獣》をすこりっぱなしなのか、と自覚させられる。かつ、それが自分だけの特殊な嗜好という気もしなくて。

そして。当該の記事にも書いたようなことだが、ここでそれら二作の、〈なさそうなお話に少しリアリティ〉のさじ加減を見ておくと……。

まず『怪獣自衛隊』で出現する怪獣、それ自体は巨大なクジラに触手がついて人を喰うようなバケモノで、ハリウッドSFX映画とかにも出てそうなヤツ。で、それに対する、自衛隊とか人々の反応や対応にリアリティがある──もしくは、リアルな描写が目ざされていそうな気配がある。

いっぽうの『怪獣8号』は、シチュエーションをわれわれの現実と共有していない。こっちの世界で台風や地震が発生するのと近い感じで、その世界には怪獣がひんぴんと出現、そして多大な害をなす。という設定はともかくも、主人公であるオッサンに近い青年、その造形にリアリティそして魅力があって……等々の詳細は、実作ならびに当家の過去記事をご参照。

このように、現在も流行っていなくもない(かも知れない)、《怪獣もの》。ただ、自分がふだん注意してるのは、まんがというメディアで出てるものだけだけど。

そのいっぽう、SF小説という分野から、こういう21世紀の《怪獣もの》をリードした作品が、山本弘『MM9』(エムエムナイン)であるのかも。このシリーズは2005年に雑誌初出、書籍刊行が2007年。
そして自分が目を通した『MM9』は、2010年刊行の文庫版。さらにその続編や姉妹作らも出てるようだが、とりあえず第1弾の感想文を、以下に少し。

さて。さきに名を出したまんが2作のところから遡及して見ると、『MM9』には、それぞれの性格や組み立てに、先鞭をつけているところがありげ。

まずそれは、特異なテクノロジーや奇抜な組織などを出しておらず、自衛隊あたりが現実的な手続きと手段で怪獣に対処するという点で、『怪獣自衛隊』に先立っている。
かつそれは、われわれの《現実》とはかなり異なったパラレルワールドのお話みたいであり、また怪獣の出現が天災らに近く見られている点で、『怪獣8号』に先立っている。
ちなみに『MM9』の〈MM〉とは、《モンスター・マグニチュードの略。地震に見立てて怪獣らの脅威度を、数値化する単位だ。それと似たようなものが『怪獣8号』では、個々の怪獣事例らの《フォルティチュード》と呼ばれている。

とすると、これらの間に影響関係みたいなものがあったりするのかどうか──。

いや、そんなことは分からない。だいたい自分は《怪獣もの》に詳しくなんかないし、もっと影響力の強い作品が、他に何かないとも限らない。

そのいっぽう。自分が『MM9』で興味をひかれたのは、そもそもどうして《怪獣》なんてしろものが存在できているのか──という、そのりくつ、もしくはへりくつの部分なんだよね。

というのも。あの空想科学読本シリーズ(1996〜)とかでさんざん言われてた気がするんだけど、《怪獣》なんてしろものの存在には、きわめて多大なムリがある、物理的&生物学的に。ヘンにマジメに考えたらの話、ではあるけれど。

たとえば『怪獣ずかん』みたいな文献らによりますと、怪獣らの体重は、おおよそ2万か3万トンくらいだそう。しかしそれほどの大きな体重は、あの《ゴジラ》たちの細っこい脚では、とうてい支えられはしない。
と同様に、あんな小さな翼で《ラドン》らが空を飛ぶのも不可能。また《モスラ》がいちおう昆虫なのだとすれば、循環呼吸機構がド貧弱なので、あんなに巨大ではありえない。

……と、そういったところを、いっさい考慮しないような怪獣ものも、ありうるというか、現に多いんだろうけど。しかしそこいらの難点(?)に、『MM9』はいちおうのりくつをつけているんだ。

すなわち。『MM9』作中に出現する怪獣たちは、既知の物理法則には従っていないんだとか。
今作中では小型の怪獣が《妖怪》と呼称されているんだが、逆にそこから〈今作中の怪獣とは巨大な妖怪である〉と言ったほうが、適切だとも考えられる。要してしまえば、不合理で不条理な存在でしかないんだ。

では次に、なぜそんな大小の妖怪たち──物理法則らを無視しまくりの不合理でやっかいな連中──が、そこには存在しちゃっているのだろう?
するとその理由は、人間たちが妖怪(ならびに怪獣)らの存在を、“信じている”から、だと言われるのだ。

つまり『MM9』の舞台である世界は、〈人が思うことは、成る〉という世界であるらしい。そのことが作中では、《多重人間原理という架空の科学理論によって説明されている。
トッピなようだがそういう世界観が、われわれにきわめて縁遠いもの、というわけでもない。たとえばそういうのを精神分析は、《観念の万能》と呼んでいる。

そしてこちらの世界で《観念の万能》は、幼児的(さらには病理的)な思い込みでしか、ない。しかし『MM9』の舞台である世界では、観念が万能だったとしても差しつかえない。どうせ自由なパラレルワールドの物語なんだから。
けれど。観念が万能である世界──しかも物理法則らが安定していない世界──でありながら、こっちの世界と似てなくもないような科学やテクノロジーらが発達しているということに、矛盾が感じられなくはない。もしも魔法やESPが使える世界なら、科学も技術も必要ないであろう、的に。

であるがゆえ。人に害をなす大妖怪(=怪獣)が出現したところで、自衛隊がマシンガンやミサイルを撃って物理的にやっつける、ということがヘンに思えるんだ。むしろ、祈とうや呪術の力で退治するくらいのほうが、お話として《自然》なのでは?

ところで。そんなお話にまで発展してしまった『MM9』を読んでいて──自分の感じだと、《多重人間原理》のへりくつは、シリーズの流れの中でどんどんと“発展”しちゃったものっぽい──、ついつい思い出したのは、唯物論の哲学者である戸坂潤(1900-45)の、次のようなことばだったんだよね()。

現代の哲学思潮の凡ゆる傾向は文学の内に多少とも現われているし、又その逆も真だ。主観的観念論と心理主義又身辺小説とか、客観的観念論と各種ユートピア文学(科学小説も含む)とか色々の一対があるわけだ。

(「現代哲学思潮と文学」 from 『読書法』, 1938)

ここでまず目をひくのは、あまり近ごろ言われない感じの、〈主観的観念論〉と〈客観的観念論〉との対比。どうやら前者は《独我論》みたいなものであり、対する後者はカント以降の、やや洗練されて、社会の中で“実用”に供しうる(!?)観念論であるもよう。
そして後者の〈客観的観念論〉が、SFめいた文学らのバックグラウンドにある。……と、潤先生はおおせなんだと思う。

がしかし『MM9』を読んでいると、何かがヘンになってその背後にむしろ、てんで客観ではない〈主観的観念論〉を背負っちゃってるのでは──と、いう気がしたのだった。

とはいえ?
何しろ《トンデモ》のご批判で世に知られる著者・山本弘先生が、《多重人間原理》のようなトンデモ理論を、本気で提唱しておられるわけでもない、はず。それはエンターテインメントを成り立たせるための仮構であるにすぎない、はず。弱いにしても。
じゃ、それなら今作『MM9』が、どういう性格のエンターテインメントであるかというと?

このシリーズの目ざしているところは、〈われわれが幼時から親しんできた《怪獣もの》が、幼児向けのナンセンスなたわごとに堕しきらざるよう、どうにかして延命させる〉──。そういうことではないのかと、自分は感じたんだよね。
なので、実在しうるような怪獣を出そうということは、ほぼしていない。その逆に、いままでのポピュラーな《怪獣もの》が描いてきた荒唐無稽な怪獣らのイメージらに対し、通りそうなりくつを──『空想科学読本』ごときによっては打ち消されないようなソレを!──、ムリにでもつけ直そうとしている気配。

とすれば実にご苦労な試みだ、とは思う。がしかし、そういう《怪獣業界》の内側を見ているみたいな創作の構えには、あまり共感できなかった、という《お気持ち》も表明しておきたい。
そういうわけなので自分がもっとも面白く感じた『MM9』は、いわゆるマスゴミ的なテレビ取材班が怪獣退治の実態を、一般ピーポォの歓びそうな面白く分かりやすいドラマへと演出(=ねつ造)しようとする第四話。……風刺的っ!

そうやって《SF》といえども、単に逃避的なエンターテインメントであるだけでなく、何かオレら人間の社会とか《現実》とかに触れているところがなきゃダメ──。と、それが自分のかってな思い込みらしいんだよね。イェイッ