エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

Mauricio Deambrosi, Ramiro Franceschin: Vilia (2019) - 科学は、無力。

マウリシオ・デアンブロシという人は、アルゼンチンのジャズ・サックス奏者であるもよう()。が、Discogsとかにも名前が出てなくて、あまり有名とかではなさそう。
……いやそもそも、ゼンチンのおジャズについて、何かオレらが知ってることってあるんだろうか?

だがそれはそうと、彼たちによる“Vilia”の演奏が、スゲぇグッとキたんだよね。ピアノなしのカルテットによる演奏で、同じゼンチンのギタリストであるラミロ・フランチェスチンのプレイがすばらしい。
事情は後述するけれど、デアンさんの演奏はコルトレーンのスタイルが意識されたものなので、とりあえずの構えが《テナー中心主義》。なのでこの曲、約7分半の演奏時間ほとんど、ずぅ〜っとテナーが鳴りまくり。ゆえにか、ギター担当ラミロさんのソロパートが存在しない(!)。ベースのソロはあるのにも!

……と来られては、おジャズにおける《ギター中心主義》を唱導するオレ的に、そういうのはどうなのかってェと? これはこれでいい、いや、実にいい。
ピアノなどという夾雑物のないアンサンブルで、ラミロさんのギターはバッキングに徹しつつ、メロディをのびのびと泳がせるための空間を──、ハーモニックでエモーショナルな空間を、繊細に織り上げている。
むしろ、そういう営為こそが《ジャズギター》の至上の使命であるのですばらしい。オレらの世界にはリッチーもインギーも必要ないってことさ!

で、さて、ちょっとここから話のトーンが変わるんですが。

SFっぽいまんがとかに出てくるハカセ風の人が言う、〈科学なんてものは、実に無力だと思わんかね?〉みたいなせりふ。カッコいいので自分も言ってみたいんだよね。

いや実に科学なんてものは、無力だと思わんかね? たとえば《音楽》に対する科学とか学問的めいたアプローチらも、あるにはあるようだが──。
が、しかし。〈なぜ長調は明るく楽しく感じられ、いっぽう短調は暗くてサッドなフィーリングなのか?〉、ということさえも、解明できてやしない。

まして、《メロディ》というものが──とくにこのレハール作曲による「ヴィリア」のそれあたりが──、なぜわれわれの心に触れるのか。きわまっては、胸をしめつけられるような想いまでをさせるのか。
──などという問いに、いつか誰かがくっきりと答えてくれることを、期待してみたところで?

つまりこの、「ヴィリア」という楽曲の話なんだが。もとをただせばこれは、レハール作曲による最高傑作オペレッタメリー・ウィドウ(1905)の挿入歌。
ちなみに《ヴィリア》とは、あのバレエ『ジゼル』(1841)に登場する精霊《ウィリ》の仲間であるらしい。つまり、美しい女の姿をしているが、室は不吉な存在でなくもないようなもの。

楽曲「ヴィリア」のタイトルの表記には、〈Vilia, Villia, Vilja〉と、複数の揺れがある。もともとが何らかのスラブ語なので、ローマ字への転記にクセが出ているのか。
そしてクラシック音楽の文脈だと、だいたいは〈Vilja〉なんだが、いっぽうポピュラーの世界では、〈Vilia〉表記が支配的。そこで、ドイツ語風から英語風へ、という変容をこうむっている感じ。

で、この楽曲がポピュラーの世界で演奏されるようになったのは……。グレン・ミラー楽団による78回転時代の録音もあるので、遅くとも1940年代初頭くらいか()。
そして重要だとも言えなくないのが、1963年のジョン・コルトレーンによる演奏。トレーン萌えのデアンさんは、それを意識して、いまこの「ヴィリア」を採りあげたフシが強い。

ただしトレーンによる「ヴィリア」は、とりわけよくもない。というか、雑な吹き流しでしかない()。トレぇ〜ンさんおとくいの、残念な意味でのチンドン屋くささがよく出てるので、そのへんを愛する人にはたまらんものがあるかもだが。
まあそれを言うと、グレン・ミラーの演奏にしても、とくべつによくはないし。と、そういう、ジャズの歴史的巨人らによるこのレパートリーに対する《負債》らを、いまこのデアン&ラミロという現代のジャズメンが償還した、とも言える。快挙である。

そして。実を言うと。

この「ヴィリア」というレパートリー、それを含む『メリー・ウィドウ』というオペレッタ、その作曲家のフランツ・レハール──科学を超越した《メロディ》の天才職人!!──、そしてそれらを生み出した20世紀初頭のウィーン……。
……等々につき、いろいろな話を考えていたんだが、しかしあまり長い文章になっても何ンなので。

では、いずれそこらを語る機会まで、《われらのソプラノ》であるルチア・ポップさん歌唱の「ヴィリア」でお愉しみください()。ただいちどだけ出遭(いそこな)ってしまった美しい妖精ヴィリア、死ぬまで彼女に恋焦がれつづける哀れな男の永遠の慕情──憧憬──、たぶんそういうお話で。