ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave, Désir Duplication Répétition ─

Brad Mehldau Trio: Hey Joe (2012) - 下降の愉しみ、《死の欲動》。

ブラッド・メルドーBrad Mehldau)は1970年生まれ、米フロリダ州ジャクソンビル出身のジャズピアニストです。おそらくきわめて有名であり、全世界で評価が高い人です()。

ただし《ここ》的には、そんな名声がどうとかは関係ありません。

単に、何となく私がてきとうなおジャズのコンピレーションを聞いていて、まあとくに集中してもなく、BGMとして。
しかし、はたと、ものすごくいい演奏が耳に入ってきました。
それが、メルドーさんによる「ヘイ・ジョー」でした。ジミ・ヘンドリックス等で知られる、あのおなじみのレパートリーです。

どちらかというと私が、ピアノのジャズをあまり聞きたくない中で──奇妙ですが、おジャズはギターが中心でなければならぬと信じます──、〈とはいえこれはアリだ〉と考えざるを得ないようにしむける、そういう当代のピアニストたちが、何人かいます。
そのひとりがメルドーさんですから、そうも大きな意外性はなかったのですが、それにしてもすばらしい演奏です。

他に、そのレベルのピアニストといえば、ええと。アーロン・パークス(Aaron Parks)、ジュリア・ヒュルスマン(Julia Hülsmann)、シャイ・マエストロ(Shai Maestro)、そしてゴーゴーペンギン(GoGoPenguin)の中の人……。
まあとっさには、そのくらいしか思い出せませんが。そもそも私は、ジャズピアニストらの名前を憶えようとは、努力していません(!)。この容量に乏しい脳で、どうせ憶えるのであれば、ギタリストらの名前です。

いや、そういうことは、ともかくとしまして。なぜ、このメルドーさんによる「ヘイ・ジョー」が、とくべつ心に響くように聞こえるのでしょうか?
それを分析でもできると楽しいのですが、しかしまず、分かっていることたちから語りますと。

──このレパートリー「ヘイ・ジョー」は、作者が誰なのかもはっきりしていない、まるで人々の《無意識》からプカリと浮いて出てきたような、実に奇妙な楽曲です()。
それは現在まで、100組以上のアーティストらによってカバーされるポピュラリティを誇っているそうです。それというのもこの楽曲が、何か表面的な意味などを超えて、人の《無意識》へと届くような含みを、隠し持っているからだと考えられます。

さてこの「ヘイ・ジョー」が、初めてレコード盤として世に出たのは、1965年のことだそうです。
そしてたちまちのうちに、いま言われる《ガレージ/サイケ》ロックの定番曲となりました。高名なバンドであるザ・バーズやラヴなども、その時期にこれの録音を残しています。

が、そういう初期の演奏らを、いま聞いてみますと……。
はっきり言えば、〈楽曲の“意味”も分からず、ただ音にしているだけ〉、という印象です。そのように感じられるのは、のちのジミ・ヘンさんやメルドーさんらの演奏にひき比べて、の話であるにしろ。

そして、この楽曲のこんにち的な解釈──ジミ・ヘンさんやメルドーさんらが示しているような──を切り拓いたのが、ティム・ローズというフォーク歌手でした。そのバージョンの登場が、1966年のことです。
最大の変化は、テンポを大幅に落とし、そしてボーカルなどの随所に粘りや緩急を効かせていることです。ジミ・ヘンさんのアレンジは、ほとんどこれにならっているもののようです。

で、そうしてローズさんやジミ・ヘンさんらが、この楽曲から掘り起こした《意味》。ことばにはなりきらない、無意識の意味。それはいったい、どういう意味なのでしょうか。

ご存じとは思いますが「ヘイ・ジョー」は、こういった内容の唄です。

おそらくアメリカの南部のほうで、ジョーという男が、浮気した自分の妻を射殺する。そして官憲の追及を避けるため、国境を越えてメキシコへ逃れていこうとする。

そしてその逃亡の目的地であるメキシコを、〈オレが自由になれる場所〉とジョーさんが呼んでいる──、そのことが印象的です。
ですが、《自由》とは何なのでしょうか? そしてアメリカに比べてメキシコは、どういう《自由》のある国なのでしょうか?

偶然ですけれど近ごろ私は、そのメキシコで生活されているニホンの方のブログを、楽しく拝読しています()。
そして、その方のご紹介されているメキシコという国は……。いや、いいところもたくさんあるようではあるのですが……。

けれども、とりあえず治安が最悪。司法当局が無能と腐敗のきわまりで、多発している殺人・強盗・スリかっぱらいなどの事件らが、まったく解決されない。麻薬シンジケートやギャング団らがほとんど野放し、何かとやりたい放題だとか。
そのあたりばかりを見てみますと、まるで北斗の拳的な、世紀末世界か修羅の国かであるようです。それがまた、ひとつの《自由》のあり方なのでしょうか。

そして、そんなところへ《自由》を求めていったジョーさんは、妻殺しのお尋ね者として、そこで自由に楽しく生きることができるのでしょうか。

──まとめてしまえばこれは下降のプロセスであり、文明からの逃避であり、またエントロピーの増大であり、そして死への接近です。
そして楽曲「ヘイ・ジョー」で印象的なこともまた、下降していく音形らです。とくにバックコーラス等に現れる、〈アー・アー・アー〉という3つの音による下降。

そうして楽曲「ヘイ・ジョー」は、事情はともあれ妻を殺すにいたってしまった男のカラ元気、その背後にきざしている非業の死の予感を描写しています。
ですけれど、そのまがまがしいものの中に、何かふしぎな甘やかさを無意識に、私たちは感じているのです。それが、このレパートリーの人気の秘密です。

そして、われらがメルドーさんの名演にしても。そのような下降の禁断の甘みを、和声の大胆な拡大解釈やアクセントの分割らをともないながら、深くまた繊細に表現しているものと、いまは言えるでしょう。
下降の愉しみフロイトさんが《死の欲動》と名づけた、無機物であることへの郷愁。そういった部分が、私たちの中で、この楽曲を愉しんでいるのでしょうか。