《ピューマ・ブルー》はロンドン在住のシンガーソングライター、本名はジェイコブ・アレン(☆)。1995年生まれで2014年から活動中、そしてけっこうな話題の人であるらしい。
彼の音楽はどういうのかといえば、ただもう、ひたすらに眠たいポストロックだと言ってもよさそう。スローテンポでブルームード一色の楽曲らも眠く、かつダイナミクスに乏しい演奏も眠く、そしてサウンド処理もまた眠い。
──等々々と、エクストリームに眠たさを志向している感じ。かつオボロげながら、エロチシズムを常に、ちょっと匂わせているのが人気のヒミツかも。眠みとエロスが、ひそやかにそこで結びつきながら。
あと少し珍しいのは、それがジャズの文脈に関わっていると、指摘される場合がある。
どういう意味でジャズっぽいと言われるのか──、オレの了解だと、理論とかテクニカルな側面あたりからではなさそう。
ただピューマくんは、うちらの得意なダークジャズ(ジャズ・ノワール)的に、ジャジー・ムードの断片らをサウンドに散りばめながら、そしてチェット・ベイカーばりの甘く眠い声で唄う。そういうところかと思うんだけど。
また、このピューマくんのリリース歴というのが、ちょっと興味深くて。
まず初め、10曲に満たないレパートリーらを、シングル、EP、ライブ&スタジオ盤と、形式を変えつつ何度も何度も出している時期があった。それを、《第1期》とでも見ておく。
で、それらに続いた2019年の“Blood Loss”は、新曲のみを収めた8曲入りEP(☆)。初期に比べたらルーズさの少ないサウンドとなり、また多少だが、アップタイトな局面もある──と、心もち変化。ここからが、ピューマくんの《第2期》と考えられなくはない。
そしてそこまでの集大成が、もっか最新、かつ彼のここまでの唯一のアルバムとされる“On His Own”ライブ(2019)なのだろうか。
……ていうか、いま注意して聞くまで気づかなかったが、この“On His Own”ライブはバックバンドなし、エレキギター1本の弾き語りで演奏されたもの。まさにタイトル通りの、ピューマ一匹フェスティバルなんだ。
それによるきわめてカジュアルで親密なふんいきの中、ライブの終盤、クリーントーンの夢幻的なギターの和音をからませながら、ピューマくんはこんなことを語っている。
この薄暗い部屋でずっとキミらと愉しんできて、すごくいい感じさ
で、実は正直いまオレは、眠くなってきちゃってんだけど
でもね、まだあと何曲か、キミたちに届けたい唄があるんだ……(M11 - “Sleepy Exchange / Cinderella On VHS”)
あっぱれである。いやね、ヒトさまの音楽をつかまえて、やたら〈眠い、眠たい〉と言い張るオレも、ちょっとはどうかと思うけれど──。
──だがしかし、ライブの最中に〈いまオレは眠い〉と言明しやがったミュージシャンが、このピューマくん以前に誰かいたんだろうか? 前代未聞かっ!?
↑むかしのニホン映画のスチール写真…?
かくて。プレイヤーのサイドも眠気をこらえながら演り、またオーディエンスらも眠みの甘さにトロけながら、まどろみ半分で愉しむ。それがピューマ式、21世紀の斬新なポップなのか。
と、そんな型破りのようなところを彼が魅せつけて、それからもう約1年。
次なるピューマの《第3期》は、どういう方向へ進むのだろう。さらに眠さをきわめていくのか、または「ブラッド・ロス」でチラ見せしたアップタイトさへ、ちょっと行くのか。その動向を楽しみにしているオレなのだった。
……とまでを述べて、この駄文は終わりにしていい。というか終わるべきなんだけれど、ただピューマ・ブルーについて書く動機になったできごとがあったので、蛇足ながら以下に記す。
夢の中で自分は、大学の講義に出ようとしていた。たぶん2階の教室だった気がしたので、登る階段を探していた。
ところが。1階のフロア中を探って歩き、〈こっちか?〉という見当をつけて向かった先々には、なぜか降りる階段しか存在しなかった。
しているうちに、時間が迫り、気分が焦ってくる。あとは省略するが、苦労のあげく登り階段は見つかり、目的の教室には行き着くんだけど。
──やがて目がさめてから、考えたんだ。なぜ登り階段を見つけようとして、逆のものばかりを見つけてしまったのか。
まず自分の先入観として、折れ曲がった階段というものは、登りに向かって反時計廻りにできている。右から入り、左へ曲がりながら登る、というフィーリング。
ところが夢にみた大学の教室棟は、それが逆だった。そもそも階段の置き方が複雑である上に、かつ〈右から左へ“降りる”〉という逆の仕組みだったので、自分の見当がハズレ続けていたんだ。
と、それに気がついたとき、そしてそれ以前からずっと、自室の音響システムは、ピューマくんの唄を流し続けていた。
↑よくは分からんがエロいようである
さて。オレらの愛するピューマ・ブルーがその代表みたいなものだが、1990年代に生まれたようなお若い方々の、演っている《ポストロック》──そこにジメジメと立ち込めた喪失感は、いったい何から来るのだろう?
いにしえのパンクよろしく〈社会が悪い!〉とか言い張ったとしても、しかし片付くことが何もない。またヘンな理想論みたいなものは、せいぜいカルトやディストピアらに帰結するばかり。──と、そのように視えちゃっている今21世紀の状況、その閉塞感からのものなのか。
階上に登ろうとしているのに、なぜか降りる階段ばかりを見つけてしまうオレら。そこで発想を、〈右から左〉ではない、と変換すれば、何か打開の道が見つかるのだろうか。
いや、ここでの《左右》の変換は、よく言われる政治的な意味じゃないつもりだったけど。だが、実はそうでもないのか?
ファシズムやポピュリズムの熱狂が、“すべて”の解決かのように思えてしまう状況は確かに存在するらしく、ひいジィさんとかその上くらいの世代は、〈ハイデガー、イャー!! そしてニーチェ〜っ!〉か何かと叫びながら、彼ら自身の《生の燃焼》をエンジョイしたっぽい。ようは、だいたい死んだ、というだけだが。
そんな自分らが《生の燃焼》の果てに、ヘンな死に方をするだけならイイとしても。しかしどうせ関係ない人々の多くがその燃焼の巻き添えとなり、そしてものすごい大迷惑をこうむるハメになる。
それを知った上では、ムダに熱くもならず、ただこの閉塞のユーウツの中のジメジメ感を、暗くイヤらしく唄い続けること。そんなアチチュードにも、いちおう《無害》という利点はあるのだろうか? 〈これでいいのだ〉、と言えるのか?