ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave et compagnie, Désir Duplication Répétition ─

“ルッキズム”とやらを超克していく狂気、その燦然さ - 一条ゆかり と 陸奥A子

別に知ろうとはしていなかったが、しかしルッキズムという珍しいことばを知ったのは、自分が興味をいだくまんが家の人が、たぶん批判的にそれ関連のツィターアーを引用していたからで()。

もともとの話は、「ゲゲゲの鬼太郎」現在のアニメシリーズの《ねこ娘》がスラリとモデルっぽい体型になっている、そこをどう評価する、といったことのよう。
そしてそれについて、テレビまんがを視ている子どもたちへの《ルッキズム》の刷り込みである、けしからぬ、というご意見・お気持ちが出ているようなのだった。

ここで誰もが思うようなことを、自分からも少し。

ルッキズム批判の視点は、“必要”なものではあろう──。というか、たぶん2500年くらい前から人類の一部分は、それはよろしくないようなことを訴えてきた。

だがしかし人類総体は、それから何も変わっていない。

前にも言ったが、ブサイクでビンボーでヘリクツこきのソクラテスよりも、イケメンで金持ちで《陽キャ》のきわみであるアルキビアデスのほうが、人には好かれる愛される。──という人間どものありようが、まったくもって変わっていない。

ルッキズムをこの世からなくすことよりも、戦争を根絶することのほうが、まだしもかんたんなのでは? むかしに比すれば、いまの人類は、あまり戦争をしなくなっている気がするので。まあ、それもこの50年くらいの話だけれど。

そもそも? そのときの気分に応じてルッキズムを告発し良識派を気どるのはいいが、しかしそれを言うご本人らは、自らの内なるルッキズムを廃絶できているのだろうか。
あまり指摘したくもないことだけど、毎日2〜3時間も鏡に向かって熱心に顔を造っていそうな女性タレントが、〈ルッキズムはよろしくなくてよ?〉とのたまうのを拝見いたすのは?

そういえば、〈ぼろは着てても こころの錦 どんな花より きれいだぜ〉、という《チータ》さまのミリオンヒット曲の歌詞(「いっぽんどっこの唄」1966, 作詞・星野哲郎)。これは何と、かの老子いわく〈被褐懐玉〉による──という、実にありがたいお話。
すなわち約2500年も前に言われたルッキズム批判、その発展的継承であるらしいんだよね。イェイッ
だがしかし、唄の文句ではそんなことを言いながら、水前寺清子先生がじっさいにボロを着てステージに上がったことはなさそう。というその構造が、まったくもって普遍的にすぎる。

音楽の話が出たので思うんだが、その世界ではとにかくも演者らを着飾らせ、美女と美男たちかのように演出する、という弊がある。これには洋の東西も関係なく、クラシックもポピュラーも関係なく、いちようにそう。
だがそのいっぽう、たまにオーケストラの録音風景の映像などを見れば、見えないものかと思い込み、指揮者も奏者らもラク〜なカッコをしていやがって、かなりみっともない。……と、オレでさえ、ちょっと思ってしまう。
これが燕尾服か何かでピシリとキメてくると、音楽までキチッとしたように聞こえるのはふしぎだ。しかし、そういうことがある。

で、そんな〈そういうこと〉に反発し、ロックやフォークの演者たちが《ドレスダウン》というポーズをキメたりすることもあった。だがしかし、それもまた、《ドレスダウン》と呼ばれるドレスアップの一種だったことは、すでに皆さまもご理解のはず。

かつまた。もとの話がアニメのことなんで、そこらに戻すと、そういう作りごとの世界では、美女と美男らがことさらにフィーチャーされるハメになりがち。そのことに不自然さを覚えるのは、かなり珍しい感性だと思われる。

と、そのへんで自分にイタい話をすると──ここからやっと本題なんだが!──、《少女まんが》の世界に、それをつい強く感じてしまう。つまりイケメン、二枚目、ハンサムでないならば、ヒーローの資格がなさすぎる、というその現実。

自分にとっての少女まんが、その第一のシンボルでありアイコンであるのは、かの一条ゆかり先生の名作群。そしてそれは、オトコどもには実にキビシ〜い世界だということが、いつしか痛烈に意識されるようになったんだ。
その世界のオトコらは、きわめて過酷な選別のふるいにかけられる。まずはもちろん見た目がグンバツ、そしておカネか地位か権力がある、または何かスゴい技能や才能を持つ、とにかくも若い、せめて《女》のあしらいが上手い──、といった条件らの3コくらいはクリアしてないと、ヒーローどころか人間扱いされることさえ難しい。……とはっ!

そしてそういう強者らの世界、一条ゆかりワールドで、〈あれよかったよなァ〉とオレの心を温めてくれる作品ら。それは、「デザイナー」(1974)、砂の城(1977)、そして未完の作だが「5愛のルール」(1975)あたり。
たぶんそれらは、強者らがその強さゆえ破滅へと向かうお話なので、そこがツボなんだよね、きっと。あまりにも強大な恐竜らが滅び去り、やっとオレらのご先祖であるネズミっぽい動物らの時代がやってきそう、という感じがイイのかと。

だがそういう……失礼だけれど、ネズミっぽいレベルのヒーローたちを平気で“立てた”のが、陸奥A子先生の初期作品群だった。その1972年のデビュー作「獅子座うまれのあなたさま」からして、もういきなり破格のきわまり。
あえて図式をねつ造すれば、それは〈アンチ一条〉的だった。この天才的な描き手おふたりが、もっとも伝統ある少女誌りぼんの誌上で並び立ち、競い合っていた1970年代。そういう絵図が、自分の脳裡には描かれている。

陸奥A子「たそがれ時に見つけたの」 - マーガレットBookstore
陸奥A子「たそがれ時に見つけたの」
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A子タンのデビュー作を収録する初単行本

さて、一条ヒーローらに対する陸奥ヒーローら、そのオスとしてのランクの違いは、あまりにも一目瞭然すぎる。一条サイドがさきに述べた通りであるのに対し、陸奥サイドのオトコらが、あまりにもどうでもいい生き物でありすぎる。
まあそれこそ、穴の空いたクツ下を平気で履いてそうなヤツらばかりだし。かつ、さっきちょっと試し読みで見たら──A子タンの初期単行本はぜんぶ持ってるはずだけど、でも自室内のどこかに埋没中で──、ビンボーな彫刻家(志望)が、夜逃げから餓死寸前のところをヒロインに拾われる、などというお話があって仰天しちゃったり(「流れ星パラダイス」1986)。

だがしかし、そんな脆弱で薄弱で雑草めいたヒーローらに注がれる少女たちのやさしいまなざし、そのアチチュードこそ、《乙女ちっく》。それが新鮮なものとして共感を集めた時代は、確かに実在したのだった。

だがしかし? こんなところで《少女まんが全史》を記述するワケにもいかないので、そこから後略にもスゴいところがあるが。けっきょく現在、少女まんがっぽい世界は、一条“風”のヒーローらを立てて廻っているようにも見えるけど。

ただし、一条レベルのハイランクなイケメンヒーローらを立てさえすれば、《まんが》としても一条先生に追いつけるのか? まさか、そんなワケはないっ!!

てのも。一条&A子タンの両先生、その傑作らを偉大なものたらしめているのは、そこにおける《狂気》の存在以外ではないと、オレは大確信しているのだった。
その狂気ゆえ、一条先生の描く強者らは不可解なまでのイキオイで破滅へと向かい、またA子タン先生の描く乙女らは、ゴミみたいなオトコらの中に、自分だけの何か貴重なものを見出す。そうした狂気の介在しないボーイハント物語でしかないんだったら、少女まんがなんてどうでもいいにもほどがあるだろう。

さあて? もとはと言えば、《ルッキズム》の話だったんだっけ。

しかしほんとうにすぐれた創作というものは、そんな安っすいことばで語って済むようなものじゃない。そのことを、一条&A子タン両先生の作らを思い出しながら、われわれは知ったんだよね。
で、いま現在、それらに匹敵するような創作らが存在しているのかどうか。それはまた別の話で──。