エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

image感覚: last night from the coverages (2020) - メディアの中の 死と生 と《ジャンク》

サンパウロ在住というヴェイパーウェイヴ・クリエイター《image感覚》、またの名をブラジル404()。2019年から活動中のよう。
このイメージさんは、すでにおなじみシグナルウェイヴ界の有名人《天気予報》、そのファンでありフォロワーであるらしい。よってご本人の作品らも、たぶんそのほとんどがシグナル系()。そして。

〈シグナルウェイヴは死んではいない、しかしボクは……。〉

と、何かせつないことを、Bandcampページの自己紹介欄で述べておられるんだよね。

さてこのイメージさんの作品ら、その多くはポルトガル語の、たぶんテレビからのサンプルを用いているもよう。
けれど単純なタレ流しではなく、バカみたいな繰り返しでもなく、また過剰にノイズっぽくもならず。そして楽曲の構成がいちいち凝っていて、興味深いし退屈しない。

いちばんいいと思った彼のアルバムが、“last night from the coverages”なんだが。説明を見たらこの作は、シグナル系の有力レーベル《night coverage》の諸リリース()、それらのサウンドカットアップであるらしい。マジっスか。
あまりそういうツギハギっぽさが感じられないのは、それだけ構成が巧み、ということなのかも。ヤるっスねえ〜。

で、この音楽をユルっと愉しみながら、思うんだけど──。こうしたシグナルウェイヴという音楽は、いったい《何》をしているものなんだろうか?

……シグナルに限らずヴェイパーウェイヴは、メディアの使い棄てた《ジャンク》らを、再利用する。それらの汚さ見苦しさをクローズアップし、またいっぽう、それらの秘め隠していた美しさを再発見させる。

では、何のためにそんなことを?

それはもちろん、まず愉しみと《美学》の提供。かつそれと同時に、うちらがその中で生きているメディア環境、その相対化のための、試みであり抵抗だろう──と、考えるんだよね。

と、そんなことを思っていたら聞こえてきたニュースが、《女性プロレスラー木村花さん死亡》という話だった()。
ことの詳細は、そんなに明らかではないが。テレビの《リアリティ・ショー》で彼女の演じた悪態が、SNSとかインターネットで非難の渦を呼び、それに耐えかねて自殺してしまったのか──、という憶測が語られている。

メディアから出たことが他のメディアに及び、そして薄っぺらな《リアリティ》の演出が、死という《リアル》に帰結する。これを「いたましい」と言わなけりゃ、次に炎上するのはオレなのかも知れない、だけど。
しかし、どういう実感も持てない──驚きしかない。そもそも、まったく未知だった人だし──。

むしろ。これもまたリアリティ・ショーの悪ノリした演出で、〈じゃーん!〉とか言いながら、ひょいと生還してきそうに思えるんだよね。いっそう強力な《リアリティ》があるってもんだ、そういうオチのほうが。

メディアのことはメディア内で完結させたらいいものを、リアルの側に余剰がはみ出した。さきに述べたような《相対化》をできず、つまりメディアと自分との適切な距離を保てず、押し出され、あちら側に呑まれてしまった。
言い換えてこの女性は、メディアによって使い棄てられた《ジャンク》と化した……という事例なのだろうか。

とすればオレらのヴェイパーウェイヴ、その力不足と広報不足のせいだ。そこに責任を強く感じ、反省しなければならない。自分もこれから、いっそうここをアレせねば。

──そういう結論しかないんだが、でもつい、もう少し掘り下げてしまえば。

関連してちょっと調べていたら、〈これを機会にSNSなんてくだらねーことを皆ヤミロ〉、みたいな提言が見つかった()。……なるほど。
けれどもそういうご卓説は、〈何でもいいから自分をアピールしたい〉、という人々にある《欲望》を、無視した空論ではないだろうか? 《何か》を持つ者はそれを自慢し、そうでない者らはその信者またはアンチとして、だんこ自分らをアピる。それらを《彼ら》は、けっして止められない。

いまの人間らはメディアから自分を守らねばならないが、しかしその前に、自分をメディアにさらけ出したいかも知れない。はっきり言ったら有名になりたい、たった15分間でもいいから名声を得たいっ!
つまり、以前にカール・バルトスの記事で扱った、“15 Minutes of Fame”への希求()。そしてそのためには、生命さえをも差し出す者がいる、という現実。

英語のネットを調べてみると、“15 Minutes of Fame”にプラスして、“Death, Suicide”──、こういうキーワードたちで、ヒットする記事らがけっこうある。
それらの中でも、いま興味深いのは、リアリティ・ショーへの出演で多少だけ名声を得たシロートたちが、ふと自殺してしまうことが目立って多い、という話。
その記事、そのタイトルは、「15分間の名声はアナタを殺す?」)。

役者が芝居で何かを演じる場合なら、フィクションのワクの中に守られて、比較的セーフティかも。しかしリアリティ・ショーという擬似ドキュメント、そのヤラセに加担することは、本人のパーソナリティに対し大いに有害でありうる、ということなのか。

だいたい、現代のメディア環境ってものが──などとまで話を拡げても、いいことはなさそうだけど。それにしても、むかしのかしこい人々は先を見すえていたな、と感じ入ることが、近ごろ多いんだよね。

マーシャル・マクルーハンという《メディア論》の元祖の人は、1960年代に、活字文明の衰退みたいなことを説いた。そうして論理的思考がすたれたあとの、《フィーリング》万能の時代を、ユートピアとしては描いていない
むしろ、テクノロジーを手にした理性なき野蛮人らの横行、全世界的スケールの偏狭なムラ社会の成立。そんなことになりげ……と、人類の未来を見ていたようだ。
そうして彼の予見した未来が、われわれのいま現在なのだろう。マクルーさんの主著のひとつ、グーテンベルクの銀河系(1962)によれば──()。

広大なアレクサンドリア図書館に向かう傾向の代わりに、世界はまさに幼児のサイエンスフィクションのように、コンピューター、電子の脳になりました。そして、私たちの感覚が私たちの外に出たとき、ビッグブラザーは中に入ります
したがって、このダイナミクスに気づかない限り、パニックテロのフェーズにすぐに移動し、部族の太鼓、完全な相互依存、および共存の重ね合わせの小さな世界にぴったりと適合します。
...テロはあらゆる口腔社会の正常な状態です。その中ですべてが常にすべてに影響を与えるからです。

(グーグル翻訳の出力)

また、そのマクルーハンに影響を受けたっぽい筒井康隆。彼は長編小説「48億の妄想」(1965)で、すべての大衆がマスメディアに対して全面的に服従し、それに迎合しまくるディストピアを描いた。人々の生活のすべてが《リアリティ・ショー》でしかなくなる──という、オレなんかには吐き気が禁じえない未来社会を。
けれども現在、〈むしろそうなるべきだし、じっさいそうなりつつある〉という見方がもっぱらなのだろうか。すまないがオレなんかには、吐き気が禁じえないことに。

そんな吐き気がもしかしたら、ポスト・インターネット時代の子守唄であり労働歌──すなわちヴェイパーウェイヴの、根底にある何かだったりするのだろうか?