エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

天気予報: あすの天気 (2019) - 「これは天気予報ではない」

《天気予報》についてはDiscogsにややくわしい感じの情報が出ているので参考にすると()、大阪在住を主張しているヴェイパーウェイヴ・クリエイターであり、2017年から活動中のよう。
で、テレビのCMやもろもろのアナウンスなど、短くて印象の強い音声サンプルを用いたヴェイパーのサブジャンル、《Signalwave》。──その作り手として、この天気予報さんが近ごろアツいのでは、という評判。

そこで聞いてみたアルバムらの中では“あすの天気”がもっともまとまっている感じなので、いまはこれを取り上げる。これが一聴明らかに、バンド名にも言われた天気予報のアナウンス、およびCMの音声らをサンプルとして多用した、まさにそのシグナルウェイヴではある。
しかし、前の記事()でご紹介した《Mute Channel》とは大きな違いがあり、同じシグナル系でも、あちらで多用されていたスローダウン手法が、こちらではほとんど使われていない風。ただその音質が全般的に、もとからなのか操作の結果か、中波ラジオていどにモコモコっとしてる。いっぽうサンプルらの切り貼りのセンスには、何かふしぎな鋭さを感じさせてくれつつ。

それこれで聞こえてくるものは、天気予報やCM、およびそれに付随するライトなフュージョンイージーリスニング、それらの延々たる繰り返し。で、述べたように音質が中波ラジオ風なので、ごくふつうにAM放送か何かを流しているだけのように錯覚してしまいそう。
その構成がゆるやかに織りなす大まかなリズムが、何だかワリと気持ちいい。そして──。

〈○○社がおおくりする天気予報です、新潟県のあすの天気は……〉

──こういう語りが出てくれば、つい反射的に耳をそばだててしまうけど、しかし「あ、いや、違う」と気づかなければならない。これは《天気予報》だが、しかし役に立ちそうな通常の天気予報ではない。
そのようなアルバムのラストのトラックが〈本日の放送は終了いたしました〉というアナウンスなので、ヘンに堂々とした完結感がある。そこでついまた、ああ今日という一日も終わりか……などと錯覚しそうになる。

ここらで気付かされるのは、われわれは《放送》に対して無自覚・無意識・無反省に信頼しちゃっているところがあるな、ということ。天気予報は当たらない場合も多いが、でもまさか悪意のデマであるかもとは思っていない。そして時報が鳴れば、そういう時刻なんだと信じ、よもや疑ってはみない。
そういえば、ありとあらゆる言語活動に付随する言外のメッセージは、《この発言は“真”である》なんだとか。〈“私”は常に真理を語る〉 by ジャック・ラカン。このお知らせはフェイクではありません、などとアナウンサーがおことわりを入れるのは、逆にSF映画の中の作りごとくらいしかない。言外に置くことがそのメッセージを、逆に有効化しているのだろうか。

そして《天気予報》の作品らの奇妙な面白さのひとつは、そういう無自覚の信頼を揺るがし、また覆しにかかっているところなのでは。
だいたい、ふだん意識されないことがこういうカタチになると強調されるわけだが、天気予報番組のBGMに、なぜむやみと調子のいい音楽が使われるのか。そのスチャラカな調子のよさにのせて《メディア》は、いったい何をわれわれに呑み込ませようとしているのか。

つまり、天気予報の誠実さや時報の正確さなどを疑ってもみない態度が、どこかで意外と何か有害だということはないのだろうか。まあたとえば、時報やニュースや天気予報らの“真”であるっぽいことが、同じ放送でタレ流されるコマーシャル・メッセージらの“真”らしさを、こっそりと補強か何かしているのだろうか。

そしてわれわれの側の《天気予報》は、天気予報やCMらの《シグナル》から効用や実用性らをはぎ取ることで、そのフィクションであること──“作られた”ものであることを暴露している。かつそれらを美学的吟味の対象とし、“作られた”その過程の労をねぎらう。そういう善意の創作活動で、それはあるのかも。