以下は「vaporwave芸術大学」(12月15日)という催しを、その一断面から考察しているかのような駄文。しかしVaporwaveそれ自体の話は出てこないということを、あらかじめご了承ありたし。
― インターミッション: 《鍋物語》もしくは、いかにして鍋は無限の宇宙へ ―
…それにしてもだ、どうして《鍋》だったのか?
ともあれその場に《鍋》が存在していたらしいことは、たぶん自分の幻覚妄想ないし認知の不具合あたりではなさそうな、事実でありかつ現実。この催し「vaporwave芸術大学」、その告知ウェブページにも、いまでさえ現に、次のような文面が見えている(☆)。
最初に「Vaporwaveって何?」というところから解説するので、全く知らない方もぜひ!曲もかけるし鍋(坦々胡麻鍋)も食べられます。
なぜ、ここに《鍋》なのだろう? いや、実はその文面を見たとき、多少はすぐピンとくるものがあったのだ。それは…。
たばこを吸うのも芸術である当然
ジョン・ケージが1962年に初来日したとき、確か草月会館のライブステージ上で、何かものを喰うようなパフォーマンスを演じたとか? その喰ったものが鍋料理だった、ような気がしないでもないみたいな?
で、それを見たおカタい音楽評論家が、「メシ喰うのが芸術かよ、ふざけんな!」と怒って席を蹴ったとか? 逆に前衛のような人たちは、そこに大きな喝采を送ったとか?
ひょっとしたら、そのへんを意識して、その場に《鍋》が呼び出されるのだろうか…そんなことを考えないでもなかった。何せ芸術と芸術家らの牙城であるみたいな東京藝術大学にての催しだから、そういうこともないではないかな、と。
さてその鍋がじっさいにどうしたかの話をすると、その登場は、きわめてカジュアルに遂行された。催しの主なる内容は別のところで多少まっとうに説明されるはずだが、この「vaporwave芸術大学」は全2時間の2部構成で、その第1部の中盤すぎ、講堂の最後部あたりから、とんこつラーメンのスープのような匂いが会場に漂い始めた。
「む…。同じフロアに食堂施設があって、そこから出ている匂いなのか? それとも近くの部屋を使っている誰かが、そこにラーメンの出前を頼んだのか?」
…発表者らの語りに集中しているつもりの自分は、ぼんやりとそんなことを考えていた。とんこつスープとヴェイパーウェイヴとの間には、とくに関係がなさそう…ゆえにこれは関係ないことかな、などと思い込みながら。
しかしそういう《ドクサ》に逃避してしまうのが、しろうとの哀しき浅はかさ(?)。そのかぐわしき芳香こそ、おそらく言われた<坦々胡麻鍋>の、煮えたぎって放つものだった。
そしてその鍋の内容は、1部と2部の間の休憩時間に、発表者とスタッフら5〜6人のお腹に収まって消えたもよう。そもそも家庭用サイズの通常土鍋1コで作っているので、それ以上の人数の胃の腑をどうにかできるような分量があるわけもなく。
それにしてもだ、どうして《鍋》だったのか? いや別に喰えなかったから気にしているのでは、ないはずだが…。
ところでさきに述べた、ジョン・ケージさんがやってくれちゃった説。ついいま調べた限りケージは、1962年の日本のステージ上にて、《米を炊く》というパフォーマンスをなしたのだとか。つまり本人が喰ってはいないみたいだし、また《鍋》でもないらしかった。
― 武蔵野美術大学 イメージライブラリー・ニュース第16号より(☆) ―
初来日したケージは舞台上で米を炊く〈演奏〉を披露し、それは「ジョン・ケージ・ショック」とも呼ばれる程、日本の現代音楽界を根底から揺るがすものであった。
するとおそらく問題のおカタい評論家は、「白飯のみ!? オカズとかねーのかよ! せめて丸美屋のフリカケを所望!」…というあたりでアタマに来ちゃったのだろうか。その時代の《海原雄山》、だったのか。
いや、いや、だがしかし。ちょうどそのくらいの時代に、ステージ上で鍋料理をつつく“芸術”パフォーマンスを誰かがやらかして世に悪名を高めた、そんな話を確かに聞いた気がする…するんだよなあ…ああ、いったいどこのどいつだったっけ…。
などと真剣に集中して考えていたら、それは篠原有司男のしわざだった、ように思えてきたのだ。少なくとも、彼がそんなことをやっちゃってそうなお人であること、そこまでは間違いない。
― 篠原有司男「前衛の道」より(☆)―
エネルギーをぶっつけ合い、カン声とビートミュージックの中で汗まみれの半裸で踊りまくるメンバー、ネオダダ・シンパの女性群。これぞゆがんだ現代社会が生んだ若者の代表だとばかりに撮りまくる週刊誌ジャーナリズムのカメラマンたち。マスコミずれしたわれわれは、カメラの前でショッキングなラブシーンを次々と展開してみせた。
モヒカンカッコいい! 惚れちゃいそう!
確か大むかしの美術手帖のバックナンバーに篠原有司男のインタビューが出ていて、そうした伝説的な《前衛》華やかなりし時代を回想していたが、そこで見た話だったかと思えてくる。彼の名高き《ボクシング・ペインティング》を筆頭に、「オレは芸術家であるがゆえオレの行為らはすべて芸術である」、そんな自負――もしくはおごり――にまかせたパフォーマンスらが、一部にしたって世に通用しちゃっていた時代のメモワール。
「…でェ、悪ノリのついでに《鍋料理を喰らう芸術ハプニングの夕べ》みたいのを催してさァ、ステージの上で仲間たちと、腹一杯に喰ったの。でも客たちは喰えなくて、見て匂いを嗅いでるだけだから、うらめしそうにオレらをにらんでたよ、ガッハハハ!」
と、そんな武勇伝を、いい気分で語っておられた気がするのだが。…これは冤罪、虚偽の思いなしだろうか…? さきに引用した「前衛の道」にはヒドい話が山ほど出ているものの、しかし鍋の出番は見当たらないようだ。《ハイ・レッド・センター》のほうだったかも知れないが、確かそのあたりのネオダダ集団がそういうことを…?
かつまたわれらの有司男センセは、話題のザ・名門校!…東京藝術大学のご出身であられるらしい(しかし中退だそうだが)。ゆえにその後輩たちが、伝説のパイセンの偉業らをついつい見習ってしまう理由が、なくは決してない。とはいえ、見習う“必要”もないにしろ。
ちなみに。いや、鍋の話もそろそろ〆くくるつもりだけど、小林信彦「虚栄の市」(1964)という小説には、そんな前衛ブームの時代の世相の風刺、という側面がある。
…そんな時代にとりあえず勃興していった、ハードボイルド(風)小説、太陽族(風の風俗)、ヌーヴェルヴァーグ(風)映画、フリー(風)ジャズ、そして前衛(風)芸術、等々々。そして作品の中盤ごろ、その前衛(風)芸術の振興をはかろうという徒党・結社が発足するが、しかし彼らの真の目的はカネと売名でしかない。
で、その徒党のおひろめ旗揚げのイベントのダダイズムめかした乱行らの中に、やはりステージ上での飲食――鍋だったかも知れない――、というモチーフがあった。…あったような気がしているのだが? もしなかったら、超おわびするっ…!
それにしてもだ、どうして自分はここまで《鍋》へのこだわりを示すのか? そのニヲイのインパクトがあまりにも強く、それが鼻腔の奥底にコビりついてしまったから、なのだろうか。またはフロイトかぶれの自分としたら、そこに無意識の性的な《意味》でも見出しちゃっているのか。さもなくば《鍋》というのがあまりにも、還らざる古きよき時代の《反芸術》ジェスチュアにふさわしいアイコンでありすぎているからだろうか。
…あーしまった、よけいなことをひとつ思い出した! 《鍋》にばっかり気を取られていたが、この「vaporwave芸術大学」の会場にては、電気炊飯器でゴハンを炊く、というパフォーマンスもが並行で行われていたのだった。ヤバイ!
いやこれに関し、自分は湯気の立つ白飯そのものを見ておらず、炊飯器がそこに設置されているのをチラ見し、そして「ゴハン炊けた?」みたいな会話を小耳にはさんだのみ。ゆえに少々印象が薄かった。
だがしかし、ジョン・ケージがやったらゴハンを炊くのもあっぱれな芸術、というよけいな小知恵をいまやつけてしまったわれわれだ。ああ、芸術! 往時のケージはオカズがないことを評論家に責められてしまったが(!?)、しかし今回は栄養バランスがバッチリ! 芸術に進歩あり!
あっ…? そんなつもりがないのに何か皮肉っぽいことらを書いてしまった気がするが、さいごに言いわけめいた結び。
POPはビズネス、芸術は《制度》。コンサートホールや美術館らに幽閉されてしまったお芸術とやらが…またそのいっぽう…いやまあいいけど、しかし何か意味のあること――たとえば創造――は、たぶんそのPOPと芸術の、はざまのどこかでなされるものかという気がする。
がしかしその地点が「どこ」ということは、おそらく誰にも言えない。その位置どりの正しさは、おそらく事後的にしか言われない。
ゆえに《意味》あることをなそうとするなら、サッカーの《前衛(フォワード)》選手が相手防衛ラインの挙動を観察しつつ、そして絶え間なく位置をとり直し続ける、それと似たような営みが必要なのかも分からない。