明星/納富・編『テクストとは何か - 編集文献学入門』(2015, 慶應義塾大学出版会)。これは、《ノストラダムスの大事典 編集雑記》というブログで紹介されていたご本(☆)。
だが別に内容はノストラダムスとは関係なくて、《テクスト》というのがどれだけメンドーくさいしろものか──ということが、つらつらと書かれている。興味深い。
古いものでは聖書やプラトン、新しめのものではカフカやフォークナー。などなど、読むべきみたいなテクストはいっぱいあるけれど、しかし〈正しいテクスト〉を確定なんかできない場合がやたらに多い──、というお話が全9話、語られているんだ。
鬼のように古い書物らのメンドーくささは、ばくぜんとでも想像がつくだろう。そもそも聖書やプラトンの、ナマ原稿などは遺されていない。存在しているものは、あれこれのぼう大な写本ら、その断片ら、また翻訳、引用など。
そしてそれらの“すべて”をテッテ的にチェキったところで、〈本来の正しい唯一のテクスト〉を復元・確定なんかデキやしねェと、すでにあきらめが入っている。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの描いた「バベルの図書館」(『伝奇集』, 1944)は、ゆかいな作り話ではなくて、単なる目の前のなんぎな現実であるみたいなんだ。
いっぽうで近代のテクストには、また別の問題らがある。たとえばゲーテ『若きウェルテルの悩み』は1774年の大ベストセラーだが、追って1787年の再刊のさいに著者の手が入ったことで、お話のニュアンスがずいぶん変わっちゃってるとか(第2章)。
大ゲーテという著者が自己判断で直したものだとはいえ、新版のほうが〈正しいテクスト〉であると、言いきれるものだろうか?
また、この本の中で唯一の音楽関係の題材であるワーグナーの歌劇、『タンホイザー』。これについて、《ドレスデン版》(1845)と《パリ版》(1861)の二種類があるていどの話は、ボーッとした音楽ファンの自分も知ってたけれど。
だがじっさいは、それどころじゃなく。もういちいちの上演のたび、また出版のたびにワーグナーはあれこれと手を入れていて、まあどうしようもないというお話(第7章)。
さらに、物故している著者の未刊行の遺稿らをまとめる──ともなると? これについてのきわだった例はフランツ・カフカのアレらであって(第9章)、この話題には自分も前から、興味しんしんでしかない。
まず。ご存じのこととして、カフカ(1883-1924)の作品らで、その生前に出版されたものは、かの中編『変身』と、あとこまごました小品らのみ。
そのいっぽう、追ってカフカ作品群のコアとまで見なされるようになった、『アメリカ(失踪者)』、『審判(審理)』、『城』。これらの《三大長編》は、いずれも未完成の遺稿が、著者の親友であった文学者マックス・ブロート(1884-1968)によって編集・刊行されたもの。
そして自分の感じとして、現在にいたる文献学っぽい《カフカ研究》の大部分は、このブロートによる遺稿らのまとめ方にケチをつけること、それに終始している気味あり。もちろん不当でない有益な批判もあったんだが、しかしそれよりもさらに?
よって《ブロート版カフカ全集》と呼べる刊行物を追撃すべく、《批判版カフカ全集》なるものが、1980年代に刊行スタート。さらに、それさえも気に喰わないとして1998年、ナマの原稿らをただ複写して収録した《新・批判版カフカ全集》とかいうしろものも、ご登場。
……そういう事情らを聞いていて、自分は思わずにはいられないんだが。まあ実にご苦労ではござるんだけど、しかし《批判版》にしろ《新・批判版》にしろ、オレらファンがカフカを読むことの悦びに、何かつけ加えてくれたものがあるのだろうか、とくに“ない”のではないか、と。
ここで思えば、ブロートという人は、とんでもなく大きな仕事をしでかしたのだった。没した時点では無名の群小作家の一匹にすぎなかったカフカ、その遺稿らの価値を正しく見抜き、そこに彼自身の、かなり大きなものを賭けた。
手間も時間も、カネもかかったことだろう。そうして彼のもくろみの“すべて”を成功させて、20世紀でもベスト5かトップ3かの大作家にまで、カフカの地位を押し上げた。
いや。そんなことより何よりも、オレらに対して〈カフカを読む〉ということの悦びを与えてくれた!
つまりは、きわまって偉大なるプロデューサーとしてのマックス・ブロート。《ザ・ロネッツ》に対してのフィル・スペクターくらいの偉みが、十二分にありそう!
そういえば。どこで聞いたことだったか、印象的だったのは、〈ブロートによる『城』のチャプターらの並べ方に異議あり!〉、と申し立てた学者の話だ。この説はほとんど支持されてないようだけど、しかし、〈研究史に残る〉くらいの話題にはなったもよう。
もって瞑すべし、とは言えそう。その人に限らず、カフカ学者と呼ばれるような人々は、その“誰も”が、〈ボクがいちばんカフカをうまくプロデュースできるんだ!〉くらいに考えていそうだが。しかし、ブロートの足もとに及んだものもいないっぽい。
そもそも? これで自分も意外と保守的なヤツなので、オレの大尊敬するモーリス・ブランショさまが読んだのもブロート版のカフカだったとすれば、自分も同じでいいです、という気がしちゃう。
そして。ブロートという個人がカフカの遺稿、その“すべて”を抱え込んでいた時代には、いろいろとヘンな臆測が言われてたようなんだけど。
大むかしのことだが、知り合いだった大学生のお兄さんが、〈カフカ文学が難解だと思われてるのは、ブロートのまとめ方がオソマツなせいなんだよね!〉、とか言うのを聞いた。それで幼かった自分は、つい〈へぇーっ〉と感心した。いや、いま思えば、ロクにドイツ語も読めないヤツがよくもヘンなこと言うし(オレも読めないけど)、って感じだが。
けれども現在は状況が変わったので、そのテの神話的な臆測の横行はありえない。
で、そこから現代のお兄さんたちにできることは、《批判版》および《新・批判版》らがしているように、もはや、〈まとめないこと〉? さらには、人が読むようなテクストよりも以前の《カリグラフィ》へと、カフカ作品らを還元してしまうこと? ただ、それっぽっちなのだろうか?
【補足・『城』と呼ばれるテクストの物語】
以上の文章、自分という筆者によるブロート擁護がヤブから棒って感じもしなくはないか、という気がした。そこで、ひとつのお話を補足。
カフカ『城』の遺稿には、カフカ本人が大きなバッテンを書いて打ち消したパラグラフらが、けっこうあるんだそうだ。おそらくは、〈要・改稿!〉くらいの意味で。
そこで《批判版全集》は、それらのパラグラフを本文からは削除し、《補遺》みたいな別セクションに放り込んでいる、とのこと。それが、カフカという著者の意志に従うことになるのだ!──と、信じ込んでか。
けれどもブロートの編集による『城』は、へいきでそれらを本文に組み入れている。なぜならば、単にそれらをカットしてしまうとお話がつながらず、小さくない飛躍が生じ、人が読むようなテクストではなくなってしまうから、だと考えられる。
そもそも? たぶんご存じのこととして、死の直前のカフカは、彼の遺稿らの発表を断じて禁じる、みたいなことを述べていた。
だとすれば、『城』にしろその他の遺作らにしろ、その全体が巨大なバッテンで抹消された自主的ボツ原稿だ。よって《カフカの意志》とかを断じて尊重すべきというならば、その遺稿ら全体をないものとすべき、としかならないよね!
いっぽうでこのお話は、ブロートの編集方針の、一定の奥ゆかしさを伝えている。なかったものをつけ足してムリにお話をまとめるような、そんなはしたないことはしていない。何とかカフカ本人が書いているものらをまとめることで、ともかくも人が読むようなテクストを構成しようとしていたのだ。
そして、《ともかくも人が読むようなテクスト》というていさいで世に出ることにより、われらのカフカ作品らは、全世界を制覇することに成功したのだ。歴史に《if》はないけれど、そうじゃなければそうじゃなかったことだろう。
といったブロートの仕事ぶりに、《文献学研究》の立場からは異論や苦情らも出るんだろうが。しかし《文学》のプロデュース方針としては大正解の大成功だった、としか考ええないのでは?