エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

Cryo Chamber Collaboration: Hastur (2019) - 邪神さんたちがやって来る イァ!イァ!イァ!

ときはいま三月中旬。ほのかな春の暖かみも、それがまた忌まわしき夏の酷暑の煉獄のプレリュードのようにも感じられ……。
そのいっぽう。いま世間というか世界の全体が、コロナウイルスのフィーバー(発熱)で、逆に空気が冷えきりかえっているようだし。

そんな2020年を、いかがおすごしでしょうか。こうした冷えきりウツまみれの世相下、またダークアンビエントのお話でもいかがでしょうか。

アトリウム・カルチェリ(Atrium Carceri, 刑務所の中庭くらいを意味するらしい)として一部では有名なサイモン・ヒース──、1977年スウェーデン生まれ。さいしょインダス色あるシーンで活動していたが、やがてダークアンビエント専門へ。そしていま彼が主宰している《Cryo Chamber》は、ハズレの少ない名門レーベルとして定評がなくもなし()。

インダスとダークアンビエントの、つかず離れずの関係ってのも、また話が深いんだけど。もともとヒースさんの初期の拠点が北欧系インダス&ダークの梁山泊《“コールドミート”・インダストリー》で、そして現在のアジトの名であるクライオチェンバーとは、冷凍室くらいの意味だろうか。このように、冷たさ寒さとは縁が切れない人のようなのだった。

で、かつてのコールドミートらの主流の作風は、その王者みたいな《レーゾン・デートル》を筆頭に、質は高いかもだが、あまりにも重くて暗くて強迫的で息づまる……()。
しかも、ときどき一線を越えて“ノイズ”になってしまう。違うジャンルでも北欧といえば、ブラックメタルなんかがお盛んな土地がらだし。そっちとこっちを行き来してる人もいそう。

そういうのに対してヒースさんの音楽は、そこまでは聞く人を追い込まない。相対的に、ポップでライトでエンターテインメント志向、相対的に。
そして、そこがいい。クライオチェンバーのキャッチフレーズが「“シネマティック”・ダークアンビエント」であるのは、そういうエンタメ志向の表れだと思っているけれど。

──と、前置きが長くなったが。ご紹介しようとしている、クライオチェンバー・コラボレーションの「ハスター, Hastur」は、ヒースさん&その愉しい仲間たちの合作プロジェクト。
かつ、2014年の「クトゥルー, Cthulhu」を第1弾とし、年次報告のごとく毎年1作、いわゆるクトゥルー神話の邪神らをテーマに制作されているシリーズ(ここまで全6タイトル)、その最新作。

このシリーズの音楽としてのオーバービューを言うと、すべて約60分かそれ以上の長大な楽曲のみからなる。第1弾アルバム「クトゥルー」は約80分間の全1曲だったが、そこからだんだんボリュームが増し……。
そして圧巻をきわめたのが2016年の「ニャラルトホテプ, Nyarlathotep」で、全3曲・約3時間というメガ盛り。さすがにこれを頂点として、以後は2曲ずつにおさまっている。

これらをどうやって作っているのかというと、クライオチェンバーの全世界の同志たちがネット経由で提供した素材らを、ヒースさんらの幹部がつないでまとめて曲にしているらしい。だからなのか、注意して聞くとメドレーみたいな構成が感じられることもある。

とはいえ? どれをどう聞いても延々と続く、秘境の踏査、ダンジョン探索、そして廃墟めぐり。構造がほとんど把握できないディープな迷宮そのものであり、そしてオバケが出そうだが出ることはない。いや、出ているのかも知れないが、はっきりはしない。
……ただ、その名を呼ばれた邪神らの、不気味な息づかいや足音などが聞こえるような……彼らの匂いや気配が感じられるような……そんな印象らがあるのみ。そして、もちろんそれでいい。

だって圧倒的な宇宙的恐怖をまき散らすおぞましく呪わしき暴虐厄災のきわまりである邪神たち──、そんなもんにモロ出くわしちゃったら、そこで即オシマイ! いっぽうこれらはダークにしてもアンビエントなので、ヘンなピークの設定も不要、また終止感も不要。
豊かな立体感とゆるやかな起伏をそなえたアトモスフィアの持続、それに徹していることがよいわけだ。そこらをヒースさんたちは、キッチリと理解し実践なされている。偉大である。

が、そうやって邪神らに直面する最悪の不運はなかったとしても──。しかしこの果てしなく続く陰うつな薄暗い迷宮ら、そこから脱出するルートや方法を、いまだわれわれは知ってはいない。
ゆえに、《ここ》で生きることを愉しまなければならない。そしてそんなでは、けっきょく邪神たちはすでに降臨し、うっすらと遍在しているのではないか、という気もしなくはない。