レイモン・クノーによる小説「地下鉄のザジ」(1959)のヒロインの、浮浪児みたいな女の子。その彼女をとりあえず保護しているオッサンもまた、何だか実にウロンな人物。確か警官の職質に答えて彼は、「私の職業は“ダンサー”です」と、かなりおかしなことを言う。
ステージ上で女装して踊ることにより生活費を稼いでいる、と、言い張っているらしいのだった。何とまあ、さすがは《魔都》パリを舞台とするお話だ。
……さてこのオヤジの「“ダンサー”です」発言を、ザジちゃんが横で聞いていたのかどうか、そこが思い出せないのがつらみ。だがしかし、もし聞いていたらどう思ったのだろう? 無関心? 当惑? 逆に誇らしさ?
いやいや、そんなこと大むかしの小説なんかのことよりも……!
高山としのり「魔法少女れおの性活」は、1月4日に少年ジャンプ+で公開された、約36ページの読み切りまんが(☆)。とりあえずそのタイトル中の、オッサンくさい語呂合わせ《性活》が、きわめて不穏。ジャンプ+は少年誌のはずなのに……っ!
で、アダルトまんがでもないのにどういう《性活》を描いているのか? つい気になって見てみたところ、それが意表をつかれド肝を抜かれる仰天の内容だったことを、まずお伝えしたい。
いやもう自分くらいになると、まんがを読んでその内容に驚くということもめったになくなってきているので──うゎつまらない──、じっさいこれはすごいのでは。ゆえに、以下は絶賛のレビューとなる。
となるのだが、でもたぶんかったるい駄文だから、むりしてご覧にならないまでも。だがしかし、題材となっているまんが本編のほうは、ぜひご一読のほどを!(☆)
1. 《魔法少女》らに明日はあるか──いやむしろその今日は?
で、今作、高山としのり「魔法少女れおの性活」の題材に関連して、まずひとこと言わせてもらえれば。この21世紀に《魔法少女》なんて、全般的にはつまらないと、自分は思い込んでいる。
そんなワードが真にホットだったのは、まさにその名も「魔法少女プリティサミー」(1996, テレビアニメ)が登場し、そして種村有菜「神風怪盗ジャンヌ」(1998−2000)が〆くくった、20世紀末までのこと。それ以後は、そこまでにできちゃった《お約束》らと、その単純な裏返し、それらの延々たる繰り返し……。だと思い込んできたが、どうだろう?
いや、そういうエンターテインメント作品らの《お約束》をいまいち愉しめないのは、逆にダメなことなのかも知れないけれど。ともあれ自分は常に新しさを求め、そして新しさを愛してしまうほうの人、だとは申し上げておいて。
それとまあ。《魔法少女》みたいなお話らが反復されすぎることのベースには、誰がどう考えても、《少女》みたいな存在らへのヘンな過大評価、はっきり言えば《ロリコン》的な感性や嗜好が“ある”。これもまた、“ある”こと自体はまったく仕方がないにしろ、しかし野放しにしておいていいものかどうか、考えさせられるところなのでは?
2. やさしきオトメを勇者にする魔法アイテム──その重大なヒミツ!
などと、やたら話に前提が多いのを、できるだけ見逃していただきたい。ともあれ、そうした思い込みを抱きながら、高山としのり「魔法少女れおの性活」なる短編まんがに目を通した。すると、まず。
ヒロインである平凡な中学生《れお》の住む《大天狗町》が、とつじょ怪物によって襲われる。そのパニックの最中に、れおは《宝石妖精シュッポ》と出遭い、彼のくれた《魔法のジュエル》の力を借りて《ジュエルウィッチ》に変身、魔物らを倒す勇者となる。
このイントロまでは、言うところの《お約束》をなぞっている部分。だがしかし、そこからだんだんお話がおかしくなってくる。そもそもの話、《大天狗》の町だというその地名は何なの、という疑問点も含まれつつ。
やがて共闘する魔女っ子の仲間もできて、魔物退治のタスクについて、手応えや愉しさを感じ始めるれお。だがその悩みは、一人っ子である彼女の居室の一隅に置かれたシュッポの小屋から、夜な夜な洩れて聞こえるヘンな声。いわゆる、“ギシアン音”。
「ああ おッおッ 悪を 滅ぼした後は! たぎりまくる ポポぉぅうう!!」
「はげしッ はげしすぎる ヨ! う…う…」
見た目は小さくてキュートな妖精の男の子シュッポ、彼が自室にメスっぽい妖精を連れ込んで、《何か》をいたしているのだった。そこでヒロインれおちゃんのモノローグ、<シュッポは大人だった>。
ただし、れおを悩ませ苦しめるのは、シュッポが性交っぽいことにはげんでいるその行為、それだけではない。
……その性交らしき行為のピークでシュッポは、<ジュエル出うううう>と、何だか気になることを叫ぶ。そこで言われたジュエルとは、れおがジュエルウィッチへの変身にさいし、口に入れる、食べる、身体に取り込む、そういうことを余儀なくされる《魔法のジュエル》そのものではないかと考えられる(!!)、むしろそこだ。
それに気づいた上で、れおが観察していると、もろもろのヘンなタイミングでシュッポがジュエルを出す、股間らしき場所から出しまくる、という現象が目についてくる。
たとえば路上で犬にじゃれつかれ、身体をペロペロと舐められて出す。シュッポ本人が《大好きな人の写真》と呼ぶ、力士みたいな男の肖像をジッと眺めて出す。いざ必要となれば儀式として、自作の《かんのうポエムノート》をれおに朗読させ、その興奮の勢いでジュエルを出す。かつこのポエムの内容がまた、<火星人は おれの からだを>……うんぬんという、実に奇妙きてれつなもの。
さらにどういうわけなのか、おでんの具である《巾着》を対象にして、なぜか出す。いったい、巾着がどうだというのだろうか? そのあんまりなチン妙さに比べたら、<悪の側に寝返ったメスっぽい妖精の冷たい敵意の視線を受けて出す>、などということは、まだしもノーマルかな、とまで思えてくることがたまらない。
というなぞめいたメカニズムによって産出される、《魔法のジュエル》というしろもの。それは、女の子が口に入れても差しつかえない物質なのだろうか? そのことを考えてれおは悩み苦しむが、しかし変身して闘うことは《大天狗町》の平和のためなので、むりにでも彼女は自分を言い聞かせてググッといく。
「ふぐの白子みたいなもんだし!!」
で、意を決してパクリと! そういうマテリアルを《白子》と呼ぶのは、確か「ラブやん」(2000-15, 田丸浩史)のどこかにもあったっけ。
……それはともかく、前記のヤマ場を眺めて自分は、「フグの白子って毒じゃないの?」と、つまらんことを考えた。それをネットで調べたら、フグの種類や産地によって異なり、食べられるのもあるらしい。ただし、毒じゃなくても食べすぎると身体によくない、とか何とか。するとこれって、意外に巧妙なたとえなのだろうか。
3. 魔法少女よ闘え──《父》の求める正義と享楽のために
さらに? いやもう、この作品こと高山としのり「魔法少女れおの性活」の“すべて”を要約してご紹介しても、ご覧になるに大儀だろうし、かつあまり意味のないことかとも思うので、それはこのくらいにするけれども。
かくて。われらがヒロインであるれおちゃんの受難は、「他者(たち)の享楽を過剰に見せつけられる」こと、とでも言い換えられうるのだろうか。ただしそのアナーキーさもきわまっているような享楽の追求が、なぜなのか結果として、社会秩序の維持に役立ってしまう。
そしてその逆に、享楽の追求においてつまづいた者たちが、悪の側へと走る、そういうお話の中のシステムであるらしい。だからシュッポは物語の終わりで、正しい側へと更生させたメスっぽい妖精の相手をしながら、こんなことを叫んでいる。
「おおおおお 燃えるポ!
これが正義の伝承法!! この熱を受け取るポ!」
すなわちここにおいて、《性戯こそ正義である》という日刊ゲンダイにでも出ていそうなオヤジギャグが、普遍に妥当の正しきテーゼとして成り立ってしまう。ついでにもうひとつ言うのなら、《すべての生活は“性活”である》。たとえばれおのようにけがれなく清らかな少女らの生活にしたところで、ある意味けがれきった<大人>たちがあくなく享楽を追求する<性活>を必須の前提とした上で、成り立っているものだとすれば。
そうしてこれらは、ただ単なるまんがの作り話にすぎないのだろうか? 否。
“すべて”を横から説明してしまうのはヤボだと思うので、ほどほどに述べているつもりだけれども。かつまたフロイトかぶれの自分が分析めいたゴタクを書いても逆によくないので、そこは自制しているはずだが。
それにしても正気では言えないような真理らが、ここにみごとに描出された。もっと明確に言うなら、凡俗な出廻り品の《魔法少女》作品らが抑圧しちゃっているその真理らが、ここにおいて明るみへとあばき出された。
今作で実にツボだと思ったのは、アナーキーな性欲のバケモノくらいにしか思えないシュッポが、意外とれおたちの少女らを、直接の性の対象とは見ていない、そこだ。ゆえにどこかで父性的な接し方が感じられ、そしてその父性は、いっぽうでは正義を求め規範と秩序を志向し、またいっぽうでは享楽をあくなく追求する。というか、その両者がなぜだか一致してしまうものである。
そして《父の欲望》のエージェントとして魔法少女らは、父の欲望のエッセンスをエネルギー源として、父の求める正義と享楽を実現するべく、闘い続けるハメになる。実のところノーマルなそのあり方は、そうであるしかない。
もしそうでないなら──《父の欲望》のエージェントであることをイヤでも引き受けないのなら──、魔法少女などという存在は、アダルトゲームによく描かれているらしいように、触手のバケモノの餌食になって終わるくらいしかない(さもなくば後述のアパシーへ)。いや、あまり知らないのでアダルトゲームらを語りたくないが、そういう意味ではその伝えられる無惨な描写もあながちウソではない、一定のほんとうであろう、とは考えうる。
ただし誤解されてはいけないが、シュッポの所業らがすべて正しいなどと述べてはいない。どう考えても、いささか……いやあまりに過剰。もしこれが《父》であるなら、それは狂った父でしかない。
ところが問題は、狂った父でしかないとしても、《父》がぜんぜんいないよりはよほどいい、ということ。正義と享楽を求めるその姿を人々にことさら魅せつけくさる《父》、それが不在である状態を、われわれは《精神病》と呼んでいる。一般的に言われる《狂気》とそれとは、行っているレベルが段違い。
またその状態が社会的に表現されたら、アパシーでありアナーキーということになる。今作のクライマックスに登場する悪に転んだ魔法少女は、まさにそうして《享楽=正義》を見失ってしまったことにより、世界に絶望しその破滅を望む。たとえ狂った父でしかなくとも、不在であればこうなる、という見本なのだ。
それよりは、シュッポにでも従っているほうが、まだよい。そういう判断しかできないからこそ、われらのヒロインであるれおは、悩み苦しみ続けるのだ。狂った父性的存在のふりかざす《享楽=正義》の旗印にほとほとウンザリさせられながら、しかしそれがなくては生きていけないことを認めるので。
とまあ、けっきょくはフロイトかぶれのヨタ話をごひろうしちゃったかもだが、とにかくその描写のキレがすごい、鋭いと、戦慄を自分は感じたのだった。
4. 《性癖》のパワー爆発から《性活》の普遍性へ──結語と今後の展望
なお。今作「魔法少女れおの性活」の作者である高山としのりについては、ちょっとSFタッチのラブコメ作品「i・ショウジョ」シリーズ(2014-17, ジャンプ・コミックス全17巻)で知られるまんが家、とだけ認識していた。そちらも多少は読んだことがあるが、しかし登場する少年少女らがみょうにまじめな子ばかり、という印象を受けていた。
ゆえに、画面的には少々ハレンチな描写が頻出していても、しかし同じジャンプ系のエロコメ「To LOVEる -とらぶる-」シリーズ(2006-, 矢吹/長谷見)みたいな、奔放にして無責任なるエロ追求容認ムード、それが感じられない。
そこが逆に弱いか、などとも思っていたが、しかし逆にそのヘンなまじめさが突きつまって、この「魔法少女れおの性活」なる《異物》の産出にいたってしまったのだろうか。
それとまあ? 描かれたまんが作品としての「魔法少女れおの性活」について言えば、とくべつに完ぺきだとは言いがたい。分かりやすさが十分ではなく、お話の流れを説いているところで、ちょくちょく描写の飛躍が感じられる。
おそらくそれは、密度の高い物語をむりにコンパクトに描いているせいなのかと推察。けれどもいずれ何らかの方法で、そこらは改善されたい。
そして別に宣伝ではないけれども──いやけっきょくは宣伝だが──、その「i・ショウジョ」シリーズ(☆)、および、最新よりひとつ前の高山としのり作品「性癖が力になる世界」(2018年4月)らもジャンプ+にて閲覧可能なので(☆)、ぜひご覧になられたい。そうしてわれらの高山としのり、その次回作がどういうものになってしまうのか、われわれは高まる期待に胸を躍らせながら!