ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

新春・個人的ロードショー「シン・ゴジラ」(2016) - あまりにも伊福部フォーエバー、または 国策的スペクタクルの光と影

よくまあテレビでやっている「新春名作ロードショー」みたいな企画、その個人的な挙行としてシン・ゴジラ(2016, 東宝映画)を見た。以下はその感想。
ただし落ち着いて鑑賞できるような環境がなく、しかも登場人物らの早口がものすごくて、せりふらが半分くらいしか聞き取れず。だがしかし、ドラマというほどのドラマがないスペクタクル(見世物)映画であるかと見受けたので、たぶんだいじょうぶ(?)だろう。

1. やっぱり《ゴジラ》は、20世紀の響きで!

で、ここは音楽関係のブログみたいでもあるので、まず音楽の話をすると。……ああっ! われらが永遠の伊福部サウンドの説得力が、あまりにもあまりにも! ……などと感じてしまうのは、「昭和」のゴジラシリーズに親しみすぎたうちらだけなのだろうか。

いや? この「シン・ゴジラ」にしろ、シリーズの前作にあたるゴジラ FINAL WARS(2004)にしろ、そのサウンドトラックらでは、伊福部サウンドに対する敬意が、十分すぎるくらいに表現されているように思われる。それが抜きでは、何も始まりそうもない。
それはそうだ、言い切るのも何だが、伊福部サウンドを否定するくらいならゴジラも否定しちゃっていいわけで、ならばぜんぜん違うオリジナル怪獣映画を各自が自由に作ったらよい。そこをあえてゴジラというなら、伊福部昭もピタリとついてくる、これは超必然。

そして、伊福部サウンドに対するオマージュとしての「シン・ゴジラ」音楽パートは、あの「ゴジラのテーマ」を現代の技術で、イヤ味なく重厚壮麗に、演奏か録音をし直しているのがよい。映画としても、それが流れるシーンに最大の感銘があった。
そりゃまあ1954年のオリジナルバージョンがあまりにもフォーエバーだけども、しかしいかんせん、録り方が古い。いにしえの光学録音特有のカサカサした音を、自分はそんなに好きでないし。

そのいっぽう、実はこのたび初めて知ったことだが、シリーズ前作「ゴジラ FINAL WARS」におけるキース・エマーソンの起用、それもまた自分的には憎めない趣向。エマーソンの電気オルガンのギコギコギコッという「昭和」の臭気もふんぷんたる響きが、《怪獣映画》にはよく合っているように思われた。
FINAL WARS」の映画全編はまだ見てないが、音楽パートではそっちのほうが、やや好みかも。……いやしかしその「ゴジラ FINAL WARS」は、ゴジラ映画史上有数の不人気作だとも聞くけれど。

2. 赤ムケゴジラが、いなばの白ウサギ!?

音楽パート以外に注目し、「シン・ゴジラ」のよかったところは、初上陸直後の未成熟(?)ゴジラのみっともなさ。その造形の見苦しさ、痛々しさ。
いやさいしょ、まさかあれがゴジラだとは思わなかったし、とてもそうは思えなかった。シリーズの第2作ゴジラの逆襲(1955)で、《アンギラス》がライバルとして登場するけど、そういうポジションの別怪獣なのかな、とばかり!

それと、えーと記憶があまり定かでないのだが、確か金子修介ガメラ 大怪獣空中決戦」(1995)でも、ライバル怪獣《ギャオス》が、ガメラよりお先に登場する。それに近い構成なのかな、とも。

ところがそのみっともないやつこそがゴジラ、胎児みたいに未完成を思わせるいい加減なフォルム、さもなくば進化の途上の両生類、しかも全身のいたるところが赤ムケで痛々しい、そしてその赤ムケの痛がゆさに耐えながら彼は、新しい環境である陸上への順応をはかっていたのかと……。そんなお話なのかと自分は受けとったが、そう思えばあとからなっとくできたし、いいなとも感じられた。

それとまあ特撮がいい、全般的な映像に一般的な迫力あり、とも言いたい気はするが、しかし自分が現在のこういう映画をあまり見ていないので、その他もろもろのSFX映画らよりもいいと言えるのかどうか、それは不明。

3. 人らもうらやむ《いいイス》への安住……と、その終わり

では次に、映画のデキのよしあしには関係ない(かも知れない)が、「シン・ゴジラ」を見ていてムカついたところを指摘。
さてこの映画の登場人物らは、そーり大臣を筆頭に、官公庁関係のおエラ方がほとんど。そして映画が映し出す、その彼らの根城となる執務室や会議室、そしてそこに設置されたイスら……。

このイスらに自分は、思わず注目させられてしまう。

どこからどう見ても《いいイス》であり、その座面のクッション性のよさが想像されてやまない。そこに腰かけた瞬間、「あれェ? 重力《1G》の存在は、フィクションだったのかな?」などと錯覚をきたすほどの、快いソフトさとフィット感がありそう……うっとり……。

……って、このクソ役人どもッ! われわれ国民から搾り上げた血税であがなった、そんな《いいイス》にケツ載せやがって! 《公僕》という字ヅラの意味が分かってンのか、コラッ!! と、ここで、自分は激しいねたみと怒りの発作に襲われるのだった。

いや。だいたい自分は嫉妬羨望の念とか薄いほうの人間だと自覚しており、まあそこが逆にダメなのだろうが、よその他人らが高級スーツを着ていても、高級コンドミニアムに起居していても、美食の限りをつくしていても、性的行動らをハッスルしていても、さして羨ましいと思わない。代わってくれ、とは別に思わない。
だがしかし、《いいイス》となれば話は別。なぜかそこに、異様なねたましさと胸苦しさを感じるのだった。とのことを、いま現在、貧弱なイスにあやうく腰かけながら述べているので、この言表にはおのずと迫真力があるはず(と、期待)。

でまあ、この映画「シン・ゴジラ」はそこらでウソを描いてはいない。官公庁らのある種の場所には、じっさいこのレベル――もしくはそれ以上――の《いいイス》らが設置されている、それは自分の貧しき見聞からも確か。
でまあ、見ていてそれが異様にムカつくのだった。「総理のイス」とか「社長のイス」とか、ことばで言われるだけならまだしも、しかし見てしまえばどうにもならない。そして私企業のシャチョーならまあいいけど、しかし公僕らが過剰な《いいイス》に座っていたら?

そしてその《いいイス》らにゆっ……たりと身体を沈めながら、「この巨大生物どうしたもんかねェ」、などとのんびり相談している連中を、応援する気にはなれない。いやむしろ、「ゴジラよ、立て、闘え! このてのやから皆殺しにしちゃえ!」、などと思わなくもなかったが、なのにあいつは一般庶民に迷惑をかけるばかり。やっぱり怪獣なんて役立たず、大魔神さまとはわけが違うな、と、自分はため息をついたのだった。

……ところが映画のお話はご存じのように進行し、やがて日本政府の中枢は都心から立川市への移転を余儀なくされる。そしてその立川の急ごしらえの仮庁舎では、見るからに安っぽいパイプ椅子――座って5分くらいでお尻が痛くなってきそうなアレ――、ほとんどの誰もがそれに腰かけて、執務等をいたすハメになる。
それを見届けて、自分はようやっと心がやすらぎ、「じゃ、人間らもがんばったら?」と思うことができたのだった。よかった!

4. 《ポスト・フクシマ》状況を水で薄めて水に流そうと

……がんばろう日本?
……がんばろう日本?

ところでさいごに、映画「シン・ゴジラ」のダメだった点。これは無数にあってきりがないので、できるだけかいつまんでお伝えするつもり。

日本語のウィペド(ja.wikipedia.org)に書かれた作品概要によると今作は、<往時の(シリーズ作らの)ファミリー・子供向け路線から一転し、政治色を前面に出した群像劇>だそうだ。という文言の、前半の当否は知らないけれど、しかし後半がめっきりとおかしい。

だってこのお話には《政治》が存在せず、《行政》しかない。

つまり。ゴジラが出たからといって、ミサイルを撃とうとすると野党が反対する――特別立法で対策しようとすると議会が反対する――政府が求めるあれこれに対して自治体らが反対する――秘密兵器の使用に対して外国政府や国際的環境保護団体あたりが反対する――かつ、それらの“すべて”に対して一般ピープルや報道メディア等が反対する――として、そういう反対らをいかにしのぐか、いかにねじ伏せるか、といったことが、《政治》なのではないか。

まあウィペドの執筆者らは《政治》と《行政》の違いなんて考えてもみないし、ことによったら「シン・ゴジラ」の関係者もそうなのだろうか。

と、そういうなまぐさくもめんどうくさい《反対者》らのいない世界で、支配者らのおもわくや都合らのみが描かれる。という言い方をすると、この「シン・ゴジラ」の脚本を書いた人による旧作テレビアニメ新世紀エヴァンゲリオン(1995)にしても、まあそんなお話だったかな、ということにもなる。
シトの出る世界もゴジラの出る世界も変わらない、いずれも個人的でゆ~とぴあチックな、ドラマ性を回避したスペクタクル(見世物)だったのだろうか。かついずれにしても、民衆とか大衆とか呼ばれる《われわれ》の出番のなさが、きわめて逆に印象的。

いや、「シン・ゴジラ」に関しては多少そこらが意識されているふしがあり、SNSらで怪情報らが飛び交ったり、また<ゴジラは神だ>とヘンな主張を唱えるモブが行進したり……といった描写が、付け足り的には存在している。
すなわち、「ゴジラとその出現は何を意味するのか」ということを、関係させられた者らそれぞれが、けっきょくは自分で考え判断しなければならない。ゴジラはまあ実在しないものだけど、しかし多少は似たような現象や存在らが実在しないわけではない。その過程で《われわれ》は、軽々な誤解や臆断に及んだり、または過剰な順応をきたしたり……といったことらをなしうる。
と、そうしたムーブメントの一端らが、チラチラッとこの映画にも描かれているわけだが。しかしそこらを掘り下げてはおらず、ただ行政サイドの視点でまとめ上げていることは、皆さまもご覧の通り。

と、このくらいを述べたらほぼ十分だろうが、しかしほんとうのさいごに、もうひとつだけ。

そもそもの話、「シン・ゴジラ」におけるゴジラは、何を目的として――いかなる理由で――東京に上陸、日本を襲ったのだろうか?
……と、このことを言い出すと、このシリーズの全編を通じてゴジラが日本を襲う合理的な理由は別に存在しておらぬ気配、という問題もまた浮上してしまうらしい。が、まあそこまで大きなことを問うつもりはなく。

だけれども、「シン・ゴジラ」の発表は2016年。つまり《ポスト・フクシマ》の時代の産物である以上は、その点にきわめて合理的な理由をつけることができたはずだ。
すなわち。海中に投棄された放射性廃棄物を喰らいつくしてしまったのでゴジラは、福島あたりに放射能のニオイを嗅ぎつけ、それを喰らうために襲来したのだ、と。

ということをぜんぜん考えてなかったとしたら、「シン・ゴジラ」の製作関係者たちはスカポンタンしかない。まさかそんなことはなく、考えてはいたけどそこを逃げた、とでも思っていたほうが、まだしもどこかで気が休まる。いや別にそうでもないか?
そういうほんとうのことらを描けなかった、彼らは逃げた。そうして行政サイドから、「がんばろうニッポン」とか何とかの号令が、いい気分で発せられる。これは政府後援の国策映画、だったのだろうか。