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栗原正尚・かざあな「ナノハザード」 - 21世紀の読者を丸め込む《設定》、とは…?

Webまんがサイト「少年ジャンプ+」にて2018年8月より掲載中の「ナノハザード」は、「怨み屋本舗」で知られる栗原正尚と新鋭作画家・かざあなのコンビによるSFサスペンス。おそらくは近未来の日本、研究施設から流失した《ナノロボット》の効果で超能力者と化した人々が、無法の側と正義(というか体制)の側に分かれて殺しあう。単行本は、第1・2巻が2018年12月4日に発売。

…ここでいきなり唐突な話を振るようだが、近ごろのまんが界につき、《設定》と言ってしまえば薄弱きわまる設定でもまかり通る、という傾向を自分は感じている。とくに理由はないけれど主人公らにはともあれふかしぎな《能力》がある、とか。または、3億年前から進化が止まっているとされる害虫のアレが、たった500年で等身大にまで進化するとか。

「いや、それらはそういう《設定》なんだから差し支えない」…いちいちことばにはしないとしても、そう考えている方々が多いことは分かっている。現にそういうまんが作品らが、世にまかり通っているのがその証拠。
だいたいまんがなんて、ないようなお話でもまったく構わない、悦ぶ読者らがいればそれでいい。またはっきり言うならこれは《願望充足》のシステムなので、ありそうなお話よりも、あって欲しいお話が尊ばれる、そこらの仕組みも分かっている。

しかしまあ、そういうまんが作品らの根本的な仕組みと機能らの話は、いずれまたとして。近ごろ考えるのは、現にはないようなお話や題材にしても、読者に与えるリアリティの感覚は、時代や状況につれて変わるな、と。
たとえば超能力テーマの名作だと考えられる、石ノ森章太郎「ミュータント・サブ」(1965)や大友克洋AKIRA」(1982)。いま考えるといずれも、超能力周りの設定に、あまり大きな説得力はない。しかしそれはいまの感じ方なので、発表当時はそれなりの説得力や迫真性らがあったようにも思われる。

いま石ノ森章太郎の名が出たのでその代表作、あのすばらしい「サイボーグ009」(1964)についても考えてみよう。すると、この《サイボーグ》ということばにまとわりついていた輝かしさが、当時から現在までの約半世紀間に、めっきりと減退しつくしていることに気がつかされる。まあほんとう言うと、少年サンデー版「009」(1979)のころにはすでに、「サイボーグって古くない?」という見方があったのでは。
そのサイボーグ技術とやらにさしたる進歩のなきまま刻(とき)は苛烈に過ぎゆき、「サイボーグなんて現実にはいない」という状況には変化がないけれど、しかしその概念には50余年分の手垢やコケなどがベットリと付着して、かってそれが放っていた光を覆い隠しきっている。よって当面、ギャグ系でないまんがで《サイボーグ》なる語や設定らを使ったりしたら、読者たちの反射的な失笑という反応を、ひとまずは覚悟しなければならないのでは?

このように古いSFの概念が、説得力や新鮮味をどんどん失っていったところでは、中世風魔法世界やメルヒェンらへの回帰、またはもはや何らの理屈をも立てない自由気ままなファンタジー、といったアプローチらのほうが、まだしもフレッシュだということにもなってくる。…そのあたりが、まんが界の現況なのかと。

と、ここで話が戻るわけだが、そのようないま現在、「ナノハザード」が用いている《ナノロボット》という小道具設定はナウい、と感じているのだ。いま現には存在しないものだろうが、近く実用化されていくのではないか、というリアリティがある。いっそ、トレンディでファッショナブルなアイデアだ、くらいに賞賛したい。

ただしそうかと申して、この「ナノハザード」というまんが作品が現在ひじょうに面白い、と思っているわけでもない。だいたい栗原正尚のまんがは「怨み屋本舗」もそうだが、およそ気持ちの悪い人間しか出てこない。
かつヒーローにしたってそれほど共感できる人物ではなく感じられるので、真人間を気どった読者の視点の置きどころが存在しづらい。しかしアイデアのフレッシュさは大いに評価できることから、ひとまずは注目かな…くらいのところが、この駄文の結論だというひどいことになっている。