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明星/納富・編『テクストとは何か - 編集文献学入門』 - カフカフカ フカフカフ

明星/納富・編『テクストとは何か - 編集文献学入門』(2015, 慶應義塾大学出版会)。これは、《ノストラダムスの大事典 編集雑記》というブログで紹介されていたご本()。

だが別に内容はノストラダムスとは関係なくて、《テクスト》というのがどれだけメンドーくさいしろものか──ということが、つらつらと書かれている。興味深い。

古いものでは聖書やプラトン、新しめのものではカフカやフォークナー。などなど、読むべきみたいなテクストはいっぱいあるけれど、しかし〈正しいテクスト〉を確定なんかできない場合がやたらに多い──、というお話が全9話、語られているんだ。

鬼のように古い書物らのメンドーくささは、ばくぜんとでも想像がつくだろう。そもそも聖書やプラトンの、ナマ原稿などは遺されていない。存在しているものは、あれこれのぼう大な写本ら、その断片ら、また翻訳、引用など。
そしてそれらの“すべて”テッテ的にチェキったところで、〈本来の正しい唯一のテクスト〉を復元・確定なんかデキやしねェと、すでにあきらめが入っている。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの描いた「バベルの図書館」(『伝奇集』, 1944)は、ゆかいな作り話ではなくて、単なる目の前のなんぎな現実であるみたいなんだ。

いっぽうで近代のテクストには、また別の問題らがある。たとえばゲーテ『若きウェルテルの悩み』は1774年の大ベストセラーだが、追って1787年の再刊のさいに著者の手が入ったことで、お話のニュアンスがずいぶん変わっちゃってるとか(第2章)。
ゲーテという著者が自己判断で直したものだとはいえ、新版のほうが〈正しいテクスト〉であると、言いきれるものだろうか?

また、この本の中で唯一の音楽関係の題材であるワーグナーの歌劇、タンホイザー。これについて、《ドレスデン版》(1845)と《パリ版》(1861)の二種類があるていどの話は、ボーッとした音楽ファンの自分も知ってたけれど。
だがじっさいは、それどころじゃなく。もういちいちの上演のたび、また出版のたびにワーグナーはあれこれと手を入れていて、まあどうしようもないというお話(第7章)。

さらに、物故している著者の未刊行の遺稿らをまとめる──ともなると? これについてのきわだった例はフランツ・カフカのアレらであって(第9章)、この話題には自分も前から、興味しんしんでしかない。

まず。ご存じのこととして、カフカ(1883-1924)の作品らで、その生前に出版されたものは、かの中編『変身』と、あとこまごました小品らのみ。
そのいっぽう、追ってカフカ作品群のコアとまで見なされるようになった、アメリカ(失踪者)』『審判(審理)』『城』。これらの《三大長編》は、いずれも未完成の遺稿が、著者の親友であった文学者マックス・ブロート(1884-1968)によって編集・刊行されたもの。

そして自分の感じとして、現在にいたる文献学っぽい《カフカ研究》の大部分は、このブロートによる遺稿らのまとめ方にケチをつけること、それに終始している気味あり。もちろん不当でない有益な批判もあったんだが、しかしそれよりもさらに?
よって《ブロート版カフカ全集》と呼べる刊行物を追撃すべく、《批判版カフカ全集》なるものが、1980年代に刊行スタート。さらに、それさえも気に喰わないとして1998年、ナマの原稿らをただ複写して収録した《新・批判版カフカ全集》とかいうしろものも、ご登場。

……そういう事情らを聞いていて、自分は思わずにはいられないんだが。まあ実にご苦労ではござるんだけど、しかし《批判版》にしろ《新・批判版》にしろ、オレらファンがカフカを読むことの悦びに、何かつけ加えてくれたものがあるのだろうか、とくに“ない”のではないか、と。

ここで思えば、ブロートという人は、とんでもなく大きな仕事をしでかしたのだった。没した時点では無名の群小作家の一匹にすぎなかったカフカ、その遺稿らの価値を正しく見抜き、そこに彼自身の、かなり大きなものを賭けた。
手間も時間も、カネもかかったことだろう。そうして彼のもくろみの“すべて”を成功させて、20世紀でもベスト5かトップ3かの大作家にまで、カフカの地位を押し上げた。
いや。そんなことより何よりも、オレらに対してカフカを読む〉ということの悦びを与えてくれた!

つまりは、きわまって偉大なるプロデューサーとしてのマックス・ブロート。《ザ・ロネッツ》に対してのフィル・スペクターくらいの偉みが、十二分にありそう!

そういえば。どこで聞いたことだったか、印象的だったのは、〈ブロートによる『城』のチャプターらの並べ方に異議あり!〉、と申し立てた学者の話だ。この説はほとんど支持されてないようだけど、しかし、〈研究史に残る〉くらいの話題にはなったもよう。
もって瞑すべし、とは言えそう。その人に限らず、カフカ学者と呼ばれるような人々は、その“誰も”が、〈ボクがいちばんカフカをうまくプロデュースできるんだ!〉くらいに考えていそうだが。しかし、ブロートの足もとに及んだものもいないっぽい。

そもそも? これで自分も意外と保守的なヤツなので、オレの大尊敬するモーリス・ブランショさまが読んだのもブロート版のカフカだったとすれば、自分も同じでいいです、という気がしちゃう。

そして。ブロートという個人がカフカの遺稿、その“すべて”を抱え込んでいた時代には、いろいろとヘンな臆測が言われてたようなんだけど。
大むかしのことだが、知り合いだった大学生のお兄さんが、〈カフカ文学が難解だと思われてるのは、ブロートのまとめ方がオソマツなせいなんだよね!〉、とか言うのを聞いた。それで幼かった自分は、つい〈へぇーっ〉と感心した。いや、いま思えば、ロクにドイツ語も読めないヤツがよくもヘンなこと言うし(オレも読めないけど)、って感じだが。

けれども現在は状況が変わったので、そのテの神話的な臆測の横行はありえない。

で、そこから現代のお兄さんたちにできることは、《批判版》および《新・批判版》らがしているように、もはや、〈まとめないこと〉? さらには、人が読むようなテクストよりも以前の《カリグラフィ》へと、カフカ作品らを還元してしまうこと? ただ、それっぽっちなのだろうか?

【補足・『城』と呼ばれるテクストの物語】

以上の文章、自分という筆者によるブロート擁護がヤブから棒って感じもしなくはないか、という気がした。そこで、ひとつのお話を補足。

カフカ『城』の遺稿には、カフカ本人が大きなバッテンを書いて打ち消したパラグラフらが、けっこうあるんだそうだ。おそらくは、〈要・改稿!〉くらいの意味で。
そこで《批判版全集》は、それらのパラグラフを本文からは削除し、《補遺》みたいな別セクションに放り込んでいる、とのこと。それが、カフカという著者の意志に従うことになるのだ!──と、信じ込んでか。
けれどもブロートの編集による『城』は、へいきでそれらを本文に組み入れている。なぜならば、単にそれらをカットしてしまうとお話がつながらず、小さくない飛躍が生じ、人が読むようなテクストではなくなってしまうから、だと考えられる。

そもそも? たぶんご存じのこととして、死の直前のカフカは、彼の遺稿らの発表を断じて禁じる、みたいなことを述べていた。
だとすれば、『城』にしろその他の遺作らにしろ、その全体が巨大なバッテンで抹消された自主的ボツ原稿だ。よって《カフカの意志》とかを断じて尊重すべきというならば、その遺稿ら全体をないものとすべき、としかならないよね!

いっぽうでこのお話は、ブロートの編集方針の、一定の奥ゆかしさを伝えている。なかったものをつけ足してムリにお話をまとめるような、そんなはしたないことはしていない。何とかカフカ本人が書いているものらをまとめることで、ともかくも人が読むようなテクストを構成しようとしていたのだ。
そして、《ともかくも人が読むようなテクスト》というていさいで世に出ることにより、われらのカフカ作品らは、全世界を制覇することに成功したのだ。歴史に《if》はないけれど、そうじゃなければそうじゃなかったことだろう。

といったブロートの仕事ぶりに、《文献学研究》の立場からは異論や苦情らも出るんだろうが。しかし《文学》のプロデュース方針としては大正解の大成功だった、としか考ええないのでは?

Squirrel Nut Zippers: Lost Songs Of Doc Souchon (2020) - ヴードゥー・キャンディをしゃぶらせろ

Squirrel Nut Zippers》、スカーレル・ナット・ジッパーズ()。元気に木の実をリスちゃんたちがかじる、みたいなイメージのバンド名なのだろうか?

調べていたら、まさにそういうブランド名のお菓子が過去のアメリカで売られていた、みたいな話も出てきた()。1926年に発売され、一時は広く親しまれていたものらしい。
ところですみません、リスとお菓子の組み合わせだと、ニポーン人のオレ的に《ライオネスコーヒーキャンディー》を思い出すことが、あまりにも不可避っ()。こちらはいまも現役の商品らしいので悦ばしい!

話を戻すと、本人たちが《SNジッパーズ》と略称しているバンドの2020年のアルバム、“Lost Songs Of Doc Souchon”。これの存在を、Bandcampのオススメか何かで知った。
それは全10曲・約33分を収録。そして〈初期のニューオーリンズ・ジャズ等々にインスパイアされた音楽〉、くらいの説明がなされているけれど、まあともかく一聴。

そうすると。冒頭の曲のイントロを聞いたら、〈おっ、ラウンジ・リザーズみたいな音楽?〉という気がした。やがて唄が始まったら、〈ああ、一時期のトム・ウェイツみたいな?〉、という印象を受けた。

まあ、ラウンジ・リザーズもトム・ウェイツもだいたい同じようなもの──なんて言ったら乱暴すぎるけど。どちらかと言えば後者っぽい、アメリカン・ルーツ・ミュージック的でディープサウス的でヴードゥー的なふんいきのポップであるようだ。このSNジッパーズの音楽性は。

そしてこのアルバム全般を聞いてみての感想がふたつ、〈演奏能力が実にすばらしい〉、〈しかし、キッチュであるという印象がぬぐえない〉。
トム・ウェイツのルーツ志向(っぽさ)にしても大きな意味ではキッチュと言えそうだが、しかしそういうワクを突き抜けてくる、奇妙な迫真性があると考えられる。いっぽうSNジッパーズの表現が、そういう《突出》にまでは、いたっていないのでは。

さて。SNジッパーズの作品でBandcampに出ているものは、ほとんど今アルバムだけみたいなので。じゃあ新人なのだろうか、これが1stアルバムなのか、そして今後の成長に大期待か──くらいに、一瞬思ったんだけど。
しかし知っている方々からすれば、そんなオイラがとんだおどけ者であわて者。

実のところこのバンド、1993年からず〜っと(断続的に)ヤッてるんだよね()。結成の地は、ノースカロライナ州のどこか。彼たちのYouTubeチャンネルから、そのかなり多くの作品らを視聴できそう()。

かれこれ四半世紀以上ものキャリアを誇る、そりゃあ演奏能力もお高くなりますわなあ〜?

そして、そうであるということは。
次のパラグラフの内容は、ちょっと予告してる感じの、《ラウンジ・ミュージックの歴史と現在》みたいな記事に書くべき話なんだが……。

オレらが現在言うような《ラウンジ》の起こりは、1990年代の中盤。このときに英と米とでそれぞれ、現在的なラウンジへ向かっていくムーヴメントらがあったと考えられる。
まずイギリスの側では、《チルアウト》を引き継ぐようなカタチでの、クラブにおけるラウンジ・ブーム。《マーチン・デニーエスキヴェルらの再発見》、とも言い換えられうる。
そのいっぽうアメリカ側では、ラウンジにつながるレトロな趣味のバンドらの勃興があった。その代表としては、《Combustible Edison》、《Big Bad Voodoo Daddy》、そして《Joey Altruda》あたりが目立っていた。

で、ここまで調べてきたSNジッパーズも、後者の一員くらいに考えてよいのかな、という気がしてきたんだよね。

けれど、何だろうな……。コンバスティブル・エジソンあたりにも言えるんだが、もうちょっと、イくべきところをイキきれてない印象がぬぐえない。
キッチュであること自体はいいんだが、しかしそこから、《何か》が突き抜けきっていない。こういう方向性、それそのものは好きなんだけど……!

そんなことからオレがまたあくどいことを考えると、例の《ヴェイパー処理》を施してみると()、SNジッパーズも、またけっこうイケ気味であるみたいな? ──と、そんな戯れ言をお聞き流しくださいませ。

Jamie Principle: The Midnite Hour (1992) - その深夜、オレはオレの名を呼ぶ

《Jamie Principle》、ジェイミー・プリンシプルは、シカゴハウスの勃興期を象徴している男性ソウル歌手()。
そしてハウスに関わった歌手たち“すべて”、その中で彼はもっとも偉大なシンガーだと、自分は思い込んでいる。まあ、そう思ってるのはオレだけでもないようだが。

けど、なぜいまここで、あらためてその人をご紹介するのかというと?

これの前の記事で、レズビアンであることを主なモチーフとしているドリームポップ系の歌手、《girl in red》をとりあげた()。
それの対になるみたいな存在として、フと、ジェイミーのことが思い浮かんだんだよね。シカゴハウスの、ゲイカルチャーの一環であるような側面を代表するアーティストとして。

が、この両者が、〈対になるみたいな存在〉だと言いきれるのだろうか? ちょっとそこらに疑問は残るんだが、とりま音楽の話を始めてしまうと。

ジェイミー・プリンシプルの1992年の、“The Midnite Hour”は、彼の現在まで唯一の《アルバム》と呼べる作品()。そのプロデュースは、これも初期シカゴハウスの巨人、スティーヴ・シルク・ハーレイによる。全10曲・約48分を収録。

少し状況を説明しておくと、1988年の全世界的アシッドハウス大旋風の吹き過ぎたあと、90年代初頭のハウスには、《メジャー化》──もしくは一般のR&Bやダンス系ポップへの傾き──みたいな機運が存在した。
すなわち。本来ハウスなんて音楽には、既成の楽曲をちょっと加工しただけのトラックらをソッコーで粗悪なアナログにプレスして売り逃げる、みたいな側面があったワケだが。
しかしそういう安直でアヤフヤな性質を改めて、しっかり制作したアルバムをメジャーの会社から配給。そうやってハウスを、まっとうでスケールの大きな商業音楽にしていこう、と。

そういう流れから、マーシャル・ジェファーソンやテン・シティとかのキチッとしたアルバムが出たりしたが。けれど本来のハウスの持ち味、ラフであやしげな魅力がなくなって、イマイチ面白くなかったと思う。そうしてこの機運全体が、尻つぼみに終わったと言えそう。
そしてジェイミーの『ザ・ミッナイ・アワー』もそんな文脈から出てきたアルバムであり、キチッとメジャーから配給されている。にもかかわらず大傑作という、史上の例外なのだった。

それを言うなら『ミッナイ・アワー』というアルバムは、さまざまな意味で例外的作品であるのかも。ハウスから出たものだが、ハウスそのものではない気もするし。しかし一般のR&Bかといったら、やっぱりハウスだし。
いっぽう、このアルバムからカットされたシングルらには、もっとハウス(=ダンストラック)っぽさを強めたミックスらが収められているけれど、でもひじょうにいいとまでは思わない。各楽曲の、アルバムバージョンらの完成度が高すぎるのに比べたら。

また。これは伝聞情報だが、今アルバムの発表当時には、シブヤの大手レコード店なんかでも、〈ダンス担当者イチオシ!〉みたいな強いプッシュがあったそう。
だいたい自分が初めて今作を知ったのは、そのときつきあってた女性の部屋のCD棚の中に、これを見つけたからだ。そして彼女は、そういうレコ屋の推しに圧されてついこの盤を買ったが、でもあまりその真価を分かってないようだった。

などと付帯情報らを語ったけれど、しかし実は、そんなことどうでもいい。その『ミッナイ・アワー』から、自分が《何》を受けとっているか、それを述べたい。

で、その印象は、〈日ごと夜ごとの《享楽》を求めてさすらうゲイ男性の孤独と渇望〉、みたいなもの。《欲望》と《愛》とをごつごうで呼び換えながら、そのときその場の、瞬時・即時の肉体の熱さを《彼》は、求め続ける。
で、それが得られなければとうぜん苦しいが、また得られたとしても《彼》は、そこで満たされたりはしない。そうして、死ぬまでいやされることがないかのような渇望のうずき──、その起伏を、アルバムの各曲は描きつらねる。
そしてジェイミーのセンシュアル(官能的)なファルセットボイスが、そうした痛苦によって彩られた《享楽》の諸相を、表現しつくしているんだ。

そういうものかと思って、自分はそこに強く深くひかれ《共感》し続けているのだった。

そして。男の自分だが、ゲイではないっぽいのに、なぜそんなに共感できるのかを考えると。……けっきょくは男性のセクシュアリティなんて、ゲイでもストレートでも変わりがないからかな、と思う。場当たり的で、無軌道で。

ゲイということに関連してもうひとつ言うと、これの出た1992年は、エイズの脅威がもっとも強く警告されていた時代でもあった。
そしてアーティストみたいな人では、「ロック・ザ・ボックス」のシルヴェスター、キース・ヘリングメイプルソープフレディ・マーキュリーデレク・ジャーマン等々らが次々にその病で倒れていった状況の中、お構いなしにハイリスクな《享楽》を求めてやまぬという、その姿勢。
そんな姿勢を、《表現》にしても示していくことは、むしろ《主体》が求めているのは死であることを、暗示している、ような気もする──オレらの言う《享楽》とは、まさにそういうものだが──。そこいらに、また今作のすごみが?

そしてアルバム『ミッナイ・アワー』全編の、冒頭とさいごには、なぜか教会の鐘の音がカランコロンと、短く収録されている。それは性欲にほんろうされる《主体》を、あおりたてなから同時に断罪する、《超自我》の呼びかけなのだろうか。
だいたいジェイミーの、1987年の名曲“Baby Wants To Ride”にしてから──。それは性交やSMの女王とかを賛美するみたいな唄のあちこちに、いっぽうで神への祈り、またいっぽうで《米帝》とレーガン(元)大統領への皮肉、といった要素らの織り込まれた、きわめて重層的な表現だった()。

が、ところでなんだが。この駄文を書くために少し調べていたら、うっかりジェイミー本人の近年のインタビュー記事が見つかってしまい……()。
それによるとジェイミー本人は、意外だが、ゲイじゃなくストレートなんだとか。それを聞いて、インタビュアーもビックリしてるんだけど。

そう言われたら思いあたることとして、『ミッナイ・アワー』の各曲らの歌詞にしても、〈オトコ同士で〜〉、〈ホモなので〜〉、みたいな直截なフレーズは含有してなさそう。その点に関しては、ルー・リードとかもそうであるような、むかしの楽曲らの奥ゆかしさかとばかり思っていた。

ただしジェイミー・プリンシプルの音楽が、常にゲイピープルによってもっとも強く支持されてきたことは、本人も肯定している。そしてそちらのサイドに寄り添いながら、彼がその《表現》をなし続けてきた、ということも。
(……よってご本人がどうであろうと、彼の作品らがゲイ的な文脈の中のものとして受容されることは不当でない、と考えておく)

そういうところが、《深い》んだよなァ……と、自分はあらためて心動かされる。
つまり根本的には普遍的な性欲の苦しみというテーマかも知れないが、それをゲイといういっそう許されにくい立場に(暗示的にも)託すことで、その苦悩を、よりシャープに描出することに成功しているんだ。

そういうところが、〈私は“LGBT”、ですけど何か?〉とだけ言い棄てるみたいな、いまどきの《表現》とは、レベルがぜんぜん違う。まあそういう作品らも、何かの役には立ってるんだろうけれど。

とはいえ? オレの言ってきたような深みやら奥ゆかしさやらが、いずれは茶道のワビサビくらいに、“誰”からも理解されない美学になってしまう──。そういう近未来も、またすでに見えているものなのだった。

そうしてさいごに、『ミッナイ・アワー』以降、現在までのジェイミーについて。

どういうワケか、この傑作アルバム以降のジェイミーの音楽活動が、あまり活発でない。それからの作品らの中には、ゲスト参加でUKオルタナの《ゴリラズ》のヒップホップ風トラック、なんていうチン品もあるが()。
そうした間けつ的な活動らの中で、ワリに直近の、本拠地シカゴのトラックメイカーである《F.d.ハウスキャットとのコラボレーション。その一連には、少なくとも“ふんいき”が出ている。こういうことが継続されながら、いつかまた『ミッナイ・アワー』くらいのセンセーションの再来を望むっ!

girl in red: watch you sleep. (2019) - 無限に拡がる大宇宙、そこにふたりきり

《girl in red》は、ノルウェーの女性シンガーソングライター《マリー・ウルヴェン Marie Ulven》のステージネーム()。その音楽性は、ホームメイド感覚のローファイなドリームポップ、くらいに言えそう。

1999年生まれのマリーさんは、2016年、自作曲である“i wanna be your girlfriend”を、SoundCloudに投稿。これがバズりにバズったのを手始めに、彼女の楽曲らはこんにちまで、約1億5千万回ものストリーミング再生数を記録しているとか。
こうしていま、スターダムに登りつつあるマリーさん。彼女は現在、初のアルバムとなる“World in Red”を制作中。で、今2020年中にはリリースされる運び。

──といったアウトライン的説明は、英語のウィキペを参考に書いているんだが()。しかし自分的には、このガール・イン・レッドとの、いちばんさいしょの《遭遇》の仕方が、奇妙でゆかいだったんだよね。

さていきなりだが、皆さまは、《UFO》にご興味をお持ちでしょうか? 自分はといえば、別に信じてもいないけど、ワリにちょっとね!
そうなので、UFO関係のウェブサイトを見たりするけれど。そこで目に入ったのが、〈ふたり乗りのUFO、ふたりぼっちの世界〉と題された記事だった()。

この記事は、フランスで1966年あたりに発生した目撃事例の紹介、として始まる。まるで2シーターのクーペのように(?)、どう見ても2人乗り専用のUFO、そしてそこに搭乗したエイリアンらしき人影らが目撃された、とのお話。
が、そうかといって、そこから大事件に発展したワケでもなかったらしい。せいぜい、目撃者の運転していたクルマのエンジンが一時的に止まってしまった、そのくらい。

しかし続いてビックリなことに、記事の後半には、とんだロマンチックな《想像》がつづられている。何かの病で瀕死の恋人を、憧れの星である地球に連れて旅してきたエイリアンだったのだろうか、うんぬん。……何だそれは
そしてその記事の末尾に、なぜかどういう説明もなく、ガール・イン・レッドの2019年のシングル曲であるwatch you sleep.”、そのつべ動画が貼り込まれているのだった。

〈なぜか〉にしても、ほどがあるっ。ちなみにこの時点でオレちゃんは、ガール・イン・レッドのことを何も知っていない。それであっけにとられながら、《意図》はさっぱり読めないけれど、ともかくもその動画を再生してみた。

そうしたらそれがすごくいい曲だったので、いまこういう記事を書いている。自分のあまりにも好みすぎる、人を甘ぁ〜く寝かしつけるような催眠的ポップソングで。

そしてまあ……。いまとなっては、その記事の《意味》か《意図》も、分からないではないんだよね。
恋人同士の、ふたりきりマンツーマンの、閉ざされながら無限の世界。そのようなモチーフで、さきの《想像》のスペース悲恋ストーリーと、ガール・イン・レッドの楽曲が、びみょうにしてもつながっているのかと。UFO記事のタイトルにも、〈ふたりぼっちの世界〉とあるように。

ちなみにその、〈ふたり乗りのUFO〉記事の出もとである《Spファイル友の会》。この方々は、かなりユニークなスタンスでこの話題に取り組んでいるグループだとは、存じ上げていた()。
だがそれにしても、ひところハヤったおセンチケータイ小説みたいな宇宙人ロマンスへの展開には、ド肝を抜かれたし。さらにそこへ、何の関係もなさそうなバイラルヒット曲を合わせてくるセンスが卓越しすぎ、感服!

と、いうことから、ガール・イン・レッドに興味を持ったんだ。

で、いろいろ聞いていて──かつ曲名やカバーアートらを見て──フと感じたんだが。この人の唄らは全般だと、ふんいきが、ちょっとヘン
何がヘンなのか、端的に言って、レズビアンの世界が歌われているのだろうか、と思った。

そこから調査を続けたら、ガール・イン・レッドのマリーさんが同性愛者であることは、別に秘密でも何でもないもよう。そもそも初ブレイクの曲、“i wanna be your girlfriend”からして、女友だちのハンナちゃんに向って〈あなたの恋人になりたい!〉と、(内心で?)訴える唄だったし。

そしてスマンのですけれど、ガール・イン・レッドの、〈レズだから〜〉、〈女の子同士で〜〉、みたいなモチーフの楽曲らが、実はあまりよく分かっていない。そんなにはグッとこない。自分が男でしか“ない”、からか。
そのいっぽう、瞬時でオレをひきつけた“watch you sleep.”は、いわゆる朝チュン的な状況下、先に起きた自分が眠っている恋人の姿に見とれるみたいな唄で、同性愛を匂わせる要素はなさげ。そこがいいのだろうか、自分にとっては。

ともあれ。あのビリー・アイリッシュの“Six Feet Under”(2016)からのブレイクにも近い形で、いまガール・イン・レッドのマリーさんが、世界へはばたこうとしている。
その成功を自分は祈りつつ、そしてたまには再び、“watch you sleep.”みたいな曲を出して欲しいと思ってるんだよね。イェイッ

Smeared Lipstick: sophomore (2020) - 眠みの中に溶けていく快楽のエコー

《Smeared Lipstick》、ちょっとエロチックなニュアンスのある〈にじんだ口紅〉というバンド名のヴェイパーウェイヴ・クリエイター。その人は、カンサス州インデペンデンス出身あたりを主張()。
そして今2020年、2作のアルバムを、オレが信頼するレーベル《B O G U S // COLLECTIVE》からリリースしている。

ところで。ワールドワイドのヴェイパーウェイヴのファン層ってのも広大膨大すぎてアレだけど、自分がばくぜんとウォッチしてる限り、〈意外にテンションが高いようなサウンドが好まれるのかな〉、という一般的嗜好を感じるんだよね。

たとえば〈ヴェイパー系のライブキャストですよ!〉というお知らせを見て、ブラウザを開く。するとヤッてる音楽は、多少はヴェイパー臭があるにしても、ドラムンベースの激しいヤツだったり。
そこで、〈こういうのもいいけど、でも……〉と、ついつい自分なんか少し引く。だがしかし、映像の横チョのチャット欄は、好評で大いに盛り上がっている。イェイッ

前から思ってんだけど、どうせポップ音楽の世界では、テンションが高く、パワフル&エモーショナルである──、そういう作風のほうが一般的に好まれる。しかも、話題になりやすい。
逆に《アンビエント》やそれに近いような音楽たちは、よくても悪くても目立たず、話題になりにくい。テンサゲであり、パワーやエモーションらを切り棄てていくようなサウンドでは。

……と、それは一般の世間の傾向だが。しかしヴェイパーウェイヴの世界でさえ、少し似たようなところがあるのかな……ということを、近ごろ感じていなくない。

さて、お話は戻りまして、在カンサスの新鋭(らしき)ヴェイパー者、スミアード・リップスティックさんのこと。
この人による既発アルバム2作──“I”、および“sophomore”──、そのいずれもが、テンションの低さのあんまりなきわまりなんだよね。ジャンル的には、いちおうレイトナイト系と言えそう()。

2作とも傾向はほとんど変わらないので、ここでは後発の“sophomore”のほうを見ていこう。このアルバムは、全7曲・約24分を収録。そしてタイトルの〈スフォモア〉とはカレッジ等の2年生のことらしいが、たぶん〈2ndアルバム〉の言い換えだと推測。

それがどういう音楽かというと、まったくどうでもいいようなスムースジャズや一般ポップなどの素材らを、きょくたんにスローでひたすら眠たい響きに仕立て直しただけ、みたいなもの。
そして、そういう風にしていくプロセスを《ヴェイパー処理》と、自分なんかは呼んでいるワケだが()。

ただし。自分とかはヘンなサウンドを聞くと、〈どうやって作ってるの?〉ということをついつい考えがちだけど、しかしそんなことを考える“必要”はない。
けれども、いまここに現象として、ひたすらにスローで眠たい響きが、ある──。いや、“ある”って言えるほどの実在感を伴わず、それがおぼろげに、蒸気のように(!)、漂っている。

そしてその、ひたすらにスローでフラットに拡散された眠みマシマシの響きは、いったい《何》を伝えているのか。
〈作者の意図〉なんていう伝説的な存在は問題にしないので、かってに自分が受けとったものを記述しようとしてみると、それは拡散されきったヌルい《快楽》の残りカス。または、その遠すぎるメモリーらの残響。

あえて言うと《ヴェイパー処理》は、そのスローダウンによって〈ヌルさ〉を、そのEQ処理によって〈遠さ〉を、そしてリバーブ処理によって〈残響〉であることを、それぞれ実現している。
そうやって、素材となった楽曲ら、その本来のテンションの高さ、またその表現していた《享楽》への性急な希求……等々を、フラットに〈拡散〉しつくしてしまう。

そして、そういう所業とそういうサウンドを、なぜかとくべつに自分が好んでいる。

けれど、ヴェイパーウェイヴを受容している層の中でも、そんな嗜好は、さほど一般的でもないのかな──ということを感じてるワケなんだよね、近ごろ。

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
Vaporwave creator, named Smeared Lipstick, claims to be from Independence, Kansas. Now in 2020, he has released two albums from the reliable label B O G U S // COLLECTIVE.
His two albums, “I” and “sophomore”, all have the same tendency, with smooth jazz and general pop that don't matter, and just remade into a slow and sleepy sound. It seems.
Is it a completely diffused null pleasure or the reverberation of its too distant memories? Really pleasant.