エッコ チェンバー 地下

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荒木光/金城宗幸『僕たちがやりました』 - 裁きの恐怖 と 裁かれざることの不安

僕たちがやりましたは、週刊ヤングマガジンに掲載された一種のクライムストーリー劇画。掲載時期は2015-17年、単行本は全9巻()。
また2017年にはテレビドラマとして、映像化もされたとか。なので、タイトルくらいは世に知れている作品であるかも。

で、だいたいこういうお話だったんではないか、と思うんだよね。

無気力&自堕落な高校生ら3匹と、その遊び相手である同校OBの金持ちニート《パイセン》。彼たちが、ご近所のド不良バカ高校のDQNドキュン)らによって過剰な暴行をなされたことへの仕返しに、そっちの高校の構内に爆弾を仕掛けるにいたる。
それで、ちょっと爆音や煙でおどかしてやるだけのつもりだった、が──。しかしプロパンガスへの誘爆が発生した結果、6人もの死者が出てしまう!

いくら軽薄で軽率なガキらといえど、これには苦悩する。自首するべきか? どうにかして逃げおおせるべきか?

ちょっとお話を先廻りでご紹介してしまうと、まず彼たちは、個々人での高飛びをはかる。けれど、逃げおおせるための気力や行動力がないことを、それぞれ自覚する。
それでいさぎよく、自首しよう、法の裁きを受けよう、と考えを改める。ところがそこから、話がカンタンでない!

──あれこれのやらかしをやらかした結果、裁きを受けることはもちろん怖ろしい。だがしかし、罪を自覚しつつ裁きを受けることができないとしたら──。
そっちのほうが、よっぽどの地獄的状況かも知れない。そういうことが描かれた劇画であるのかも、知れない。あとそれと、主人公である高校生バカたちの無気力自堕落ぶりに、心からの共感がありすぎる。

と、ここで。自分がむかしコッソリと書いていた読書感想文から、ちょっと引用。

リチャード・ドーキンス『神は妄想である』(2006, 訳・垂水雄二, 2007, 早川書房


カラマーゾフの兄弟』で次男のイワンが、〈もしも神がいなければすべてが許される、あらゆる蛮行や非道もが〉、のようなことを言う。それを紹介してドーキンスは、〈ドストエフスキーは〔イワンと同じ、〕そのような意見をもっていたようだ、というのが大方の意見のようだ。〉と、この話題を片づけてしまう(p.331)。
しかしこの言いざまは誤り、もしくはドストを読んでなさすぎる。イワンがそんなことを言うに対し、彼の弟のアリョーシャはそれを否定するのだ。


〈もしも神がいなければ、許されることは何ひとつありません。〉


……いやまあ別に、ドーキンスはドストをほめてもくさしてもおらず、小ネタとしてそんなことを書いているに過ぎないのだが。
しかし軽率な臆断をなすだけならまだしも、それを〈大方の意見〉だと粗雑に一般化までしてしまうあたり、ドーキンス一流のいい加減さが出ているところではある。

で、ドォ〜キンス大ハカセの著述に特有のテキトーさはともかく。

しかしいま、神がいない世界に生きているオレたちは、自分らのやらかしに対し、どういう正しい裁かれと償いをなすことができるのだろうか? 《赦し》は、ありうるのか?

──かのように、少しは高尚くさい議論を提示したところで。あとさいご、わが同胞である《偽善の読者》、もしくはド貧民向けのタダ読みテクニックでも述べておくと。
そのような問題作、『僕たちがやりました』。その単行本のさいしょ3巻分が、いまヤンマガWebで公開されている()。そのまた続きはコミックDAYSで、追って毎週1話ずつ無料公開される見込み()。

それなのでぜひに、とオススメいたすのです。ヤンマガWebでの無料公開は11月24日までなので、さあ急いで。

いや。自分もホント長年にわたって《まんが》なんてものを見すぎで、〈近ごろはロクに読むモンがね〜な!〉、などとも思いがち。だいたいそれが、〈大方の意見〉でしょ?
がしかし、時おり現れる目ざましい作品が、〈やっぱまんがは面白れェ、刺激あるぜ!!〉と、考え直させてくれやがる。ゆえにソイツを〈卒業〉できやしねェ。
で、『僕たちがやりました』はそういう作品、自分にとっては5〜6年に1コくらいのインパクトがあった《まんが》なんだよね。イェイッ