エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

惣領冬実「チェーザレ 破壊の創造者」 - ジョスカン・デプレ と ボルジアの出遭い(そこね)

2005年よりモーニング誌に不定期掲載中の、チェーザレ 破壊の創造者」ルネサンス・イタリアの姦雄チェーザレ・ボルジアの生涯を、またはその青年期を、描くような劇画なのかと思って見ているけれど。

さて、まんが関係の掲示板とかを見ていると、〈不定期掲載にしてもテンポが遅すぎる〉、むしろ止まっている、未完の名作で終わってしまいそう──、そんな作品らについての嘆きや苦情らを、ちょくちょく目にするよね。
思いつくだけ対象のタイトルらを挙げておくと、「ガラスの仮面」、「バガボンド」、「ハンター×ハンター」、「ベルセルク」、「ヒストリエ」、あたり。個々にそれぞれの事情がありそうだが、それはそれぞれの話として。

そうしてわれらが「チェーザレ」も、けっして負けたもんじゃねェっ。その“最新”エピソードの第101話が載ったのは、モーニング2019年16号(4月4日付)──と、すでに1年以上も掲載が停まってるんだぜェ。

ただ、どういうワケか、そんなには言われないんだよね。そのポピュラリティが足りないからとは思えないんで、その主なファン層がクールなアダルティであるせいか。それとも、お話の結末──チェーザレの短慮からの失脚と破滅──が、さいしょから明らかであるせいか。

ただ自分としては、“いま”の展開のその先が、大いに気にかかってるんだ。

なぜってその物語が、チェーザレの父ロドリーゴ教皇選出(1492年)というときに、さしかかっているので……。
このあとに、ジョスカン・デプレ》の登場がありえなくない、と思い込んでいるからだ。もちろんわき役であるしかないにしろ、作者・惣領冬実氏の描くジョスカン像を楽しみにしているんだ。

Josquin by Hilliard Ensemble - Youtube
ジョスカン「おカネ、権力、キライじゃ
ありまセンが…」(

人呼んで《音楽の王子さま》、ルネサンス音楽の最高峰、ジョスカン(1450?-1521)。どれだけ偉大な作曲家かということは語りつくせないが、まあだいたい大バッハシェーンベルクらに比肩、と理解しておけばいい感じ。
しかも自分のかってな解釈だと、ジョスカンの洗練されつくしたポリフォニー音楽には、《アンビエント》の遠い祖先みたいなところがある。響きのやさしさと美しさだけでなく、本来のアンビエントが持つべき特徴──《システム志向である》、ここが実に強い()。

けれどいろいろ調べてしまうとジョスカン氏、人間的にはけっこうアレなところがあった気配。雑に言ったら、カネや地位に少なからぬ執着があり、そのためあれこれの権力者たちにすり寄っていたもよう。
その庇護を求めた対象が、アンジュー公ルネとかいう人に始まり、そして仏王ルイ11世、ミラノのアスカーニオ・スフォルツァ枢機卿ロドリーゴ教皇アレクサンデル6世)、また仏王のルイ12世……等々々。

まあこの時代の芸術家としては、とくにヘンな生き方でもなかったのかと。同時代の同レベルの天才ら、レオナルドやミケランジェロあたりにしても、ほら。
だがそれにしても、情勢の激動に即した身の処し方、その巧みさをうかがわせる履歴が、少々ニクい。ちなみにこの時代に流行していた黒死病、それからもジョスカンは、うまいこと逃げきっている。

が、そんなことよりジョスカンの音楽が……! ここでちょっと、そのもっとも親しみやすい感じの1曲をご紹介しておくと。

Josquin by Tallis Scholars - Youtube
ジョスカン「…まずは“音楽”を、
聞いてみてくだサーイ」(

“El Grillo”、これはニホン語で「こおろぎはよい歌い手」と呼ばれる世俗曲で、虫の鳴き声をマネしたような部分もあり、またコール&レスポンスのかけあいもありと、たいへん分かりやすい合唱曲()。
ただその約100秒間という短さの中に、こっけい味とともにほのかな哀愁をただよわせ、ジョスカンの天才の一端をうかがわせている。

ここで、自分の想像混じりの話を申し上げれば。〈愛だけのためにひたすら唄い続け〉、そして秋をすぎればすぐ死んでしまう、そんなコオロギたちに、ジョスカンは彼ら音楽家たちの生き方を託したのだろうか──。聞いていると、そんな気がしてくるんだよね。

ジョスカンについては伝わっている話が少なすぎて、まぎれようもない音楽の天才だったこと、そして処世に巧みだったらしいこと、これしか知りえないに等しい。そしてそのふたつの特徴らが、あまりオレらの脳内で、うまく結びつかないワケだけど。
けれどその生涯を通じてジョスカンが、彼の尊い音楽を〈ひたすら唄い続け〉たこと、それはどうしようもなく確か。そしてその営みを持続可能とするため、何かいろいろな手段を使ったかも知れないにしても、だ。

たとえばジョスカンの宗教曲「わが子アブサロン」)は、ロドリーゴに捧げられたもの、という説があるようだけど。しかしそれから500年もすぎてみれば、この楽曲の無上の美しさに対し、ロドリーゴが下劣なクソ野郎だったことが、いったい“何”なのだろうか。
そして500年もの歳月ののち、ますます評価が高まっていくような《芸術》を、いまのわれわれの時代は創造することができるのだろうか?

……と、まあ、そんなことらをも考えあわせながら。
そして、劇画「チェーザレ」の作者・惣領冬実先生には、ぜひここいらで、ムリじゃないていどのガンバリをひとつお願いしたいんだよね。イエイッ

Karl Bartos: Off the Record (2013) - 古流独式電子音楽 1:光と影のエピック of 原子力文明

クラフトワークの結成メンバー、フローリアン・シュナイダー氏を追悼(1947-2020)。ということで、オールドスクール・ジャーマン・エレクトロニック特集を開催。

そして第1弾にご登場は、クラフトワークの元メンバー、カール・バルト。彼が在籍した1975-90年という時期が、クラフツのまあ全盛期だったとは、おそらく全世界共通の認識みたいなことで。

この機会に脱退の理由を聞いといてみると、〈中心メンバーであるフローリアンとラルフ・ヒュッターの、過剰な完ぺき主義……あまりに遅々として進展しない制作……〉くらいなことを、述べておられるもよう()。
じっさい彼が脱退後のクラフツは現在まで、シングル1コとアルバム1コしか制作できていない。ライブとかは計算外で。
また新作アルバムというのも、83年のシングル“Tour de France”を焼き直してふくらませたものだし。かつ1991年の再録音盤“The Mix”にも、ノンクレジットでバルトスさんが参加しているんだとか。

で、ともかくもクラフツを脱退後のバルトスさんは、彼の個人バンドみたいな“Elektric Music”を結成。ただオレとしては、このグループはそんなに……《音楽寄り》で一般ポップ寄りすぎるんじゃないかな……くらいに思っていたけれど。

それから2000年、名義を本名にして、彼の息子くらいの世代のテクノ・クリエイターであるアンソニー・ロザー()とのコラボで制作のシングル、“15 Minutes of Fame”。これがひじょうによかったので、ブーム末期のテクノ界へのカンフル剤に──、いや、とくにそういう効果はなかったようか。

だいたい《15分間の名声》とは何のことかって、アンディ・ウォーホルが1968年、〈誰もが15分間だけ有名になれる未来が来る〉と言ったんだそうで。
そして自分の記憶だと、こういう話が続いていたはず。〈たとえば高いビルのてっぺんに登って、地上に向かい「飛び降りるぞ〜ッ!」と叫んでみたらいい〉。

てっきりそういうシニシズムだと思っていたが、しかしどうもいま、お話の後半の存在が確認できない。何らかの似たような言説と、記憶がごっちゃになっていたのかも。
ただ現代人たちの、〈手段を選ばず有名になりたい〉という熱望に、そのくらいのヤケクソっぽさがないと言ったらウソになりそう。有名でないなら生きてないのと同じ、みたいなことを本気で思う人物たちは、実在しているような。

そしてバルトスの楽曲も、そういう名声欲の危うさをすくい上げるものだった、と認識している。その歌詞のラストは、〈(有名であることの無上のすばらしさを前提として……)じゃ、どうやって、アンタ有名になるつもり?〉、と結ばれている。

そこまでを見てきた感じ、クラフツの主流派ラルフ&フローリアンに対しバルトスは、ポップであるとかジャーナリスティックな感覚に、すぐれているように思える。バルトス以前のクラフツがものすごく高尚なバンドだった、そこにポップで時事的なフレイヴァを加えていった、そういうバルトスさんの功績があったんでは──という気がするが。

しかしまあ、ヘンに想像だけしていても仕方ないんで。そろそろ本題、2013年、カール・バルトスの“最新”アルバム“Off the Record”をご紹介。

その冒頭曲であり、シングルカットもされた“Atomium”は、やや“15 Minutes of Fame”に近いふんいき。〈原子力時代の興亡を象徴する世界的有名な巨大ビル《アトミウム》へようこそ〉、といった歌詞だが、曲の後半に荒れ狂うシンセサイザーの「キィィ〜、ギュイ〜ン」という唸りが実に不穏、かつカッコいい!

このような、半歩くらいパンクロックやインダスのほうへ踏み出した地点で、バルトスさんのよさが最大に発揮されるように思われる。
そういうスタイル、方向性を強く期待しているんだが。しかし続く楽曲らで多少それ風なのは、6曲め“Musica Ex Machina”くらいだろうか。

とはいえこのアルバム全12曲、クラフトワークでいえば“Neon Lights”のようなノンキ節、そして同じく“Numbers”風の抽象的でリズミックなポエム、等々が盛りだくさんで愉しめる。そしてまた、バルトスさんのポップで風刺的なエレクトロニックの新作が、遠くない日に発表されてくれることを願いつつ。

「サンセット Network❾❶」: always on my mind 夏の夜 (2016) - 歓楽と倦怠のサマーイヴニング

素性のまったく分からないヴェイパーウェイヴ・クリエイター、《「サンセット Network❾❶」》)。なぜかさいきんイイなと思ったんで、ご紹介しようとしたら実にナゾが深く、〈まいっちんぐぅ〜〉と思っている現在なんだ。

そもそも別の名義がいっぱいあって、判明している限り、《「newtype」》()、《Western Digital》()、《Memoirs》()、等々々。
これら全体をひっくるめ、分かっているのは、次のようなこと。2015年にデビュー、それから翌年あたりまで異様なほどの生産力を示したが、しかし17年からフェードアウトの態勢に入り、そして18年をさいごに音さたがない。

いやっ。こんなことさっきまで気づかなかったんだが、にしても2015年のサンセットさんの生産性は、異常だったようにしか。
何せこの年に彼から出たアルバムの数は、サンセットで6コ、ニュータイプで11コ、ウェスタンデジタルで1コ、メモワールで2コ、ほどになるっぽいのだった。“アルバム”とは言え5曲入り12分間みたいな小物もあるが、それにしたって!

しかもそのイキオイが、やがてピタリと止んでいる。実はこういうヴェイパー者、少なくはない、と考えている。

すなわち、2014〜15年という第2次ブームの起こりにザッブーンとヴェイパーの波に乗り、そして16〜17年あたりに活動のピークを示し、しかし18年くらいからフェードアウト中。そういうバンドが……。
……いま意外にパッと出てこないが、たとえば《VHSテープリワインダー》()、《MOD-COMM 81》()、そのあたりがそんな感じか。それとその第2次ブームの立役者である《HKE》にしろ、事実上そんなようなものなのでは?

だが別にフッと活動が止むことを責めてはおらず、いつか戻れるなら戻ればいいし。また、ピタリと止めてしまうのも、《ヴェイパーウェイヴ》らしさがあってよい。
まさか生活のためにヤッてるヤツはいないはずなんで、ムリには続ける必要もなさげ。だいたいヴェイパーの制作なんて、2〜3年もヤッたらネタが尽きる、もしくは飽きるものなのかも知れないし(!)。

「サンセット Network❾❶」: sunset 夕日 (2016) - Bandcamp
「サンセット Network❾❶」: sunset 夕日 (2016) - Bandcamp
「夏の夜」の次にはコレがいいと思うんだ

それはそうと、サンセットさんの話に戻って。その使用名義によって、多少は作品の方向性が違っぽい。

まずサンセットとニュータイプはワリに近く、あまり品のない《レイトナイト・ローファイ》系。楽曲の長さが平均2分くらいと、ライトウェイトな構成が特徴。なぜか自分には、サンセットのほうに質の高さがあると聞こえる。
次にウェスタンデジタルは、それにもう少し高尚味を加えたようなサウンド、なのかな〜と。サウンドのモヤモヤ感が濃く、サンプルのスローダウンが激しい。

さいごメモワールはぜんぜん違い、ダークアンビエントの世界で異色の存在として知られる《ザ・ケアテイカー》()、そのスタイルを模造したもの。ヴェイパーじゃない。
ただしお手本のケアテイカーことレイランド・カービーさんは、こっち側の陰湿邪道な音楽シーン全体のリスペクトを集める偉人ではある()。が、それはまあ別の話。

そしてっ。この駄文にてご推センしようとしているのが、サンセット名義の代表作とオレが考える“always on my mind 夏の夜”(2016)なんだが──。
サイドワークのいろいろとおかしいモノらに触れたあとで今作を聞き直すと、やっとマトモな世界に戻ってきた、そんな気がしてしまうのだった。いやそんなにはマトモじゃないけれど、しかし質の差はあるように思えるんだ。

申し上げたように、そのスタイルはレイトナイト・ローファイ。つまりむかしのポップやR&B、または軽いフュージョンなどを眠たい音質に加工して、真夜中の歓楽と倦怠のムードをかもし出す。そして、アルバム序盤あたりの1曲で、口ーりソグ・又卜ーンズみたいなサンプルが聞こえるのはごあいきょう、もしくは気のせいに違いない。
実はこのレイトナイト系、キライじゃないけど、イイと思うのは少ないんだよね。その中で今アルバムはスッと自分の胸の中に入ってきたんで、〈ボーノ!〉って感じたんだが……。

……にしてもまとまらないお話になってしまい、皆さまにはサーセンしたっ。けどまぁワシだけの責任だとも思わんのやけどな、ブヘヘヘヘ。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

【追記】ご紹介した“always on my mind 夏の夜”について、われらが《Sunbleach》による紹介記事がここに()。
ただし手短で手がたい紹介文でしかなく──いやそのサンブリーチの手がたさが、ほんとうに貴重だったんだけど!──かつ文中の、〈これがサンセットのラスト作か?〉という推測はシュートミスに終わっている。

サンセットさんに対するサンブリさん、ちょうど活動時期が重なっているので、作品の紹介記事はけっこう載っている。しかしそれらをどう見ても、サンセットの素性はまったく出ていない。そんなじゃあ、オレなんかにそれが分かるワケも、ねえ?

The Album Leaf: In a Safe Place (2004), OST (2020) - ひそやかな人気 とあからさまな名声

アンビエントっぽいポストロックのバンド、《ジ・アルバム・リーフ》)。バンドと言ってもその実体は、ジミー・ラヴェル(Jimmy LaValle)という一個人。ワリと眠たぁ〜い音を常に出していて、イイんじゃないかと思ってるんだよね。

で、10年ちょっと前からまあその音は聞いてるけど、しかしその素性みたいなことは、ぜんぜん無知かつ無関心であった。そこでいま、ちょっと調べてみると。

このジミーさんはもともと、米サンディエゴのハードコアっぽいシーンの出身らしい。それからポストロック・バンド《トリステザ, Tristeza》の初期メンバーとなり、なぜかそれを辞め、ソロでアルバム・リーフをスタート。
そして1999年リリースの1stアルバム“An Orchestrated Rise To Fall”が、いきなりの高評価。そしてひそやかな人気を誇りながら、現在へと至る。

というわけで、別に面白い話は何も出てないんだよね。予想はしていたことだけど。

この人にもっとも強いスポットライトが当たった時期は、おそらくアルバム“In a Safe Place”(2004)のとき。シグ・ローシュ(Sigur Rós)の協力のもとアイスランドで録音、そして発売元がインディの名門サブポップと、注目される条件がそろっていた。

しかしそれから地味であり続けている、リーフのジミーさん。そしてその近年の作品には、たぶんものすごくマイナーな映画のスコア、みたいなものが目立ってるんだよね。
いや、21世紀の映画のことをぜんぜん知らないんで、マイナーもメジャーも見当つかないんだけど。しかしどうにもタイトル等を聞いたことがない、そういうのが。
で、ご紹介しつつあるOSTは、そのスコアらのいいところをまとめたアルバムであるとか。

……と、ここで、ちょっと思うんだけど。自分が2010年くらいに好んで聞いていた、ネオクラのようなアンビエントのような方面のアーティストたち。
どうせ、コイツらずっとマイナーなんだろうな……〉みたいに思っていたけれど──あ、スミマセン──、しかし映画音楽への進出あたりをきっかけに、現在かなりのメジャーにまで成り上がっている分子が、いなくはない。
思い出せた分だけその名前らを列挙すると、Hauschka、Jóhann JóhannssonMax Richter、Nils Frahm、Ólafur Arnalds、といったお方々。これと同時に、ネオクラってジャンル自体の格がズズ〜イと上がっているとも考えられる。オレごときには、予想もつかなかったことに。

そうした立身伝らの中で最大の衝撃は、ヒルドゥ・グドナドッティル(Hildur Guðnadóttir)が「ジョーカー」(2019)のスコアを担当、そして大成功してしまったこと。その2006年のデビューアルバム“Mount A”、あの陰うつさをきわめたサウンドを聞いていたころ、現在のヒルドゥさんの名声を想像できた人間がいるとは思えない。
ただしその成功は祝福するにしろ、そのイキオイでヒルドゥさんが、Bandcampのページを消しちゃったのはどうなんスか(2020年1月に閉鎖)。あんなヴェイパーウェイヴ等のビンボーくさい音楽長屋、ハリウッダーの居場所ではございませんって感じ? はあ。

……そして、話を戻し。だがそのいっぽうのアルバム・リーフは、ちょっと似たような感じで映画に関わっても、とくべつに出世も何もないっぽい。ま、そんな世間的なことはオレらには関係ないが。

ただ、この機会にいろいろ聞き直してみると。リーフさんのサントラのアルバムは断章形式で、平均で2分間くらいの楽曲がつらつらと続き、それぞれがさまざまな気持ちのいい響きを提示する。これがいま、自分の気持ちにフィットするんだよね。
オレのイメージだとリーフさんの音楽は、もっとバンドっぽくて唄ものが多かった気がした。確かめたらじっさい、それもあったんだが。
しかしこういう、シネマティックでエレクトロニックなスタイルのリーフさんも、イケてる、使える──、トレビアン!

Mogwai: ZEROZEROZERO (2020) - モグ モグ モグ、モグっ モグぅ〜

モグワイというバンド、スコットランド出身で1996年デビュー()。そして翌97年の1stアルバム“Mogwai Young Team”ですでに、《ポストロック》みたいな世界の頂点に立ったと言える、結果論で。

いっぽう自分が東洋の片すみで、このバンドの存在を初めて知ったのが、こりゃまた遅くも2005年くらい。だがそれも、主観的には仕方のなかったこと。
なぜ仕方なかったのかって、1990年代からこの時期までの自分は、音楽といえば《テクノミュージック》! ──あと、それにちょっとは近縁のもの。それ“だけ”にしか関心がなかったんだよね、いやほんと。

そして、そんなテクノへの夢想や熱狂も醒めてしまった2005年ごろ。そこまでのモグによる初期名作ら、「ヤング・チーム」、「カモン・ダイ・ヤング」(1999)、「EP + 6」(2001)などを聞いたオレの感想は……。

ドゥルッティ・コラムのトランキル(静か、穏やか)なサウンドが、リフレッシュされた現代バージョン……、いや、ちょっと違うのか?〉

きれいなメロディとその余韻らをフィーチャーした静かなパートらは、多少くらい似てるかな、としても。しかしそうじゃない部分が、モグにはある。
つまりその楽曲の中盤や後半で、ズガガガ〜ッ!と轟音がさく裂しちゃうパートが、モグ的にはありがち。それは皆さまも、よくご存知のことで。

──実はそういう、モグっぽい起伏の激しさを、自分の中では受け容れきっていないんだよね。
テクノ的発想がいまだ抜けてない、というより、生まれつきの《ミニマル》志向のせいで、自分は“同じこと”をずぅ〜っとしてるような音楽が好きなんだ。

とはいえモグっちの音楽、その質の高さは、がぜんとしてれきぜん。なので、これはこういうものか、くらいに考えて聞いてきたんだよね。
また、追ってニホンからも《MONO》というバンドが出てきて、まあだいたいはモグタンのコンセプトを見習っちゃってる感じだが()。そして同じく、共感しきれもしないけど、まあこれもあり、くらいに拝聴いたして。

と、そんな時期から歳月が、さらにズズズゥ〜イと経過……。そしていまオレたちは、モグちんの最新2020年アルバム“ZEROZEROZERO”を聞こうとしている。

すると、どう? これはアマゾン何とか向け映画のサントラだそうだけど、そのせいでもあるのか、いたってフラットであります、音楽がっ。
急にうるさくズゴゴゴ〜ッ!ってなるような、ああした特有の起伏の激しさが、もはやない。全体的には、シネマティックでメランコリックなアンビエント(風)インストロックとして、オレにはきわめて受け容れやすいサウンドになっている。

ただし。初期のモグポンには存在したような、過激な繊細さ──切ればすぐ鮮血が飛び出しそうな皮フの薄い感じ──そういう趣きも、ここにはすでにない。
かつて1997年にヤングのチームだった人々は、20数年後の現在、もはやミドルとかシルバーとかのチームになっている……。それゆえの変化?
そして、ヤングなうちにダイすることのできなかったオレたちが、《ここ》でいま、その悔いをしみじみと分かちあっているのだろうか。

かつ、自分がかってにモグっちのお手本かと思い込んだドゥルッティ・コラムさん、そちらさまのサウンドも、かなり前からちょっとそんな風()。センスのよさ等は変わらないけれど、しかし最初期のみずみずしさは、もはや出そうとしても出ないのかも。

なんて、まあ! 人さまらの顔を眺めて「老けちゃった?」とかぬかす失敬なヤツ、みたいなことを述べちゃったようでもあるけれど……。
だがしかし、歳月が人を変え音楽をも変えていく、そのことを受け容れなければならないのかな、とも思い、オレは暗い空の彼方を見るんだよね。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

【付記】 英語のウィキペによるとモグリンの音楽性は、〈フガジ、MC5マイブラソニックユース、ザ・キュア、そしてポストロックのパイオニアであるスリントらの影響を受けた〉、のような話()。
それらもまあ、たぶんあるんだろうけれど。しかしそれだけの見方だと、オレが注目しているモグすけのサウンドアンビエントっぽい部分、そこには説明がつかないよね。

が、だからってドゥル・コラ説をあんまり強く言う気もなく、これは影響というより並行関係くらいのものなんだろうか、と考えながら。