エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

谷●ニコ「わ●●テ」 と、奥浩哉「いぬやしき」 - 検閲・検閲・検閲!……そして抗うもの

この現代ニッポン──、そのサブカルっぽい分野でヘンに横行しくさっている、《伏せ字》という形式の自主検閲。
それを気にしている、さらには問題視している、そんな人はあまり多くないと見えて、調べたんだが、ほとんど何も分からなかったんだよね。……いったいいつから、こんなザマになっているのか。また、どこの誰が始めやがったことなのか。

そのように《歴史》というものが視えないので、とりま目についている実例を、まず提示。
そしてその告発の対象が、谷川ニコ氏による私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」(2011-)、というまんがになるんだけど。
しかしこの通称「わたモテ」が、とくにそのヒドい例なのかどうか、それは知らない。ただ、ふだんからワリに見てるまんがなので、つい目についた、というだけ。

その誇る自主検閲(らしき所業)の華々しい例として、こういうものがある。「喪129 モテないし教えてあげる」というエピソードで、われらのヒロインである《黒木智子》は、〈声優という職に就けばエロゲーへの出演は必然〉、みたいなことを主張。そしてその傍証として、言う。

〈クレ●ンし●ちゃん とか一家全員で やってるよ〉

これを通訳すると、〈アニメ「クレヨンしんちゃん」の主人公一家を演じる声優たちは、その全員がエロゲーの声をも当てている〉、という主張だと考えられる。

このように、このせりふは、Web媒体への初出時、すでに伏せ字処理がなされていた。さらにそれが、単行本「わたモテ」13巻に収録されたさい、なぜなのか、より強く表現がボカされるハメに。

〈あの有名アニメも 一家全員で やってるよ〉

……何がいったい、〈あの有名アニメ〉なんだろうか? そして、ここまで表現をボカしてしまうと、作中のドラマが不成立になってしまうのでは?

というのは、智子が語っている相手の《茜》は、ふだんアニメも見ないし声優の仕事のこともてんで知らない──、つまり《オタっ気》が、ぜんぜんない少女であるもよう。まあオレもそのタイプなんだけどね。
だが、そうだとしても、「クレしん」くらいは常識として知っていそう、とは考えられる。ゆえに、このお話が成り立っていた。

ところが。〈あの有名アニメ〉とまで発言がボカされてしまっては、彼女らの会話が成り立ちそうな感じが、まったくしない。
そんなボカされつくした言表の《意味》を、非オタの茜が受けとめられるワケがない。読者の自分にしたところが、あらかじめWeb版を見ていなかったとしたら、とてもじゃない。

けれど、そんな通じるワケのない発言が、なぜか作中では通用してしまっているとする。その様相をオレたちは、言うところの《メタいギャグ》として愉しむしかない、のだろうか?

ということを書くために「わたモテ」13巻をチェキしたので、その流れから、続く14巻を見てみると。そこにおいては、次のような伏せ字ワードらの数々が、怒とうのごとく現出しているのだった。

〈ペ●ソナ〉、〈魔法少女サ●ト〉、〈Ki●dle, キ●ドル〉、〈メ●カリ〉、〈ク●スティアーノ ロ●ウド〉、〈孤独のグ●メ〉、〈ペ●ス〉、〈ち●ちん〉、〈け●のフレンズ〉、〈フリース●イル ダンジョン〉、〈か●んちゃん〉、〈サー●ルちゃん〉、〈呂●カルマ〉、〈R-●定〉、〈ク●ニ〉

──ってク●ッタレ、大量すぎるからちく●ょう!! コンコ●ンチキのスカポ●ンタン!

ま〜さかこんな大量に伏せているとまでは思わなかったので、うっかり“すべて”を書き抜いちまったぜェ。じゃあもうハッキリ、自分の感じを述べてしまうと。

このテの《伏せ字》なんてものは、すぐ分かるものなら、伏せている意味がない。法律的には、ほぼない。たとえばの話、〈わ●モテの作者の谷●ニコの母親は淫●のク●女!〉といったボカシ表現であっても、名誉毀損等がりっぱに成り立つ。
いっぽう分からないような伏せ字をかってに放り出されたら、本気で分からなくてアタマにクる。〈フリース●イル ダンジョン〉とか何とかを自分はまったく知らず、ついついネットで調べちまったが。しかし根本的に興味がない和製ラップのことだったので、とんだ時間と手先のムダを強いられた気味だッッ。

このように、安易な伏せ字の乱用が──安易では“ない”というなら、その根拠を聞きたい──、読者に対して小さくもないムダな思考の負担を強いていること。それについて、作者および版元らは、これッぽっちも自覚的ではないのだろうか?

そういえば……たまにオレが読み返す、20世紀中盤の唯物論関係の著述家、《戸坂潤》(1900-45, )。この人が、だいたいこういうことを書いていた。
彼が『改造』誌に寄稿した時事評論が、ものスゴい伏せ字だらけで印刷された。ウロ憶えだが、確か《天皇制》、《関東軍》、《満州国》、といった文字列らが全消しにされたとか。
それであまりにも意味の取りえない文章になり下がったので、思わず潤さんは編集者にクレーム。すると相手は、こんなことを言ったそう。

確かにヒドくてサーセンが、でもマジあの状態で、超ギリギリっス。もとの文章をそのまま印刷していたら、『改造』は即・発禁、そしてボクら二人とも、いまは牢屋の中っス!

けれど、それこれの防御策も奏功しきらず……。追って潤さんは特高警察か何かによる弾圧をこうむり、そして非業の死を強いられたのだった。

そうして、いま。この現在にいたっては、ゲームやアニメの題名ら、キンドルやメルカリのような周知の商標と商号ら、そしてラッパーらの芸名──、なんていう実にどうでもいいよォな名詞らが、かつて規制された、《天皇制》・《関東軍》・《満州国》等々に代わる、禁断のワードへと成り上がっている、とでもいうのか。

とはいえ、そのいっぽう。「わ●モ●」14巻の例の中で、〈ペ●ス〉(=ペニス)等々の下半身ワード、それらを伏せていくことは、社会的な配慮とかにより、ありうると考えられる。
たとえば英語のラップ曲のタイトル表記なんかでも、“Fxxk”、“Sh-t”、“C*nt”、などなど、4文字ワードらの一部を伏せている例があるし。まあ、そういう。

と、いま英語の話が出たんで思うんだけど。あっちサイドのサブカルっぽい表現で、ニホンのまんが等で乱用されている伏せ字規制に近いものって、存在するんだろうか?
……まず4文字ワード(的な要素)らを伏せるってことは、とうぜん考えられる。かつ、ポリコレ的な配慮で使えないことばもあるのだろう。
だがしかし、ただの商標や作品名や人名ら、そんなのまでをヘンにボカしていくことは、めったにないのではなかろうか。違うだろうか。

さて。もういちど言うんだけど、ここまでの題材となった「わ●●テ」が、ヘンな伏せ字の乱用の、とくべつにヒドい例なのか──、それは知らない。ただ、ワリに自分がよく見てるまんがなので、事例として採用の憂き目を見た。
犬も歩けばどうこう、みたいな話なんだ。だがそれにしても、14巻における伏せ字の頻出は、やっぱりトゥーマッチじゃないかと思うんだけど。

では次に、逆の例のまんがを採り上げよう。つまんねェ伏せ字で大切な《作品》を汚していない、そんなくだらねェクイズもどきで読者によけいな負担を課してはいない、という見上げた例を。
ただしっ? 〈つまんねェ伏せ字なんかで作品を汚さない〉ってのは、本来あたりまえのこと。だがそのアタリマエが、いまでは貴重な例みたくなっちまってるのが、異常な事態なのだ。

そういうわけで採り上げるのは、犬も歩けば──というわけで、奥浩哉によるいぬやしき(2014-17, イブニング誌掲載)。その単行本の2巻までをざっと見て、仮に「●た●テ」だったなら伏せられていそうなワードらが隠されずモロに出てる、その例は以下の通り。

ツイッター〉、〈TDL〉(=東京ディズニーランド)、〈2ちゃん〉、〈(週刊少年)ジャンプ〉、〈GANTZ〉、〈ヤンジャン〉、〈アマゾン〉、〈スパイダーマン〉、〈ワンピ(ース)〉、〈進撃の巨人〉、「鉄腕アトム」アニメ主題歌の歌詞

けれど、また言うが、モロに出てるのがアタリマエなんだ。だってのに、あたりまえのことが、アタリマエには見えない現実。
そしてあたりまえのことをしているだけなのに、われらの奥浩哉先生が、《まんが》という表現の尊厳を雄々しく守っている、闘っておられる──かのように見えてしまう現実。そんな腐ったこの現実が、あたりまえでなく異常なんだ。

かつまたっ? 〈仮に「わ●●●」だったなら伏せられていそうなワード〉と、ついいま自分は書いたけれど。
だがしかし、なぜそんな実在しもしないガイドラインが、自分のアタマにじっさい入っちゃってるのか? どういう基準で伏せているのか、何となく分かってしまっていることが、実にクッソ腹立たしい。

オレら人間は社会の中でしか生きられぬゆえ、そこにおいて、〈すべきでないこと、言ってはならんこと〉、それらを識って、なければならない。これを《規範の内面化》と呼ぶと、社会学とかの講義でむかし聞いた。
──それはまあ一定、必要だとしても。
だがしかし、ヘンなメディア等がふんわりと、さしたる根拠もなくばくぜんと定めた感じのクソ規範、そんなものらをうかつに《内面化》してしまい、オレらの思考や言動がどんどん不自由になっている──、現在そんなことが、“ない”と言えるのだろうか?

ところでさいごに、ちょっと話を変えて。この「いぬやしき」作中から、激しく自分の印象に残ったエピソードを、ひとつご紹介。
まず、おおかたはご存じのことと思うけど、SF劇画「いぬやしき」は、ほぼこういうお話として始まる──。

──宇宙人らのフとした手違いにより、二人の地球人が、万能無敵のサイボーグへと改造されてしまう。そのひとりは、サエない初老の紳士である主人公の《犬屋敷》氏。もうひとりは、男子高校生の《ヒロ》くん。
そして自分らのハイパー能力を自覚したとき、善良な犬屋敷氏は、それを世のため人のために行使しようと決意する。ところがいっぽうのヒロくんは、衝動のままにロクでもねェことを、次々にしでかす。

とりわけヒドくて印象的なのが、単行本2巻の序盤に収録されたエピソードなんだ。何となく気分でヒロくんは、知らん人の家にズカズカ上がり込み、まずその一家の父母と息子を虐殺する。そしてそうとは知らず帰宅してきた高校生らしい娘が、その惨状を見つけて嘆く。

その哀れな娘にヒロくんは、サイボーグ化によって必殺の凶器と化した彼の指先を突きつけ……。そしてビックリ、彼女に対し、〈どんな 漫画 読む?〉と、その場にまったくそぐわない問答を、とうとつにふっかけるのだった(第12話 “懇願”)。
それで仕方なく、哀れな少女は泣きながら、その問いに応じようとする。

〈ワンピ……とか… し…進撃の 巨人………とか……〉
〈ワンピ!! ウッソ まじ!?〉(と言い、ヒロくんは歓びの表情を顔に浮かべる)

かくてこの二人には、ONE PIECEを愛読という共通の趣味のあることが、確認されたもよう。ならばそのよしみにより、冷血めいたヒロくんも、この哀れな少女に対し、少しは情けでもかけようって気になったのだろうか?

ところがぜんっぜん、そうはなっていない(!!)。──というのが、このお話の実に恐ろしいところなんだ。

ンで。実はオレちゃん、「ワンピ」単行本のさいしょ3巻くらいまでは見たけれど。でもその《意味》が、サパーリ分からんかった、という実績を誇る。
ただしこの〈ワンピ分からん病〉に罹患してるのは、オレ独りではない気配。あるスジからの情報によると、平松伸二猿渡哲也高橋陽一という各偉大な先生ら、および元ジャンプ編集のマシリト鳥嶋氏、この方々も、〈ワンピ分からん!〉と述懐されているそうだが。

けれども世間の説だとそれは、仲間とか連帯とかのすばらしさを伝えてくれる、超あっぱれな名作であるらしい。

と、そんなスバラしい(らしき)まんがを愛読していても、ヒロくんの情操──あえて言えば“人間らしさ”の涵養──に寄与するところは、何もなかった、というのか。
だとすると。《まんが》というものにくみしてるつもりみたいなオレらにとって、寒気のするようなニヒリズムが、ここには描かれているのだろうか。

そこのところは正直、いまだ考え中。ただ……。ただこの、ニホンのまんが史上いちばんのベストセラー作品であるらしい「ONE PIECE」、それをディスってんだかそうでもないのか、かなりきわどくも思われるエピソード……。
そんなヤバめのお話を、小ずるくボカした表現に逃げることなく、くっきりハッキリと描きぬいた、われらが奥浩哉先生のペンの力強さ。それに対する敬意が失われることは、自分が死ぬまでないだろう。そのことだけを述べて、いまはこれを終わるんだよね!

The Midnight: Monsters (2020) - 《美学》をじゅうりんする美学を求めながら

ロサンゼルスを拠点に活動中のエレクトロポップのデュオチーム、《The Midnight》。シンスウェイヴ(synthwave)というムーブメントを代表するバンドのひとつ、と言っていいくらいの人気を誇っているもよう()。

そしてご紹介する“Monsters”は、彼らのフルアルバムの第3弾。今2020年7月に出たばかりのピッカピカ最新作で、そして早くも大好評がきわまっているらしんだけど。

……ただし。ココんちはヴェイパーウェイヴとかいう陰獣邪道の巣窟であり魔境であるので、ヴェイパー側からのかってな感想文を、以下ちょっと書かせていただくんだよね。

まずは、サウンド以前のこと。《ザ・ミッナイ》作品のアートワークらは、2014年のデビュー作から一貫し、オレらの言っている《美学》(aesthetics)のカタマリである。ふつうの意味での美学ではなくて、《21世紀のネット美学》という意味の()。
そしてそうした《美学》の参照がきわまっているのが、この「モンスターズ」のカバーのグラフィックだと考えられる。

これは1990年代中盤のスクールボーイの居室だろうか、時計は夜の12時を示している。光っているので目立つのは、テレビ&パソコンのブラウン管の2コ。で、つながった初代プレイステーションが機能していないせいか、テレビの画面はノスタルジックな《砂嵐》
そして部屋の奥、透過式のアクリル板みたいなものが輝きながら、ビル街にUFO出現という絵画、および、このバンドの名前とアルバムタイトルを映し出している。
──その他、あれこれのレトロな美学アイテムらが描かれているが、とくにオレらの気になるのは、右上方の壁に貼られたポスター。イルカの画面に、ECCOという重要キーワードが書かれたもの。

そしてよくよく見てみると、ベッドの下の暗闇の中で、何かの生き物がその両目を光らせている。たぶんこの存在が、アルバムタイトルに言われた《モンスター》なのだろう。
ただし、それがどういう化け物なのかといった考察は、もっとストレートなアルバムレビューにお任せしたい。ヨロシク!

で、これらを見てきてフと思うんだけど。《美学》なんてものはヴェイパーウェイヴの一部分──くらいにふだん考えているが、実はそうでもないのかな、と。むしろ美学のほうが大きなムーブメントであり、ヴェイパーはその中の一分野、くらいの見方もありそうだ。

そして、やっとサウンドの話になるんだが。このアルバム「モンスターズ」はズバリ、《ヴェイパーウェイヴ風味の流用》をコンセプトとしたしろものだと断言できる。スマンが〈こっち〉のサイドからは、そういう風にしか聞こえないんだよね。

まずアルバム冒頭の“1991 (intro)”と、それに続くトラック“America Online”により、それはもうあからさま。さいしょにガチャッとパソコンの電源スイッチの音がして、するとハードディスクがギュイ〜ンと廻り出す。やがておもむろに鳴り響くのは、ウインドウズの起動音(!)らしきもの。
それからタイピングの音に続き、56kとかのモデムが〈ピュロロォ〜ズガァ〜〉。そうしてログインができたらしいところで、ヴェイパーでよく聞かれるモヤッとくすんだシンセ音の、哀愁味あるファンファーレ。

補足。述べたような1990年代的コンピューティングのデテールらは、ヴェイパーウェイヴの粘着するフェティッシュのひとつ。それと、さっき出た《ECCO》とはエコめかした不逞の《盗用音楽》(plunderphonics)──つまりヴェイパーそのもののスローガンであり、そしてイルカはその偽善のエージェント。

いきなりのこの所業に始まり、今アルバムでは随所で、ヴェイパーウェイヴの《風味》が流用されている。ただし、風味やフレイヴァにすぎぬではないか、とも言える。

この感想文の参考にと、ザ・ミッナイのアルバム第1弾(2016)&第2弾(2018)らをも、いちおう聞いてみたが。でもそれらは〈ふつう〉のシンスウェイヴで、ヴェイパーの風味はほとんどないっぽい。するとこの味つけは、バンドにとっては画期的なものなのかも。
そしてザ・ミッナイの方向性ははっきりと一貫していて、根本がまっとうなポップソングである楽曲らを、レトロ志向のエレクトロポップへと、〈アレンジ〉。アレンジしだいでどうにでもなりそうなものを、とりあえず、シンスウェイヴにしている風もある。

Timecop1983: Night Drive (2018) - Bandcamp
Timecop1983: Night Drive (2018) - Bandcamp
ザ・ミッナイと仲よしで同路線のバンド、
《タイムコップ1983》。その最新アルバム

そしてそういう《アレンジ》のスタイルの一種として、オレらのヴェイパーウェイヴが、いま一般ポップの世界に浸透し消化されていく──、そのザマをオレらは眺めているのだろうか。

とはいえ、別にザ・ミッナイにケチをつけるつもりはなく、これはこれでいい。楽曲ら自体のデキがまずよくて、そりゃ人気も出るだろうと。
また「モンスターズ」6曲めのインスト曲、“The Search for Ecco”。タイトルからしてモロにヴェイパーよりの楽曲なのだが、これなんか、こっち側にそのまま持ってきても通用しそう。
〈ノーマル気味だが、なかなかイイんじゃないっスか〉、という感想で受けとめてしまいそうなんだ。さらに第10曲の“Helvetica”、これも同傾向のサウンドで愉しめる。

と、そのように、ザ・ミッナイのことは別にいいんだが。

けれどもオレは、どうしても消化しきれない《異物》としての、アタマがおかしくデタラメでいい加減な、世間を挑発し嘲弄し続ける、テクノロジーの廃物らを積み上げたバベルの塔、クソくだらないバズワードらの偏執的でイヤがらせ的な反復──、そんなものとしてのヴェイパーウェイヴが、あり続けてくれないとたまらない。
そしてそのようにあり続けるために、ヴェイパーの《美学》みたいなものも、ヘンに確立されてしまってはいけない。もっともっとのおかしさを、さらにオレらがきわめていく必要性、それが感じられてやまないのだった。

videoscapes: from the roofs of skyscrapers (2019) - オレは自分を《ここ》に埋葬し続ける

《videoscapes》という、わりに何気ない名前のヴェイパーウェイヴ・クリエイター。彼の素性はいったいどういう──、といった話はあと廻しとして。
そのヴィデオスケープスという名前で世に出ている作品は、いまご紹介している“from the roofs of skyscrapers”、このアルバム1作のみであるよう。

これは摩天楼ビルの屋上──、またはその最上階あたりでなされる、ハイソでラグジャリーなナイトライフが、ばくぜんと描写された作品である感じ。ジャンル的には、まあレイトナイト・ローファイだと言えそう()。
そしてレイトナイト系のお定まりに従い、むかしっぽいR&Bやどうでもいいような軽フュージョンといった素材らが、音質劣化をこうむりながら切り刻まれ、ループされている。そんな全10曲、約25分間のアルバム。

──と、そこまではありきたりなんだけど。

しかしこのアルバムが興味深いのは、述べた“音質劣化”のヤリようが、実にハンパない。全曲が恐ろしいまでにまぁる〜くモコついた音質で、ただ眠たいというよりか、耳に刺激がないにもホドがあるのだった。
これはもうまるで、コンクリの集合住宅の、壁や天井を通り抜けて聞こえてくる音のよう。しかしそんなでも、本来どういう音楽だったのか何となく分かる、それがみょうに面白い。

さてこの実に大胆なアルバムの作者、ヴィデオスケープス。その同じ人による、他の作品というのはないんだろうか? それを調べていたら、ちょっと驚くべき光景を、オレは見てしまったんだ。

すなわち。音楽データサイトのRateYourMusicによると、ヴィデオスケープスの正体は、《Claud Sheffner》というロシアの人()。とりあえずクロード・シェフナーと読んでおくけど、あまりロシアっぽくない名前。が、そこまではいいとして。
しかしそのシェフナー氏の偽名や変名やバンド名として、たぶん100コくらいもの名前っぽい文字列らがズララ〜っと見えているのは、オレの目の錯覚か何かだろうか。そうであることを、逆に願ってしまうんだけど。

そんな100コほどものバンドをいちいちチェキしているわけにもイカないが、たぶん、こういうことのようだ。──シェフナー氏は2015年くらいから音楽活動を開始、そしてその100コくらいもの芸名らを次々に使い棄てながら、現在まであちこちに、ヴェイパーおよび種々のインチキくさい電子的ポップらを発表してきた、と。

そこまでの猛然たるイキオイで芸名らを使い棄て続けることに、何かメリットってあるんだろうか? いろいろな理由で別人や新人を装うことがあるのは知ってるけれど、しかし、これは明らかにトゥーマッチなのでは?
これを自分の言い方にねじ曲げると、こういうことか。2016年あたりを頂点とするヴェイパーウェイヴのブーム、その時期に次々と現れては消えていった、超大量の泡沫的なバンドたち──それらの一部をシェフナー氏は、ほぼ意図的にクリエイトしていたのだ、と。

何ンせ名前が《蒸気》とかっていう、そんなはかない音楽ジャンルなので、〈泡沫ゥ? 上等でェ〜いっ!〉のような覚悟は、ワリと広く共有されているのかも。……が、それにしても。
〈オレは自分のアイデンティティを、このクソ大量のクソバンドらのクソ作品らの中に葬る〉。──そんなことをシェフナー氏が考えている(いた)のかどうかは知りえないが、でも実質的に、〈そんなこと〉を実践してしちゃっているのでは?

ところでシェフナー氏によるらしい作品で、もう1コじっくり聞いてみたのが、バンド名《寝台永遠》による、「国際通信」(2018)というアルバム。
するとこれは、まあ、ごくふつうのシグナルウェイヴ作品()。ニホンのテレビの古いCMサウンドらをフィーチャーした、全15曲・約19分間のアルバム。

いや、〈ふつう〉っていうのも実に失敬なんだけど。でもこういう種類の作品を大量に聞きすぎているんで()、その上で、あまりきわだったところはねェな、という感想になっちゃった。かつ、ダメって感じられるところも別にない。
そんな、よくも悪くもないっぽい作品だが。でもシェフナー氏にとっては、その水準が、逆にツボだったりするんだろうか。自分自身を、このムーブメントの中に葬ろうとしている彼としては……(っ!?)。

かつ。シェフナー氏のヤッてきたことはあまりにもハイパーに思えるワケだけど、しかしけっきょくは、“誰も”が同じことをしているのだろうか。オレらはオレらのアイデンティティを、ヴェイパーウェイヴの中に葬り去る。このヴェイパーと呼ばれる泡沫(うたかた)の微弱な響きが、いずれオレらの墓標となる。
そして願わくばその響きが、微弱ではあれ、とこしえに絶えないように……なんてね。

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
Interesting Late Night Lo-Fi album by videoscapes, "from the roofs of skyscrapers" (2019). The process of degrading the sound quality is really powerful, and it is as if it were the music leaked from the next room. The sound is interesting.
According to RateYourMusic, the true identity of the artist "videoscapes" is Claud Sheffner in Russia (). Probably around 2015, he's been using and throwing away pseudonyms of up to 100, and releasing vaporwaves and related electronic pops everywhere.
A strange creator. Is he trying to bury his identity in a movement called Vaporwave while spreading his identity?

Cigarettes After Sex: Cry (2019) - セックス、ニコチン&ロックンロール のすゝめ

《シガレッツ・アフター・セックス》という、公序良俗って何それ的な名前のポストロック系バンド()。2008年から活動中で、その名の通り、アンニュイ感に濡れたエロチックな世界をしっとりスローに展開し続けている。

さて、実のところこの記事は、直前に書かれたピューマ・ブルーの話の続きなんだ()。

すなわち。この《世界》の実にジメッとしてウツであるところを、ムリにでも《アンニュイ》くらいに読み換えエロチックに解釈し、どうにか、この生をしのごうとする。──そういうアチチュードが、両バンドに共通しているかと思い込んだ上で。

それとサウンド的にも、楽曲らのほとんどがスローテンポ、クリーントーンのギターをフィーチャーし、アンビエントに片足かけた眠みにあふれる響き。かつ、甘ったるくもやさしく眠たいボーカルの声質──等々と、両バンドにはけっこう共通点が多いもよう。
そしてこういった構成のサウンドを聞いたなら、〈かのドゥルッティ・コラムを思わせる()……〉、とか言わないわけにはイカないのが、ある種のオッサンらのイヤなところで。まあじっさい少しは似てるけど、でもあまりその連続性は強調したくない。

ところでピューマとシガレッツ、その共通でないポイントをも指摘しておくと。

ピューマ・ブルーにだけあるような特徴は、ジャズっぽいニュアンスと、およびラフな演奏やローファイな録音をよしとするところ。いっぽうのシガレッツはそうじゃなく、むしろルーツにはフォーク的なものがあるかも知れないし、かつ演奏や録音はひじょうにキッチリとやっている。そのあたりは違う。

なお、このシガレッツについては英語のウィキペの記述がけっこうまとまっていて()、それをテキトーに抜き書きすれば、こんな雑な紹介記事などは一丁アガリである。ってオイ。

まずシガレッツというバンドの実体は、本名をグレッグ・ゴンザレスという一個人。米テキサス州エルパソ出身の人で、現在の活動のベースはNY市。
そのエルパソってどんなところかも調べたら、かの広大なるテキサスの南西の端。そしてメキシコとの国境の街なので、チョリソー

ちなみに同市の出身者で他に目立つのは、ミュージシャンではヴィッキ・カー、マーズ・ヴォルタ、オマー・ロドリゲス-ロペスなど。またミニストリーのアル・ジュールジェンセン(出生地はキューバ)が、なぜか近ごろ同地に居着いているという。ついでにプロレスのチャボ・ゲレロの一族も、そのベースはエルパソだとのこと。

と、そんな暑くて乾燥してそうなタコスの土地に生まれたゴンザレスさんが、ジットリと湿ってお耽美なシガレッツのサウンドを演っている。そこが面白いところなのだろうか。

そしてこのゴンさん。シガレッツのサウンドの影響源として、まずフランソワーズ・アルディマイルス・デイビスを筆頭とし、続いてジュリー・クルーズ、コクトー・ツインズ、マジー・スターらの名を挙げているとか。
……そんな話を聞いてしまったら、何か分かった気がしてきちゃうのがイヤっスね。いつもほとんど情報がないところからレビューしてるので、調子が狂うんだよね。

じっさいゴンさんのインタビュー記事なんか、英語ならいくらでも見つかるみたいなんだけど、しかしそんなもの全部に目を通したところで何になるのだろうか。
じゃあここはもう、たまたま目についた仏“Vogue”の記事から、ちょっと目についたところを引用して終わりにしたい()。

──あなたの音楽をどのように説明しますか?
グレッグ:「私はそれが遅いと言いたいです…私たちはエロティックな子守唄のような、かすんだロマンチックなバラードを作ります」

(グーグル翻訳システムの出力)

遅くてスローで、かつエロチックな子守唄。そしてセックスそのものではなく、それが済んだあとの喫煙、という種類のお愉しみを描く。それがゴンさん、シガレッツ・アフター・セックスの導いている、《この世界》の過ごし方であるようなのだった。

……あ、それとあとひとつ。シガレッツのフルアルバムの第2弾である“Cry”(2019)、その第6曲──そのズバリ“Hentai”というタイトルが、モーレツに目をひいてるんだけれど!

だがしかし、聞いてみたらいつも通りのきれいな楽曲で、つい期待されるようなケレン味アニメ臭などが、ぜんぜんない。念を入れて歌詞までをチェキってみても、いっこうにノーマルなラヴソングかのようだ。
ちくしょうゴン氏め、わがニッポンの誇るヘンタイ・カルチャーのマインドを、いっこも分かってねーな! いや、分からんでも別にまったく構わないことだけど……っ!!

Puma Blue: On His Own Live (2019) - 登ろうとして階段を、ついついオレらが降りるとき

ピューマ・ブルー》はロンドン在住のシンガーソングライター、本名はジェイコブ・アレン()。1995年生まれで2014年から活動中、そしてけっこうな話題の人であるらしい。

彼の音楽はどういうのかといえば、ただもう、ひたすらに眠たいポストロックだと言ってもよさそう。スローテンポでブルームード一色の楽曲らも眠く、かつダイナミクスに乏しい演奏も眠く、そしてサウンド処理もまた眠い。
──等々々と、エクストリームに眠たさを志向している感じ。かつオボロげながら、エロチシズムを常に、ちょっと匂わせているのが人気のヒミツかも。眠みとエロスが、ひそやかにそこで結びつきながら。

あと少し珍しいのは、それがジャズの文脈に関わっていると、指摘される場合がある。

どういう意味でジャズっぽいと言われるのか──、オレの了解だと、理論とかテクニカルな側面あたりからではなさそう。
ただピューマくんは、うちらの得意なダークジャズ(ジャズ・ノワール)的に、ジャジー・ムードの断片らをサウンドに散りばめながら、そしてチェット・ベイカーばりの甘く眠い声で唄う。そういうところかと思うんだけど。

また、このピューマくんのリリース歴というのが、ちょっと興味深くて。

まず初め、10曲に満たないレパートリーらを、シングル、EP、ライブ&スタジオ盤と、形式を変えつつ何度も何度も出している時期があった。それを、《第1期》とでも見ておく。
で、それらに続いた2019年の“Blood Loss”は、新曲のみを収めた8曲入りEP()。初期に比べたらルーズさの少ないサウンドとなり、また多少だが、アップタイトな局面もある──と、心もち変化。ここからが、ピューマくんの《第2期》と考えられなくはない。

そしてそこまでの集大成が、もっか最新、かつ彼のここまでの唯一のアルバムとされる“On His Own”ライブ(2019)なのだろうか。

……ていうか、いま注意して聞くまで気づかなかったが、この“On His Own”ライブはバックバンドなし、エレキギター1本の弾き語りで演奏されたもの。まさにタイトル通りの、ピューマ一匹フェスティバルなんだ。
それによるきわめてカジュアルで親密なふんいきの中、ライブの終盤、クリーントーンの夢幻的なギターの和音をからませながら、ピューマくんはこんなことを語っている。

この薄暗い部屋でずっとキミらと愉しんできて、すごくいい感じさ
で、実は正直いまオレは、眠くなってきちゃってんだけど
でもね、まだあと何曲か、キミたちに届けたい唄があるんだ……

(M11 - “Sleepy Exchange / Cinderella On VHS”)

あっぱれである。いやね、ヒトさまの音楽をつかまえて、やたら〈眠い、眠たい〉と言い張るオレも、ちょっとはどうかと思うけれど──。
──だがしかし、ライブの最中に〈いまオレは眠い〉と言明しやがったミュージシャンが、このピューマくん以前に誰かいたんだろうか? 前代未聞かっ!?

Puma Blue: Only Trying 2 Tell U (demo) (2014) - Bandcamp
Puma Blue: Only Trying 2 Tell U (demo) (2014) - Bandcamp
↑むかしのニホン映画のスチール写真…?

かくて。プレイヤーのサイドも眠気をこらえながら演り、またオーディエンスらも眠みの甘さにトロけながら、まどろみ半分で愉しむ。それがピューマ式、21世紀の斬新なポップなのか。

と、そんな型破りのようなところを彼が魅せつけて、それからもう約1年。
次なるピューマの《第3期》は、どういう方向へ進むのだろう。さらに眠さをきわめていくのか、または「ブラッド・ロス」でチラ見せしたアップタイトさへ、ちょっと行くのか。その動向を楽しみにしているオレなのだった。

……とまでを述べて、この駄文は終わりにしていい。というか終わるべきなんだけれど、ただピューマ・ブルーについて書く動機になったできごとがあったので、蛇足ながら以下に記す。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

夢の中で自分は、大学の講義に出ようとしていた。たぶん2階の教室だった気がしたので、登る階段を探していた。
ところが。1階のフロア中を探って歩き、〈こっちか?〉という見当をつけて向かった先々には、なぜか降りる階段しか存在しなかった
しているうちに、時間が迫り、気分が焦ってくる。あとは省略するが、苦労のあげく登り階段は見つかり、目的の教室には行き着くんだけど。

──やがて目がさめてから、考えたんだ。なぜ登り階段を見つけようとして、逆のものばかりを見つけてしまったのか。

まず自分の先入観として、折れ曲がった階段というものは、登りに向かって反時計廻りにできている。右から入り、左へ曲がりながら登る、というフィーリング。
ところが夢にみた大学の教室棟は、それが逆だった。そもそも階段の置き方が複雑である上に、かつ〈右から左へ“降りる”〉という逆の仕組みだったので、自分の見当がハズレ続けていたんだ。

と、それに気がついたとき、そしてそれ以前からずっと、自室の音響システムは、ピューマくんの唄を流し続けていた。

Puma Blue: Swum Baby EP (2017) - Bandcamp
Puma Blue: Swum Baby EP (2017) - Bandcamp
↑よくは分からんがエロいようである

さて。オレらの愛するピューマ・ブルーがその代表みたいなものだが、1990年代に生まれたようなお若い方々の、演っている《ポストロック》──そこにジメジメと立ち込めた喪失感は、いったい何から来るのだろう?
いにしえのパンクよろしく〈社会が悪い!〉とか言い張ったとしても、しかし片付くことが何もない。またヘンな理想論みたいなものは、せいぜいカルトやディストピアらに帰結するばかり。──と、そのように視えちゃっている今21世紀の状況、その閉塞感からのものなのか。

階上に登ろうとしているのに、なぜか降りる階段ばかりを見つけてしまうオレら。そこで発想を、〈右から左〉ではない、と変換すれば、何か打開の道が見つかるのだろうか。

いや、ここでの《左右》の変換は、よく言われる政治的な意味じゃないつもりだったけど。だが、実はそうでもないのか?
ファシズムポピュリズムの熱狂が、“すべて”の解決かのように思えてしまう状況は確かに存在するらしく、ひいジィさんとかその上くらいの世代は、〈ハイデガー、イャー!! そしてニーチェ〜っ!〉か何かと叫びながら、彼ら自身の《生の燃焼》をエンジョイしたっぽい。ようは、だいたい死んだ、というだけだが。

そんな自分らが《生の燃焼》の果てに、ヘンな死に方をするだけならイイとしても。しかしどうせ関係ない人々の多くがその燃焼の巻き添えとなり、そしてものすごい大迷惑をこうむるハメになる。
それを知った上では、ムダに熱くもならず、ただこの閉塞のユーウツの中のジメジメ感を、暗くイヤらしく唄い続けること。そんなアチチュードにも、いちおう《無害》という利点はあるのだろうか? 〈これでいいのだ〉、と言えるのか?