ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

ファーガソン『憎悪の世紀』, 森恒二『創世のタイガ』 - オレは狼、私はポメラニアン(座敷犬)

ニーアル・ファーガソンによる大部の著作、そしておそらく一定の話題の書であった、『憎悪の世紀 - なぜ20世紀は世界的殺戮の場となったのか』(上下巻, 2007, 訳・仙名紀, 早川書房)。
そしてこの『憎悪の世紀』の原題は、“The War of the World - History's Age of Hatred”(2006)という英語。

とすればすぐにピンとくるんだが、あのH.G.ウェルズによる超歴史的ハイパーな名作SF宇宙戦争の原題が、“The War of the Worlds”(1898)。それを意識してのタイトルづけだとは、開巻そうそう著者からも明らかにされていること(上巻, p.33)。

そういえば、《SF》っていうのが近ごろ流行ってない、みたいな説を聞くけれど──まあ自分にしてもめったに読んでないが──。
にしてもウェルズによる、『タイム・マシーン』(1895)から『月世界最初の人間』(1901)までの名作群は、万人必読との大断言が可能。どんなお話なのかはだいたいご存じだろうけど、しかし抄訳や再話ものでなく、ぜひまっとうな訳書にて、ご一読ありたい。
なぜなら、《テクスト》としての太みが、ぜんぜん違うんだよね。それらに続いた、凡百凡千の《SF》らとは。そこを味わうべきか、と。

そして『憎悪の世紀』の著者ファーガソン氏にしても、そんなウェルズ初期SFの太みに、ひきつけられちゃったお人であるもよう。スコットランドグラスゴー生まれという彼は、第二次世界大戦をピークとする20世紀の人類の蛮行史を、(長々ァ〜と)つづり始める前に、まず『宇宙戦争』に描かれた火星人たちの暴虐を想起する。

すなわち。あのタコ型のアイツらは、巨大ロボ・怪光線・毒ガス等々の超破壊兵器らを駆使し、郊外から始めてロンドン市内へと侵攻。そしてその進んだあとに死んだ人間らの山を築き、また生き残った人間らの血を吸う。
これらをリアルに描くためウェルズは、その《現場》の現地らを、自転車を走らせてめんみつに取材して廻った──というエピソードも、よく知られていることだ。

ところが。そんな《空想物語》が書かれてからほんの20年も経たない間に、そんなメカニカルなマスプロ的大虐殺が、あからさまな現実に。
しかも宇宙人のしわざならまだしもだが、人間同士が、それをなした。その所業らをムリにでも正当化するため、被害者のサイドに〈エイリアン〉や〈人間以下〉の畜生、といったレッテルを貼りつけながら。

ああ……。というワケで、『宇宙戦争』のウェルズがあまりにもサエていたことは、あまりにも明らかすぎるとして。
だがそのいっぽう、本書と呼ばれる『憎悪の世紀』。この本は、いったい《何》を書いているものなのだろうか?

ってヘンなことを言ってるみたいだが、しかし本書の訳題の後半を思い出して欲しい。〈“なぜ”20世紀は世界的殺戮の場となったのか〉。
自分はこの、〈なぜ?〉というところの解明、もしくはそれへの試みがあるのかと思って、こんなブ厚くて重ったい……上下巻で約千ページものご本をさァ、とにかくも手にとったんだよね。

ところが。その〈なぜ?〉というところはあまり追求されておらず、ただもう胸クソ悪い蛮行らのエピソード、およびそれをムリに正当化していた独断・偏見・イデオロギーたちが、延々と叙述されているばかり、と思えるのはオレがおかしいんだろうか。
と、そんなことに気づいて、それから原題を見なおしてみると、そこに“why”に類する語ははないってワケだ。
……これにはヤラレたね!!

というわけで、本書は誰かの役には立つものかもだが、しかしオレの求めていたものではなかった。よって堂々と、超ナナメ読みにて処理したことを言う。

けれども、本書こと『憎悪の世紀』には、一種の《逆の主張》があるとも言えそう。
それは何かというと、これまでに言われてきた〈なぜ?〉への解答、それらのいずれもがそれぞれ薄弱ではないだろうか、という主張。

つまりマルクス主義寄りの研究者たちであれば、戦争らの起こる原因について──むしろ“すべて”について──、まず経済の構造的な矛盾や破綻、みたいなことを言う。そのいっぽう、それ以外の視点では、民族対立、宗教対立、さらには無神論者たちの陰謀、みたいなことが語られるのだろうか。
オレから見たらば、マ主義の主張がまだしもだけど。しかし『憎悪の世紀』の著者は、その“すべて”が、十分な解答にはなっていないとお考えのよう。

じゃあこのさい、しょうがないので、少し自分で考えてみようとすると……?

さいしょに言うけど、まず自分の思い込みとして、〈人間は本来、芸術を愛する平和的な生き物である〉、くらいに考えたい。性善説
なのに戦争など大小の争いが生じるのは、《窮乏》という現象が存在すること、そしてそれに乗じて過剰な組織化と扇動がなされること、それらゆえではないかな〜、とばかり。

──しかし。きっかけは確か『イリアス』やトゥキュディデス『歴史』らの古代文学を読んだことだった気がするんだが、ちょっと考えが変わったんだよね。
すなわち。もともと人間らは、略奪・殺戮・レイプという三大アミューズメントを、こよなく好んでいる生き物なのではないか、と。
で、そうしたお愉しみらのきわまり&集約であるのが戦争、なのではないかと。
そして通読はしてないが『憎悪の世紀』にもおそらく、〈“好き”じゃなきゃココまではデキねェわなァ〉、くらいなヒドい実例がいっぱい出ているのかと。

そういえば、森恒二『創世のタイガ』という劇画が、イブニング誌に連載中だけど。これは、原始時代へと《タイムスリップ》した青年たちの冒険ストーリーだと思うんだけど。
そしてそこで描かれる原始の人間たちも、略奪・殺戮・レイプという三大アミューズメントを、メチャに愉しんでいる。彼たちに平和共存の可能性がぜんぜんないようにも見えないが、しかしだ

いや。まあそんな時代を誰かが見たワケでもないし、それはひとつのありそうな《想定》だが。

だがいっぽう、それとは異なる見方も存在した。たとえばバッハオーフェン母権制論』(1861)という書物は、一時かなりの影響力を持っていたらしい。
そこに書かれていたのは、原始時代には女性たちをリーダーとする、平和のきわまった人間社会が存在した、という想定だったよう。しかしいま現在、その想定をガチで支持するものは、きわめて少ないっぽい。
さっき述べた自分の思い込みと同じで、〈そうであって欲しい〉という願望の表出だったのだろうか。関係ないけど関係ある、長編ジブリアニメもののけ姫(1997)あたりに、そんな母権的共同体への憧憬のエコーが、遠く響いている。

そうして『創世のタイガ』の物語は現在、主人公らの率いるホモ・サピエンスたち対ネアンデルタール人らの戦争・大血戦、というところへ進んでいる。ここまで来れば分かるけど、別にあったに違いないことを描いてるワケじゃなくて、これはこういうひとつのお話だ。
そしてその両陣営を見比べてみると、なぜかネアン側のほうが《コーカソイド》、いわゆる白人っぽいということが、やや奇妙にも思える。が、それにしたって森恒二先生の豪腕が、そういうところもいずれうまくまとめてくれそうと、大いに期待しているのです。

──で、話を戻すと。

〈もともと人間らは略奪・殺戮・レイプが大好き〉、だとしても。しかし、《平和》という状態が人類史のどこにも存在しなかった、とも言えない。これは、《文化》および《制度》みたいなものの効用である、と考えられる。
すべての人間らに《狼》の素養や素地があるとしても、その彼らを飼いならし調教し、ついにはポメラニアン(座敷犬)》くらいにおとなしくさせる──。ある種の《文化》および《制度》らは、そのことを一定のていどでなしてきたもよう。

だがしかし、そこにフロイトの言う《文化への不満》が生じてくる。そしておとなしげなポメちゃんたちが、狼へと先祖返りしうる。
手塚治虫『バンパイヤ』(1966)が描いているのも、ほぼそのことだし。これがどうやら、次のような仕組みであるみたい。

『快原理の彼岸』(一九二〇)や『自我とエス』(一九二三)でも述べられているように、死の欲動はもともと有機体の中で沈黙していて、エロース(生の欲動)と協働しないかぎり知覚されない。
だが、エロースが自らを宿す個体を守るために、死の欲動を外部に追い出すと、それは他者(他の個体)への攻撃性として露わになる。この攻撃性がさまざまな理由から抑えられると、今度はそれが反転して、自己自身に向かう。
このとき、抑えられた攻撃性は「自我」によって取り込まれるが、攻撃性を取り込んだ自我の部分は「超自我」として自我から独立し、自我に道徳的な要求を突きつけて容赦なく責め立てるだろう。
このように、死の欲動が(一)沈黙、(二)攻撃性、(三)超自我による自我の締めつけ、という三つの相をもつことは、『自我とエス』ではじめて説明された。

 

超自我は「両親(道徳意識)」という性質のもとに、自我にたいして手厳しい攻撃性を発揮し、自我は、他の人々に逆らってでも、その要求を満たそうとする。『自我とエス』でも提示されたこの図式の意味するところは大きい。それは、【道徳性と攻撃性が同じ根をもつ】ということにほかならない。

立木康介・編著『精神分析の名著 - フロイトから土居健郎まで』
2012, 中公新書 p.100-101およびp.108, 改行を追加)

と、引用文が長かったところで、いったんまとめると。オレらの知っている人間たちが、略奪・殺戮・レイプといった蛮行ら&そのきわまりである戦争を、なしがちである理由……。

そこに、マルクス系論者らの言うような《欲求》に根ざした部分、かつ経済の構造的な矛盾とかのあることは否定しない。かつ近代以降であれば、《総資本》がどうこう、あるいは《戦争機械》が、ってこともあるだろう。
だがそうとしても、それ以外のヘンな過剰性、非合理な衝動らの噴出──みたいなものが、何かありげ。
たとえば戦争・革命・暴動らの発生にさいし、略奪とかならまだ分かるが(!?)、さらに見た感じ効用性のない蛮行や破壊行為らが、しばしば実行される。
そういった憎悪の過剰さを、われわれはずっと見てきた。ついでに言うなら《ネットの祭り》が、そういうことらを戯画として反復する。

そして、そうしたヘンな過剰さの出どころは、まずフロイト死の欲動から来るあれこれであり。またバタイユであれば、あの《呪われた部分》──《蕩尽》という行為へ向かう衝動──とでも語るのだろうか。
そして生物学者であるコンラート・ローレンツがその著書『攻撃』(1963)にて、人間にもある《本能》、と呼んだものかも知れないけれど。

しかし社会性のあるりくつになっていること、かつモデリングの精密さで、フロイトの優越を自分は感じてるんだよね。その『集団心理学と自我の分析』(1921)の、実に早手廻しなファシズム分析をも、いつか再検討しようと考えながら。

そして、〈【道徳性と攻撃性が同じ根をもつ】ということ〉

《文化》は、人間らに対して蛮行へのハードルを、高く設定する。がしかし、そのハードルを低めてしまうのは、いっぽうで窮乏と剥奪(らへの不安)、あわせて対象である《アイツら》に対する道徳的なランク下げだ。
そんな《アイツら》というレッテル貼りが、異国人・異民族・異教徒らに適用されるのだが。またこの原理は、たとえば身近な職場や教室でのイジメにまで貫徹している。〈アイツらの側にも原因が大いにある〉ワケであり、かつアイツらを剥奪しないなら、自分らが剥奪されるにマチガイない。

そうなのでもはや、《道徳とは暴力の一種である》くらいに、まず考えるべきではないだろうか。

かつ、自分自身につごうがよくて気持ちのいいことに、《正義》というラベルを貼るのをやめるべきではないのか。

……などとは思うが。しかしまあ、〈ポメラニアン(座敷犬)のさえずりみたいな戯れ言かなァ〉、という気は自分でもしてるんだよね。
ともあれ、一定くらいの平和がない限り──そして窮乏からの多少の解放がない限り──、いつもみたいな、ああいう音楽をユルッと愉しんでもいられないので。実に難しいし、めんどうだが、しかしこういったことも少し……。