われらの巨匠・猿渡哲也先生といえば、正義と熱血とバイオレンス臓モツ血しぶき異常性愛らのあふれる世界らをめんめんと描き続ける猛者(モサ)。そして、その牙城を巣立ったケダモノが、ここにまた一匹……。
とまあ言い方は大げさだが、要は、猿渡プロ出身・奥嶋ひろまさの、マンガボックス連載中「アシスタントアサシン」(☆)が面白い、みんなぜひ読んでみて! と、言いたかった。
── 奥嶋ひろまさ「アシスタントアサシン」の作品概要 ──
主人公《朝倉真一》23歳、アダ名は《アサシン》、職業はまんが家のアシスタント。劇画界の大物である神馬笛(じんばぶえ)先生のもとで厳しい修行を積みながら、一本立ちのまんが家を目ざしている。
ところがその収入だけでは喰えないので、ひそやかにこなしている副業が殺し屋。依頼によって、社会のダニっぽい悪党どもを、ハンマー1本で殺しまくり。
で、実は、仕事としては、殺し屋のほうが、ずっと楽(!)。まんがの鬼である神馬笛先生のメガネにかなうまでのお手伝いは超ハード、まして一人前のまんが家への道の険しさたるやッ……!!
そしてまず、この巨匠であり暴君でもある神馬笛先生が、われらのリスペクトしてやまぬ《猿先生》、そのまんまなのではないか──という臆測で、うちら猿信者がわきたっているわけだ。
1. まんが と 殺し……言いわけ無用の世界たち
見ていると神馬笛先生は、確かに厳しい、とてつもなく厳しい。手は出さないがクチが恐ろしく悪い、きつい、ひどい、理不尽だ、とは思わされる。
だがしかし、ぜんぜんすじの通らないことは言っていないもよう。かつアシスタントらへの厳しさも、何10万人の読者をなっとくさせるだけのクオリティを追求するがゆえ。
そういうところをアサシンくんはちゃんと受けとめ、そんな先生に漢(おとこ)ぼれしている。そこは大いに共感できる。
とくに自分を感動させたのは、アサシンくんが不注意で、大先生の玉稿の重要個所をハデに汚してしまうお話(第15話)。先生はとうぜん大激怒、アサシンくんはふるえ上がって平謝り。そして彼は反省の表明として、その日の日当の返上を提案する。
──すると、われらの神馬笛先生は、どう応じたか?
それがもう、ものすごいので、ぜひ実作品で見ていただきたい。まさしくこれは、ほんものの《まんがの鬼》がそこにいる、としか言いようがない。
殴る蹴るのせっかんよりもシビアかもしれないし、またいっぽう、深い深い情愛を感じさせもする。そんな絶妙のハードルを、先生は、アサシンくんの前に据えつけたのだった。
といったことらをしている彼たちの仕事のその先には、何10万人のまんがファンらが、毎週のお愉しみを待っている。その彼らを満足させるには、どうすれば? できていないことの言いわけや埋め合わせは、何ひとつありえない──“やる”しかない。
そういう世界で10数年間もトップの座を守ってきた人は、こういう考え方になるのか……と、そのへんで強力な説得力を感じさせられたのだった。そして、これが猿先生そのものなのだろうか? さすが!……なんて。
ところで。自分がさらにゆかいだと思うのは、この第15話のエピソードには、前ふりがある。
副業の殺し屋でアサシンくんは、どうしようもないド外道のクソ野郎を追い詰める。すると急にこの鬼畜カスが、哀れっぽく泣きながら命乞い。そして、いままでの悪業を悔い改める、道に外れた人生をやり直したい、などときれいなことを言い出しやがる。
しかし、アサシンくんは非情。<人生は 前にしか 進まない やり直しなんて ある訳ないだろ>と言い渡し、さっくりと相手の息の根を止めてしまう。
……と、そんなことがあってから、さして間もなく、アサシンくんは前記の大失敗。そこで哀れっぽく泣きながら大先生にお許しを乞い、悔い改めを誓い、そして<ある訳ない>はずのやり直しを死ぬ気でがんばる、というハメになるのだった。
という、どうしようもないアイロニー! 殺し屋としてはかなり天才的らしいアサシンくんだが、しかしまんがの道においてはどうか、適性があるのだろうか?
そしてアサシンくんは、自分のまんがにおいては、「ウンチ君」やら何やらのギャグ方面で、肩のこらない娯楽を世に供給したいらしい。それは、分からぬではない。
オモテの職場で鬼気あふれる《まんがの鬼》に接し、ウラの稼業ではド外道の鬼畜どもを血まつりに上げ、さらに自分の創作にまで血がドバドバ出るようなお話を描こうという、そんな気持ちにならない──ということは、よく分かる。がしかし、そうだとしたって「ウンチ君」はさすがにどうよ、とは作中の人らも言っているわけだが。
2. 露悪が娯楽で、堕落の蠱惑 - ボクらの奉ずる《平伸イズム》!
そして。述べたような作中のアイロニーが、実はこのまんが作品の外側にまで達しているところがある。そこにまた自分は、面白みを強く感じている。
すなわち、殺し屋としてのアサシンくんは、通り名《赤羊》を名のり、われわれ弱者らの代表として、強さにおごる狼どもを逆に狩る──ということを、ちょっと気どっている。この部分だけを見ると、このお話は、《平伸イズム》そのものだ。
《平伸イズム》と言えばお分かりだと思うが、平松伸二+武論尊「ドーベルマン刑事」(1975)に始まって、平松「ブラック・エンジェルズ」(1981)、原哲男+武論尊「北斗の拳」(1983)、北条司「シティハンター」(1985)……うんぬんと伝わってきた、ジャンプ系伝統の、正義の名を借りて残虐エログロバイオレンスをエンジョイしまくりという、あのお作風のこと。
で、近ごろだと、その枝葉的なところに咲いた悪の華が、栗原正尚「怨み屋本舗」(2000)シリーズとなるのだろうか。作りが多少はソフィスティケートされつつも、しかし《露悪が娯楽》というふんいきは、そのまま残しており。
そうしてわれらが猿渡哲也先生も、何せモロ平伸の門下出身だけに、まさしくこの《平伸イズム》の圏内のお人。さらにその門下生であった、今作「アシスタントアサシン」の作者・奥嶋ひろまさも、また同じく──だとすれば、予定調和というのか、ただ単にそれだけの話だ。
ところが! このまんが「アシスタントアサシン」は、少なくとも一部分で《平伸イズム》を否定している。《平伸イズム》の実践(悪党どもブチ殺し)は実に容易かつ安易な稼業であり、そのいっぽう《平伸イズム》等々のまんが作品を描いて生きていくことがよっぽど至難のわざ、という奇妙なことを主張。
だとしたら、《平伸イズム》とは何?
山口貴由「覚悟のススメ」(1994)──これまた少なからず平伸風のスメルを発しているまんがだけど──、それが宣言していたように、積極的な《いいこと》をするのがいい人間だと考えるべきで、悪党どもをブチ殺すなんてのは、しょせん消極的な《いいこと》。そうとしか考ええず、いや、そうだとしても、苦心しながら世の需要に応じ人々を愉しませている平伸系まんが家の先生方、そのご自身らは、まあいいほうだとも考えられよう。
とすれば、バカみたいなのは、平伸くせーまんがを読むだけで《正義》の側に身を置いたような気分に酔いしれ、そしてハナクソほじりながら残虐エログロバイオレンスをエンジョイしている、そうした“うちら”なのだろうか?
何かそういうイタい真実を、ひそやかもしくは大っぴらに告げようと、しちゃっているのではと……。この作品について自分は、愉しみでもあり、かつ心配にもなってくるのだった。
3. 悪と、正義は── まんがの中では完結しない
で、ここまでの話をまとめれば。今作こと奥嶋ひろまさ「アシスタントアサシン」およびそのヒーローは、《平伸イズム》くさいサイドと《まんが道》みたいなサイド、その両戦線で闘う姿勢を見せている、と言えそう。
だとして彼らは、その両サイドで勝とうとしているのか、または片いっぽうの勝利でよしとするのか? かつ、後者だとすれば、いずれの側にて?
そしてこんな、意欲的でもありかつめんどうな筋立てのまんが作品を、いままでに読んだことあるような気がしない。二正面作戦の危険性は、通常戦闘の倍の倍、ということになりかねないのでは……。いや、もちろん、この一大チャレンジを応援しているけれども!
かつまた、平伸くせーまんが作品らの、ハナクソ読者の一匹として思うこと。まんがの中での善と悪というお話が、まんがの中だけできれいに解決してしまっても、まったく何もならない。いや、ハナクソ読者がつかの間悦ぶ大衆エンタメでしかないならば、それでもう十分ではありつつも。
そういうところで自分は猿先生、いや猿渡哲也というまんが家を、多少信用している。つまりまんがの中で悪党らをブチ殺しまくっても現実は変わらない、そしてまんがといえども現実に接続しているところがなければならない──といったことらを、理解しているかのようにお見受けして。
だからといって、常にアレがアレだとも言えないけど……。しかしともあれアサシンくんが神馬笛先生に(ヒキながら)心酔している気持ちはよく分かるし、自分もまた、という感じで、猿先生関連のあれこれを拝見しているのだった。