エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

奥嶋ひろまさ「アシスタントアサシン」 - スゴ腕殺し屋、ヘッポコまんが家志望……《平伸イズム》はフォーエバーなのか

われらの巨匠・猿渡哲也先生といえば、正義と熱血とバイオレンス臓モツ血しぶき異常性愛らのあふれる世界らをめんめんと描き続ける猛者(モサ)。そして、その牙城を巣立ったケダモノが、ここにまた一匹……。

とまあ言い方は大げさだが、要は、猿渡プロ出身・奥嶋ひろまさの、マンガボックス連載中「アシスタントアサシン」)が面白い、みんなぜひ読んでみて! と、言いたかった。

── 奥嶋ひろまさ「アシスタントアサシン」の作品概要 ──
主人公《朝倉真一》23歳、アダ名は《アサシン》、職業はまんが家のアシスタント。劇画界の大物である神馬笛(じんばぶえ)先生のもとで厳しい修行を積みながら、一本立ちのまんが家を目ざしている。
ところがその収入だけでは喰えないので、ひそやかにこなしている副業が殺し屋。依頼によって、社会のダニっぽい悪党どもを、ハンマー1本で殺しまくり。
で、実は、仕事としては、殺し屋のほうが、ずっと楽(!)。まんがの鬼である神馬笛先生のメガネにかなうまでのお手伝いは超ハード、まして一人前のまんが家への道の険しさたるやッ……!!

そしてまず、この巨匠であり暴君でもある神馬笛先生が、われらのリスペクトしてやまぬ《猿先生》、そのまんまなのではないか──という臆測で、うちら猿信者がわきたっているわけだ。

1. まんが と 殺し……言いわけ無用の世界たち

見ていると神馬笛先生は、確かに厳しい、とてつもなく厳しい。手は出さないがクチが恐ろしく悪い、きつい、ひどい、理不尽だ、とは思わされる。
だがしかし、ぜんぜんすじの通らないことは言っていないもよう。かつアシスタントらへの厳しさも、何10万人の読者をなっとくさせるだけのクオリティを追求するがゆえ。
そういうところをアサシンくんはちゃんと受けとめ、そんな先生に漢(おとこ)ぼれしている。そこは大いに共感できる。

とくに自分を感動させたのは、アサシンくんが不注意で、大先生の玉稿の重要個所をハデに汚してしまうお話(第15話)。先生はとうぜん大激怒、アサシンくんはふるえ上がって平謝り。そして彼は反省の表明として、その日の日当の返上を提案する。

──すると、われらの神馬笛先生は、どう応じたか?

それがもう、ものすごいので、ぜひ実作品で見ていただきたい。まさしくこれは、ほんものの《まんがの鬼》がそこにいる、としか言いようがない。
殴る蹴るのせっかんよりもシビアかもしれないし、またいっぽう、深い深い情愛を感じさせもする。そんな絶妙のハードルを、先生は、アサシンくんの前に据えつけたのだった。

といったことらをしている彼たちの仕事のその先には、何10万人のまんがファンらが、毎週のお愉しみを待っている。その彼らを満足させるには、どうすれば? できていないことの言いわけや埋め合わせは、何ひとつありえない──“やる”しかない
そういう世界で10数年間もトップの座を守ってきた人は、こういう考え方になるのか……と、そのへんで強力な説得力を感じさせられたのだった。そして、これが猿先生そのものなのだろうか? さすが!……なんて。

薔薇の香りとやすらぎを、ここで貴方に…

ところで。自分がさらにゆかいだと思うのは、この第15話のエピソードには、前ふりがある。

副業の殺し屋でアサシンくんは、どうしようもないド外道のクソ野郎を追い詰める。すると急にこの鬼畜カスが、哀れっぽく泣きながら命乞い。そして、いままでの悪業を悔い改める、道に外れた人生をやり直したい、などときれいなことを言い出しやがる。
しかし、アサシンくんは非情。<人生は 前にしか 進まない やり直しなんて ある訳ないだろ>と言い渡し、さっくりと相手の息の根を止めてしまう。

……と、そんなことがあってから、さして間もなく、アサシンくんは前記の大失敗。そこで哀れっぽく泣きながら大先生にお許しを乞い、悔い改めを誓い、そして<ある訳ない>はずのやり直しを死ぬ気でがんばる、というハメになるのだった。

という、どうしようもないアイロニー! 殺し屋としてはかなり天才的らしいアサシンくんだが、しかしまんがの道においてはどうか、適性があるのだろうか?

そしてアサシンくんは、自分のまんがにおいては、「ウンチ君」やら何やらのギャグ方面で、肩のこらない娯楽を世に供給したいらしい。それは、分からぬではない。
オモテの職場で鬼気あふれる《まんがの鬼》に接し、ウラの稼業ではド外道の鬼畜どもを血まつりに上げ、さらに自分の創作にまで血がドバドバ出るようなお話を描こうという、そんな気持ちにならない──ということは、よく分かる。がしかし、そうだとしたって「ウンチ君」はさすがにどうよ、とは作中の人らも言っているわけだが。

2. 露悪が娯楽で、堕落の蠱惑 - ボクらの奉ずる《平伸イズム》!

そして。述べたような作中のアイロニーが、実はこのまんが作品の外側にまで達しているところがある。そこにまた自分は、面白みを強く感じている。

すなわち、殺し屋としてのアサシンくんは、通り名《赤羊》を名のり、われわれ弱者らの代表として、強さにおごる狼どもを逆に狩る──ということを、ちょっと気どっている。この部分だけを見ると、このお話は、《平伸イズム》そのものだ。

《平伸イズム》と言えばお分かりだと思うが、平松伸二武論尊ドーベルマン刑事(1975)に始まって、平松「ブラック・エンジェルズ」(1981)、原哲男武論尊北斗の拳」(1983)、北条司シティハンター」(1985)……うんぬんと伝わってきた、ジャンプ系伝統の、正義の名を借りて残虐エログロバイオレンスをエンジョイしまくりという、あのお作風のこと。
で、近ごろだと、その枝葉的なところに咲いた悪の華が、栗原正尚怨み屋本舗(2000)シリーズとなるのだろうか。作りが多少はソフィスティケートされつつも、しかし《露悪が娯楽》というふんいきは、そのまま残しており。

そうしてわれらが猿渡哲也先生も、何せモロ平伸の門下出身だけに、まさしくこの《平伸イズム》の圏内のお人。さらにその門下生であった、今作「アシスタントアサシン」の作者・奥嶋ひろまさも、また同じく──だとすれば、予定調和というのか、ただ単にそれだけの話だ。

ところが! このまんが「アシスタントアサシン」は、少なくとも一部分で《平伸イズム》を否定している。《平伸イズム》の実践(悪党どもブチ殺し)は実に容易かつ安易な稼業であり、そのいっぽう《平伸イズム》等々のまんが作品を描いて生きていくことがよっぽど至難のわざ、という奇妙なことを主張。

だとしたら、《平伸イズム》とは何?

山口貴由覚悟のススメ(1994)──これまた少なからず平伸風のスメルを発しているまんがだけど──、それが宣言していたように、積極的な《いいこと》をするのがいい人間だと考えるべきで、悪党どもをブチ殺すなんてのは、しょせん消極的な《いいこと》。そうとしか考ええず、いや、そうだとしても、苦心しながら世の需要に応じ人々を愉しませている平伸系まんが家の先生方、そのご自身らは、まあいいほうだとも考えられよう。

とすれば、バカみたいなのは、平伸くせーまんがを読むだけで《正義》の側に身を置いたような気分に酔いしれ、そしてハナクソほじりながら残虐エログロバイオレンスをエンジョイしている、そうした“うちら”なのだろうか?
何かそういうイタい真実を、ひそやかもしくは大っぴらに告げようと、しちゃっているのではと……。この作品について自分は、愉しみでもあり、かつ心配にもなってくるのだった。

3. 悪と、正義は── まんがの中では完結しない

で、ここまでの話をまとめれば。今作こと奥嶋ひろまさ「アシスタントアサシン」およびそのヒーローは、《平伸イズム》くさいサイドとまんが道みたいなサイド、その両戦線で闘う姿勢を見せている、と言えそう。
だとして彼らは、その両サイドで勝とうとしているのか、または片いっぽうの勝利でよしとするのか? かつ、後者だとすれば、いずれの側にて?

そしてこんな、意欲的でもありかつめんどうな筋立てのまんが作品を、いままでに読んだことあるような気がしない。二正面作戦の危険性は、通常戦闘の倍の倍、ということになりかねないのでは……。いや、もちろん、この一大チャレンジを応援しているけれども!

かつまた、平伸くせーまんが作品らの、ハナクソ読者の一匹として思うこと。まんがの中での善と悪というお話が、まんがの中だけできれいに解決してしまっても、まったく何もならない。いや、ハナクソ読者がつかの間悦ぶ大衆エンタメでしかないならば、それでもう十分ではありつつも。
そういうところで自分は猿先生、いや猿渡哲也というまんが家を、多少信用している。つまりまんがの中で悪党らをブチ殺しまくっても現実は変わらない、そしてまんがといえども現実に接続しているところがなければならない──といったことらを、理解しているかのようにお見受けして。

だからといって、常にアレがアレだとも言えないけど……。しかしともあれアサシンくんが神馬笛先生に(ヒキながら)心酔している気持ちはよく分かるし、自分もまた、という感じで、猿先生関連のあれこれを拝見しているのだった。

アポロ - くん~: Shoujo Doujinshi 今ではマイ・コンピュータがかわいい女の子である! (2018) - はい。

ヴェ・ヴェ・ヴェ! さあ、Vaporwaveのお話を、一席ぶちますですよ?

さて今回は、すでにちょっとおなじみくさい《DMT Tapes》の2018年暮れのリリースから、イケメンくんのカバーアートが印象的なアルバムをピックアップ、「アポロ - くん~: Shoujo Doujinshi 今ではマイ・コンピュータがかわいい女の子である!」。さいしょにいきなり評価を述べてしまうと、ちょっと哀愁ムードのただようMallsoft(スーパーのBGM風ヴェイパーウェイヴ)もしくはアンビエントもどきの秀作でご一聴をオススメ!

さて、マイ・コンピュータがかわいい女の子である──というこの主張、それを分かりすぎるほどに分かってしまっていいものなのだろうか? ヴェイパーなんだからとうぜんなんだけど、言っていることが何とも1990年代的だ。

ここでつまらないことを想い出すと、大島弓子「四月怪談」の映画版(1988, 小中和哉)で、不可視のユーレイ(実は生霊)になってしまったヒロインが、生前にちょっと気になっていた同級生の私生活を覗きに行く。するとその秀才タイプの少年は、シャープ製ホビーパソコンの名器X68000に向かってポチポチと、一心不乱に、アニメ系美少女のドット絵を描いていやがる。
マニアの人には《ペケロッパ》などとも呼ばれたX68kの発売が1987年だというので、けっこうタイムリーなアピアランスだったのだろうか。さすがに近ごろ話題にならないけど、しかし「ニンジャスレイヤー」シリーズにおいては、《ペケロッパ・カルト》として現役活躍中なのが奥ゆかしい。

いやペケロッパであろうとPC-8801であろうと、現実の女の子から想いを寄せられているかも知れないのに、美少女CGのお絵かきに没頭しているこの少年、ということが問題。電脳世界の0/1連鎖のかなたに、ユートピアを求めすぎなのでは? 
が、いまはもうインターネットとやらが一般に普及しすぎて、この世界もすっかりなまぐさくなり。そこでIRCとかSNSとかの向こう側に、ナマ身の(かわいい)女の子らがいないこともないかも──という幻想が、「マイ・コンピュータがかわいい女の子である」という幻想に、とって代わりつつあるのだろうか。

まあそんな余談はともかく、この全10曲のアルバムの、冒頭と終盤の曲名らを並べると、「オタク」-「彼女は登場した」-「どうしたの-」-(中略)-「最高の夜」-「締め切り」-「彼女は行ってしまった」。
するとおそらく。オタクである男性の前にコンピュータの中からかわいい女の子が現れ、中略されたエピソードらを経て、ついに結ばれるが、しかしそこらがタイミリミットで、彼女はどこかへ去ってしまう──といったストーリー性が、そこに盛り込まれているのか、とも思われてくる。

にしたって、カバーアートの美少年が、そのオタクくんなのだろうか、似合わない役どころだ……。つまり少々、「四月怪談」映画版の鈍感ペケロッパ少年みたいな子なのか。
それとタイトル中の、「Shoujo Doujinshi」というところもちょっとヘンで、《少女同人誌》といったらボーイズラヴかなあ、という気にさせられる。《“美”少女同人誌》でなければ……ってまあ、そんなことはいいか。

そういうストーリー性があったところでなかったところで、音楽自体は全体的にきわめてスムース。90年代末期の泣きゲー》(泣かせを主眼とするアダルトゲーム)の湿っぽいテーマ曲みたいなサウンドで始まるが、曲らが先に進むほど、スロウ&スムースすぎて眠たいでしかないような響きになってくる、そこが実にすばらしい。
そしてさいごは冒頭曲のバリエーションで終わるので、やはり述べたようなトータル性が、なまいきに意識されている気配。孤独で始まり、つかの間の悦びを経て、再び孤独で終わる、と……! ああ。

さて、これの制作者の《アポロ - くん~》の正体は、マドリッド在住の《DJ Apolo Trevent》)。その変名らの主なものが、SEPHORA脳バイブス、SEGA VR、KONAMIBOYZ……等々々とあり、それら掘り下げていくと何かいい音が出てきそうなので、自分はワクワクしている。

Floridamphetamine: ͝↠↠ICE̻ BEAM (2015) - ポケモンマスターに、オレはなる! ならないと限った話でもなくはなくない!

ヴェ〜イィ〜! さて、Vaporwaveの話なんだけど。
近ごろになって思うのだが、自分はこれまでヴェイパーウェイヴってものを、意外と甘く軽く見てたのかも知れないなって。いや、思ってた以上にこれはすごいのかな、という気がしてきているのだった。

……むかしむかしの1987年、PhutureことDJピエールが偶発的に発見した(とされる)アシッドマシーンTB-303のプクプクプー、ビュキビュキビュイーという響き。その白痴的な反復がもうひじょうにバカ丸出しではありながら、しかしそれ以降のPOPの“すべて”を変えてしまった。
そしてわれらがヴェイパーウェイヴの《遅くする》、それもだいたい他人さまらの創造なされた貴重な楽曲らを無惨に遅くして私物化する、というバカのひとつ憶えの蛮行らの常習的反復もまた、ことによったらアシッドハウスに匹敵するインパクトが今後にないとも限らない。と、いう気がしてきているのだった。

むしのいいことをここで空想すると、アシッドハウスの横行蔓延がベルリンの壁を崩壊させた(とも言われる)のと同様、ヴェイパーの大流行は、トランプ政権がアメリカ-メキシコの間に築こうとしている壁あたりをどうにかするかも知れない。ただし現状そこまではヴェイパーが流行ってないし、そもそも外国の話なので、われわれがどうにかする必要がある。

かつまた、アシッドハウスと並べることでお察しのように、手法としてのこれらは発見的だが模倣するなら容易すぎるしろものとも言え、とほうもない量の駄作・凡作・追随作らを生み出す温床となりうる。というかすでにそうなっていると思うけれど、しかしそこらは当面の問題ではない。
まず、何でもいいのでヴェイパーウェイヴを大流行させ、社会現象にしてしまうことが急務。質の追求は、必要だとしても、その次。

で、ご紹介しようとしている、「Floridamphetamine: ͝↠↠ICE̻ BEAM」(2015)というミニアルバム。これは何だか分からないけれど、作者だというフロリダンフェタミンは、ご存じヴェイパー界の一個の雄であるDMT Tapesのオーナー《Vito James Genovese》の偽名であるらしいが……。
というかヴィート・J・ジェノヴィーズの偽名変名の数があまりにも多すぎる風で()、すると……あれッ? DMTテープスの膨大なリリース群の、へたしたら半分とかそれ以上を彼ひとりが作っているの? という疑問にもいたりそうだが、しかしそうだったらどうだというのだろうか?

ともあれ自分の注意をひいたのは、アルバムの3曲め「I'm Gonna Be a Pokémon Master」というトラックで、いやもう、こんなのでどうやってポケモンマスターになろうと? ひたすらにスローで遅くてドローンであるような6分半ほどの曲だけど、しかしその再生速度を上げていくと、素材にされた原曲の姿が何となく見えてくる。
たまに間歇的に聞こえるズシュワァー、という音が、実は2拍4拍のバックビートのスネア。それを頼りに推測すると、だいたい原曲の速度が25%くらいに落とされているのかな、と思えるのだけど。

25%くらいか……ってまあ、よくぞそこまで落としたものだ。これはまさしく顕微鏡世界へのダイブであるに他ならない、と、ちょっと自分を感服させないことはない。このひたすらにスローで遅くてドローンな響きに、魅かれるところは大いにある。
そしてこの死ぬほど遅くされてしまった原曲が、ひょっとしたらポケモン関係のサウンドであるのかも、という気配は感じるが、でもそれは自分には分からない。その関係の解明は、ポケモンマスターになろうとしている方々に超おまかせ!

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

ただ、このひとつの快挙を達成したフロリダンフェタミンが、天才アーティスト……だなどと言う気もなくて、この名義による他のアルバムもたいがい聞いてみたが、するとロック風のうるさいやつとか、漫談めいた語りの長々しい引用とか、いまいちわけの分からないのが多し。相対的には聞きやすいのが最新作「Outdated Contemporary Reference」(2018)だが、それにしても、ご紹介した「ICE BEAM」ほどに冴えているところはないようだ。
これは、まあ。DJピエールなんてハウスクリエイターとしては最優秀なほうだけど、しかし“すべて”の彼のリリースが銘盤であるとも言えない、ということに対応した現象なのだろうか? わりとヴェイパーウェイヴにしてもそうしたものらしいので、われわれは気楽にてきとうに根気よく愉しんでいくことを、いまここに誓わなければならない。

猿渡哲也「TOUGH -タフ-」シリーズ - 《鬼龍》おじさんのフロイト研究、あるいは……

1993年から現在まで続いているロングラン格闘まんが、猿渡哲也「TOUGH -タフ-」シリーズ。それは読者たちにもタフさを要求してくる、少なくとも精神におけるそれを。

……のようなことを、皮肉っぽい意味で言いたがっている人が、あまり少なくもないもよう。けれど自分には、いまそういう意図がない。
そうではなく。以下の駄文の一部が作品内容のネタバレになっているかも知れないけれど、でもまあ謎ときが主眼の物語でもない風だし、ぜひそこいらはタフな精神でお見過ごしをプリーズ、くらいのかってな意味で、ちょっと。

そして精神がタフである皆さんに対しては説くまでもなさそうだが、猿渡哲也「TOUGH」シリーズは、秘伝の殺人武術の継承者であるヒーロー《宮沢熹一》、通称・キー坊を巡る物語。人格高潔な父《静虎》によって導かれながら、より強くなるために、または売られたケンカ等々で、そのキー坊が血まみれの限りなきバトルロードを渡っていく。もう少し詳しい説明は、オフィシャルの紹介ページあたりにて()。

1. 非人称の抽象的な語りが、横から何かをつべこべと

さてこの「TOUGH」シリーズの内容から、むかし何やらメモしたものが出てきたので、まずそれを引用。

シェイクスピアリア王から 梶原一騎巨人の星まで
親子の確執と 対立を描いた名作は 数々あるが
結末はいつも 悲劇で終わる!!
そりゃあそうだろ!!
血肉を分かつ親子が 本気で対決して
ハッピーエンドで 終わるわけがない!!>

────猿渡哲也「TOUGH」第18巻(2007, ヤングジャンプ・コミックス)

これは、どういう場面で出てきた語りかというと。……何らかの格闘技大会でキー坊と静虎が親子で死合(しあ)うハメになり、その対決を煽っている場内アナウンス、だったような気がする。
そしてこの語りの中の、「巨人の星」は、もちろん分かる。だがしかし、「リア王」における<親子の確執>とは……?

ストレートに考えたら、リア王と娘たちとの仲が悪い、ということ? いやでも、それだと、勝負という行為に関連して持ち出す例として、あまり適切な感じがしない。確執はじっさいに生じているけれど、だがそれぞれの肉体をさらして<本気で対決>しているわけではないので。

あるいは、そうではなく。「リア王」のわき筋で、グロスター伯の庶子エドマンドが、王家のドサクサに便乗して父を失脚させその地位を奪う、そのところを言っているのだろうか?
しかしこの父と子にしても、<本気で対決>という展開にはなっていない。エドマンドと本気で対決しているようなのは、彼の兄でありグロスター家の嫡子であるエドガーだ。むしろ兄弟ゲンカのお話になっている、と見てよさそう。

……そういえば、このエピソードについてネットで調べたら、<アメリカ人が「巨人の星」を知っているのか?>という疑問を呈している人がいた。どういうことかというと、問題の格闘大会はアメリカで催行されているものなので、おかしいのでは、と。
しかしわれらが《猿先生》の描いているアメリカって、いい意味で《まんが》っぽく描かれたアメリカでしかない、としか思えない。よって、そこにまんがの話題がちょっと強引に出てきても、自分としてはまったく違和感を覚えなかった。
かつこの場面では、アメリカ人であるアナウンサーがその顔をさらしつつ、しゃべっているわけではなかったはず。確か何となくその場にかぶってくる非人称の言述であり、まあ現実的には場内のアナウンスなのかとも思われるが、しかし抽象性の高さは否めない。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

つまりは、まんがワールド内部の現象なのだった。今作「TOUGH」としばしば並び称される板垣恵介刃牙シリーズ(1991-)、あちらでも格闘大会のたびに闘技者らを紹介する名調子が画面上に浮かんでくるが、しかしあれにしろ、いったいどういうアナウンサー(?)が語っているのか? それはほとんど不明だし、かつそんなことは誰も気にしていない、まあそんなものだろう。

しかもキー坊と静虎の親子対決は、とりわけ悲劇には発展していなかったはず。勝ったのがキー坊であることは確かで、そこで静虎が「よく成長した、もはや私を超えた」とか言うんじゃなかったか?
そもそも静虎はキー坊の実の父ではなく、またあるいは童貞かも知れないというほどの聖人君子でもあり(!)、通常の《父》とはいろいろ異なっている気配。だいたいの話、<血肉を分かつ>親子の対決という前提条件が満たされていない、そこらが悲劇回避の原因なのだろうか。

2. “最凶”鬼龍おじさん、フロイト全集の読破不成功の巻

で、次に、また別のメモから、「TOUGH」についてちょっとしたお話をご紹介。まず、どういう流れからのエピソードかというと……。

静虎の双子の兄であり、キー坊の伯父にあたる《宮沢鬼龍》、彼がまた殺人武術のすさまじき達人で、かつ弟と異なり、人定の法には縛られざる自由人アナーキスト)。もしくは<悪魔>、<最凶>、などと呼ばれることも。だがしかし、ライオンとケンカしたか何かの大ケガで、入院と安静を余儀なくされる。
そしてその間のヒマつぶしに鬼龍は読書をはげみ、ゆえに甥っ子のキー坊が、書店へのおつかいにやらされる。そこにおいて、店員がいわく。

<宮沢さん ご注文頂いてた
フロイトの全集が 届いたのですが
(……)
それでは7万2500円のお会計となります>
────猿渡哲也「TOUGH」第33巻(2011, ヤングジャンプ・コミックス)

……見てみるとこの場面、カウンター上に積み上げられた本らの判型などがバラバラで、絵的に《全集》らしさがない。ちなみに岩波書店の「フロイト全集」全22巻は、2006年から2012年にかけて刊行されたものらしく、それだと時代が少々合ってない?
また、いまどきフロイト全集なんて大物を買うとすれば、おそらく代価が7万円くらいではすまない。たぶんその倍ほどになるのでは……などと、そんなことらは考えた。

しかし自分はそこらがおかしいと、言いつのるつもりはない。だって岩波版ではなく、いまから百年近く前に出た春陽堂やアルス社の「フロイト全集」()かも知れないし(!?)。
いやそもそも、日本語訳のフロイト全集だとさえ、別に言われていない。われらの鬼龍おじさんはIQが200とかいう知性派の野獣なので、英訳版はとうぜん、あるいはドイツ語の原書でも読みこなすかも知れない。それにしたって、7万円は安すぎるようだけど。

で、そこらはともかく。このフロイト全集であるという書物らは、けっきょくどうなるのかというと?

書店へのおつかいの帰りにキー坊は、宮沢一族と対立する格闘家たちによって襲撃され、拉致されてしまう。そのはずみにたいせつな書物らは路上に散乱し、それっきり。せっかくのフロイト全集・約7万円は、読者であるべき鬼龍には届いていない、実に残念なことに。
そんなわけでキー坊が戻ってこないので、病院にこもっている宮沢一族が心配を始める。そしてその場面での鬼龍おじさん、彼がベッドの上で開いている本の表紙には、確か英語でオイディプス王という文字列が。

つまり自分は、<怪物を超えた怪物>とまで言われるほどの怪物的な人物である鬼龍が、なぜなのか《オイディプス》っぽいことをヘンに気にしていたらしい、そのことがヘンに気になっている。
そしてそのことをふまえると、「巨人の星」やら何やらの<親子の確執と 対立を描いた名作>らが、ある個所で呼び出されることも、少しは深い意味ありげに見えてくるのだ。

さて、その鬼龍という人の父親は《宮沢金時》。孫であるキー坊から見ると、高齢のくせに途方もないドスケベがおさまらない、困った《爺ちゃん》。だがこの人もまた、殺人武術のたいへんな使い手であるのは確か。かつまた、聖人君子のような静虎から見て誇りうる父であるからには、どちらかというと(あんなでも)正義側の人。
その金時と、無法者っぽい鬼龍、という父子の間には、かなりあれこれと確執があったはず。そうしてわだかまってしまったところを見直そうとしての、鬼龍によるフロイト研究だったのだろうか?

さもなくば鬼龍は、彼とその子どもたちとの関係を、見直そうとしていたのだろうか。結婚歴などはないらしい鬼龍だが、しかし世界各地に彼のタネを残しており、その子どもらの多くがまた天才的なファイターたち。かつ、もしも自分が逝くときは、息子(ら)の手にかかるのが妥当、などとヘンなことを考えていたようなふしもある。

ただし現行のシリーズ作「TOUGH 龍を継ぐ男」(2016-)において、鬼龍はすでに死んだ、と語られている。そして彼を手にかけたのは、彼の息子かとも思われたが実はそうじゃないらしい人物、とされている。
……確定的なことが、何も言えない!! 実は意外と鬼龍が生存しているかも知れないし、また実は意外とキー坊が彼の息子でないとも限らない。これはそういう作品なので、もうしょうがないとしか言いようがない。

3. 血肉を分かった血みどろの血族バトルがやむとき?

ところで《オイディプス》っぽいお話というのなら、さきに言及された「刃牙」シリーズのほうが、より本格的にそれっぽかった。母に愛されたいという気持ちのみで格闘技に精進し没頭してきたヒーロー刃牙くん、ところがその母を惨殺した父、勇次郎。この父が許せない、としてお話が進んでいたけれど……。
ところがその確執のファイナルとなるべきだった<史上最強の親子喧嘩>に、どういうオチがついたかは、おそらく皆さまもご存じであろうかと。それが自分的にちょっと意味不明だったので、いまや「刃牙」シリーズ自体が意味不明なお話になっちゃっている。

それに対して、「TOUGH」はどうするのか、どこまで行くのだろうか?

現行のシリーズ作「TOUGH 龍を継ぐ男」を見ていて自分が思うのは、前シリーズ「TOUGH」の末期から──つまり、鬼龍がフロイト研究を始めてしまったあたりから──そのお話が、《宮沢一族の内部の物語》というほうに傾きがちだな、と。

すなわち、現時点で描かれているエピソード(タンカーの甲板上の死闘)にて、延々とバトルを繰り広げているのは、鬼龍の息子たち数人、鬼龍の甥であるキー坊、そして鬼龍の兄と弟、という人々。そしてこの血みどろバトル開催の、宮沢一族の内部における理由は、鬼龍の娘の心臓疾患を治すため、とも言える。
これではまるで、オイディプスくんを含む《テーバイ王家》の大河的かつ凄惨な一族確執の物語、みたいなのでは? おそらくは心臓を病んでいる娘が、アンティゴネー》的な役廻りなのだろうか。そして、もしもこのアンティゴネーを死なせずに救うことができたなら、テーバイ王家の悲劇と滅亡を、彼らは反復しないですむのだろうか?

だがしかし、アメリカと中国という二大超大国のエージェントらが、その争いに介入し、彼ら一族に発する無敵の戦闘力を手に入れようとしている。とすると根本の対立図式は、《宮沢一族 vs. 世界》とでもなるのだろうか?
まあそういうお話も、ないことだとは言えない。宮沢一族のそれぞれが生きている核弾頭みたいな存在だという前提があれば、世間と世界が、それをそっとしておくほうが逆におかしい。けれど……。

またそのいっぽう。いままでのシリーズ作と異なる「TOUGH 龍を継ぐ男」の特徴は、その新たなるヒーロー《龍星くん》が、インテリ派の美少年。彼もまた鬼龍の遺児なので、IQ200の部分を強く継承しているらしい。すなわち、あまり品がなく知的にも見えないカンサイ人のキー坊である従来のヒーローとは、きわめて対照的。
というか逆にキー坊の、学校の勉強的な部分での頭の悪さこそ、一族の中でもむしろ例外的。どこでいったいそんな要素が紛れこんだのか?

ともあれ登場時の龍星くんにはフレッシュさがあったし、それゆえの新味ある展開が、大いに期待されていた。だがしかし、《タンカーの甲板上の死闘》に巻き込まれて以降、彼の見せ場っぽいところがあまりない。
しかもお話の進行につれ、彼の美少年指数の減退がいちじるしいことが、あまりにも残念。このことは作中で、アンティゴネーちゃんも指摘していた。

ここで急にちょっと違うことを言うと、車田正美の作品群の意外な特徴として、何でもかんでもド根性ですまそうとはせず、意外なところでみょうに知的なお話を振ってくる。まあその、リングにかけろ(1977)のドイツチームが理論で攻めてくるとか、または「B'T Xビート・エックス(1994)のあちこちにふかしぎな哲学問答があるとか。
そして「TOUGH 龍を継ぐ男」についても何かそういう、いままでなかった、ヒーローが知性で活躍みたいな展開があるかなとばかり? まあ、知性うんぬんを過剰に推していくのも何だけど、とにかくも新味のあるヒーローが今後、“ならでは”の活躍を見せてくれること、それだけは期待してやまないのだった。

高山としのり「魔法少女れおの性活」(2019) - 悪と絶望に抗してわれわれは叫ぶ──《性戯こそ正義》

レイモン・クノーによる小説「地下鉄のザジ」(1959)のヒロインの、浮浪児みたいな女の子。その彼女をとりあえず保護しているオッサンもまた、何だか実にウロンな人物。確か警官の職質に答えて彼は、「私の職業は“ダンサー”です」と、かなりおかしなことを言う。
ステージ上で女装して踊ることにより生活費を稼いでいる、と、言い張っているらしいのだった。何とまあ、さすがは《魔都》パリを舞台とするお話だ。
……さてこのオヤジの「“ダンサー”です」発言を、ザジちゃんが横で聞いていたのかどうか、そこが思い出せないのがつらみ。だがしかし、もし聞いていたらどう思ったのだろう? 無関心? 当惑? 逆に誇らしさ?

いやいや、そんなこと大むかしの小説なんかのことよりも……!

高山としのり魔法少女れおの性活」は、1月4日に少年ジャンプ+で公開された、約36ページの読み切りまんが()。とりあえずそのタイトル中の、オッサンくさい語呂合わせ《性活》が、きわめて不穏。ジャンプ+は少年誌のはずなのに……っ!

で、アダルトまんがでもないのにどういう《性活》を描いているのか? つい気になって見てみたところ、それが意表をつかれド肝を抜かれる仰天の内容だったことを、まずお伝えしたい。
いやもう自分くらいになると、まんがを読んでその内容に驚くということもめったになくなってきているので──うゎつまらない──、じっさいこれはすごいのでは。ゆえに、以下は絶賛のレビューとなる。

となるのだが、でもたぶんかったるい駄文だから、むりしてご覧にならないまでも。だがしかし、題材となっているまんが本編のほうは、ぜひご一読のほどを!(

1. 《魔法少女》らに明日はあるか──いやむしろその今日は?

で、今作、高山としのり魔法少女れおの性活」の題材に関連して、まずひとこと言わせてもらえれば。この21世紀に《魔法少女》なんて、全般的にはつまらないと、自分は思い込んでいる。
そんなワードが真にホットだったのは、まさにその名も魔法少女プリティサミー(1996, テレビアニメ)が登場し、そして種村有菜神風怪盗ジャンヌ(1998−2000)が〆くくった、20世紀末までのこと。それ以後は、そこまでにできちゃった《お約束》らと、その単純な裏返し、それらの延々たる繰り返し……。だと思い込んできたが、どうだろう?

いや、そういうエンターテインメント作品らの《お約束》をいまいち愉しめないのは、逆にダメなことなのかも知れないけれど。ともあれ自分は常に新しさを求め、そして新しさを愛してしまうほうの人、だとは申し上げておいて。

それとまあ。《魔法少女》みたいなお話らが反復されすぎることのベースには、誰がどう考えても、《少女》みたいな存在らへのヘンな過大評価、はっきり言えば《ロリコン》的な感性や嗜好が“ある”。これもまた、“ある”こと自体はまったく仕方がないにしろ、しかし野放しにしておいていいものかどうか、考えさせられるところなのでは?

2. やさしきオトメを勇者にする魔法アイテム──その重大なヒミツ!

などと、やたら話に前提が多いのを、できるだけ見逃していただきたい。ともあれ、そうした思い込みを抱きながら、高山としのり魔法少女れおの性活」なる短編まんがに目を通した。すると、まず。

ヒロインである平凡な中学生《れお》の住む《大天狗町》が、とつじょ怪物によって襲われる。そのパニックの最中に、れおは《宝石妖精シュッポ》と出遭い、彼のくれた《魔法のジュエル》の力を借りて《ジュエルウィッチ》に変身、魔物らを倒す勇者となる。

このイントロまでは、言うところの《お約束》をなぞっている部分。だがしかし、そこからだんだんお話がおかしくなってくる。そもそもの話、《大天狗》の町だというその地名は何なの、という疑問点も含まれつつ。

やがて共闘する魔女っ子の仲間もできて、魔物退治のタスクについて、手応えや愉しさを感じ始めるれお。だがその悩みは、一人っ子である彼女の居室の一隅に置かれたシュッポの小屋から、夜な夜な洩れて聞こえるヘンな声。いわゆる、“ギシアン音”。

「ああ おッおッ 悪を 滅ぼした後は! たぎりまくる ポポぉぅうう!!」
「はげしッ はげしすぎる ヨ! う…う…」

見た目は小さくてキュートな妖精の男の子シュッポ、彼が自室にメスっぽい妖精を連れ込んで、《何か》をいたしているのだった。そこでヒロインれおちゃんのモノローグ、<シュッポは大人だった>。

ただし、れおを悩ませ苦しめるのは、シュッポが性交っぽいことにはげんでいるその行為、それだけではない。
……その性交らしき行為のピークでシュッポは、<ジュエル出うううう>と、何だか気になることを叫ぶ。そこで言われたジュエルとは、れおがジュエルウィッチへの変身にさいし、口に入れる、食べる、身体に取り込む、そういうことを余儀なくされる《魔法のジュエル》そのものではないかと考えられる(!!)、むしろそこだ。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

それに気づいた上で、れおが観察していると、もろもろのヘンなタイミングでシュッポがジュエルを出す、股間らしき場所から出しまくる、という現象が目についてくる。

たとえば路上で犬にじゃれつかれ、身体をペロペロと舐められて出す。シュッポ本人が《大好きな人の写真》と呼ぶ、力士みたいな男の肖像をジッと眺めて出す。いざ必要となれば儀式として、自作の《かんのうポエムノート》をれおに朗読させ、その興奮の勢いでジュエルを出す。かつこのポエムの内容がまた、<火星人は おれの からだを>……うんぬんという、実に奇妙きてれつなもの。

さらにどういうわけなのか、おでんの具である《巾着》を対象にして、なぜか出す。いったい、巾着がどうだというのだろうか? そのあんまりなチン妙さに比べたら、<悪の側に寝返ったメスっぽい妖精の冷たい敵意の視線を受けて出す>、などということは、まだしもノーマルかな、とまで思えてくることがたまらない。

というなぞめいたメカニズムによって産出される、《魔法のジュエル》というしろもの。それは、女の子が口に入れても差しつかえない物質なのだろうか? そのことを考えてれおは悩み苦しむが、しかし変身して闘うことは《大天狗町》の平和のためなので、むりにでも彼女は自分を言い聞かせてググッといく。

「ふぐの白子みたいなもんだし!!」

で、意を決してパクリと! そういうマテリアルを《白子》と呼ぶのは、確か「ラブやん」(2000-15, 田丸浩史)のどこかにもあったっけ。
……それはともかく、前記のヤマ場を眺めて自分は、「フグの白子って毒じゃないの?」と、つまらんことを考えた。それをネットで調べたら、フグの種類や産地によって異なり、食べられるのもあるらしい。ただし、毒じゃなくても食べすぎると身体によくない、とか何とか。するとこれって、意外に巧妙なたとえなのだろうか。

3. 魔法少女よ闘え──《父》の求める正義と享楽のために

さらに? いやもう、この作品こと高山としのり魔法少女れおの性活」の“すべて”を要約してご紹介しても、ご覧になるに大儀だろうし、かつあまり意味のないことかとも思うので、それはこのくらいにするけれども。

かくて。われらがヒロインであるれおちゃんの受難は、「他者(たち)の享楽を過剰に見せつけられる」こと、とでも言い換えられうるのだろうか。ただしそのアナーキーさもきわまっているような享楽の追求が、なぜなのか結果として、社会秩序の維持に役立ってしまう。
そしてその逆に、享楽の追求においてつまづいた者たちが、悪の側へと走る、そういうお話の中のシステムであるらしい。だからシュッポは物語の終わりで、正しい側へと更生させたメスっぽい妖精の相手をしながら、こんなことを叫んでいる。

「おおおおお 燃えるポ!
これが正義の伝承法!! この熱を受け取るポ!」

すなわちここにおいて、《性戯こそ正義である》という日刊ゲンダイにでも出ていそうなオヤジギャグが、普遍に妥当の正しきテーゼとして成り立ってしまう。ついでにもうひとつ言うのなら、《すべての生活は“性活”である》。たとえばれおのようにけがれなく清らかな少女らの生活にしたところで、ある意味けがれきった<大人>たちがあくなく享楽を追求する<性活>を必須の前提とした上で、成り立っているものだとすれば。

そうしてこれらは、ただ単なるまんがの作り話にすぎないのだろうか? 

“すべて”を横から説明してしまうのはヤボだと思うので、ほどほどに述べているつもりだけれども。かつまたフロイトかぶれの自分が分析めいたゴタクを書いても逆によくないので、そこは自制しているはずだが。
それにしても正気では言えないような真理らが、ここにみごとに描出された。もっと明確に言うなら、凡俗な出廻り品の《魔法少女》作品らが抑圧しちゃっているその真理らが、ここにおいて明るみへとあばき出された。

今作で実にツボだと思ったのは、アナーキーな性欲のバケモノくらいにしか思えないシュッポが、意外とれおたちの少女らを、直接の性の対象とは見ていない、そこだ。ゆえにどこかで父性的な接し方が感じられ、そしてその父性は、いっぽうでは正義を求め規範と秩序を志向し、またいっぽうでは享楽をあくなく追求する。というか、その両者がなぜだか一致してしまうものである。
そして《父の欲望》のエージェントとして魔法少女らは、父の欲望のエッセンスをエネルギー源として、父の求める正義と享楽を実現するべく、闘い続けるハメになる。実のところノーマルなそのあり方は、そうであるしかない。
もしそうでないなら──《父の欲望》のエージェントであることをイヤでも引き受けないのなら──、魔法少女などという存在は、アダルトゲームによく描かれているらしいように、触手のバケモノの餌食になって終わるくらいしかない(さもなくば後述のアパシーへ)。いや、あまり知らないのでアダルトゲームらを語りたくないが、そういう意味ではその伝えられる無惨な描写もあながちウソではない、一定のほんとうであろう、とは考えうる。

ただし誤解されてはいけないが、シュッポの所業らがすべて正しいなどと述べてはいない。どう考えても、いささか……いやあまりに過剰。もしこれが《父》であるなら、それは狂った父でしかない。
ところが問題は、狂った父でしかないとしても、《父》がぜんぜんいないよりはよほどいい、ということ。正義と享楽を求めるその姿を人々にことさら魅せつけくさる《父》、それが不在である状態を、われわれは《精神病》と呼んでいる。一般的に言われる《狂気》とそれとは、行っているレベルが段違い。
またその状態が社会的に表現されたら、アパシーでありアナーキーということになる。今作のクライマックスに登場する悪に転んだ魔法少女は、まさにそうして《享楽=正義》を見失ってしまったことにより、世界に絶望しその破滅を望む。たとえ狂った父でしかなくとも、不在であればこうなる、という見本なのだ。

それよりは、シュッポにでも従っているほうが、まだよい。そういう判断しかできないからこそ、われらのヒロインであるれおは、悩み苦しみ続けるのだ。狂った父性的存在のふりかざす《享楽=正義》の旗印にほとほとウンザリさせられながら、しかしそれがなくては生きていけないことを認めるので。

とまあ、けっきょくはフロイトかぶれのヨタ話をごひろうしちゃったかもだが、とにかくその描写のキレがすごい、鋭いと、戦慄を自分は感じたのだった。

4. 《性癖》のパワー爆発から《性活》の普遍性へ──結語と今後の展望

なお。今作「魔法少女れおの性活」の作者である高山としのりについては、ちょっとSFタッチのラブコメ作品「i・ショウジョ」シリーズ(2014-17, ジャンプ・コミックス全17巻)で知られるまんが家、とだけ認識していた。そちらも多少は読んだことがあるが、しかし登場する少年少女らがみょうにまじめな子ばかり、という印象を受けていた。
ゆえに、画面的には少々ハレンチな描写が頻出していても、しかし同じジャンプ系のエロコメTo LOVEる -とらぶる-」シリーズ(2006-, 矢吹/長谷見)みたいな、奔放にして無責任なるエロ追求容認ムード、それが感じられない。
そこが逆に弱いか、などとも思っていたが、しかし逆にそのヘンなまじめさが突きつまって、この「魔法少女れおの性活」なる《異物》の産出にいたってしまったのだろうか。

それとまあ? 描かれたまんが作品としての「魔法少女れおの性活」について言えば、とくべつに完ぺきだとは言いがたい。分かりやすさが十分ではなく、お話の流れを説いているところで、ちょくちょく描写の飛躍が感じられる。
おそらくそれは、密度の高い物語をむりにコンパクトに描いているせいなのかと推察。けれどもいずれ何らかの方法で、そこらは改善されたい。

そして別に宣伝ではないけれども──いやけっきょくは宣伝だが──、その「i・ショウジョ」シリーズ()、および、最新よりひとつ前の高山としのり作品「性癖が力になる世界」(2018年4月)らもジャンプ+にて閲覧可能なので()、ぜひご覧になられたい。そうしてわれらの高山としのり、その次回作がどういうものになってしまうのか、われわれは高まる期待に胸を躍らせながら!