エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

新春・個人的ロードショー「シン・ゴジラ」(2016) - あまりにも伊福部フォーエバー、または 国策的スペクタクルの光と影

よくまあテレビでやっている「新春名作ロードショー」みたいな企画、その個人的な挙行としてシン・ゴジラ(2016, 東宝映画)を見た。以下はその感想。
ただし落ち着いて鑑賞できるような環境がなく、しかも登場人物らの早口がものすごくて、せりふらが半分くらいしか聞き取れず。だがしかし、ドラマというほどのドラマがないスペクタクル(見世物)映画であるかと見受けたので、たぶんだいじょうぶ(?)だろう。

1. やっぱり《ゴジラ》は、20世紀の響きで!

で、ここは音楽関係のブログみたいでもあるので、まず音楽の話をすると。……ああっ! われらが永遠の伊福部サウンドの説得力が、あまりにもあまりにも! ……などと感じてしまうのは、「昭和」のゴジラシリーズに親しみすぎたうちらだけなのだろうか。

いや? この「シン・ゴジラ」にしろ、シリーズの前作にあたるゴジラ FINAL WARS(2004)にしろ、そのサウンドトラックらでは、伊福部サウンドに対する敬意が、十分すぎるくらいに表現されているように思われる。それが抜きでは、何も始まりそうもない。
それはそうだ、言い切るのも何だが、伊福部サウンドを否定するくらいならゴジラも否定しちゃっていいわけで、ならばぜんぜん違うオリジナル怪獣映画を各自が自由に作ったらよい。そこをあえてゴジラというなら、伊福部昭もピタリとついてくる、これは超必然。

そして、伊福部サウンドに対するオマージュとしての「シン・ゴジラ」音楽パートは、あの「ゴジラのテーマ」を現代の技術で、イヤ味なく重厚壮麗に、演奏か録音をし直しているのがよい。映画としても、それが流れるシーンに最大の感銘があった。
そりゃまあ1954年のオリジナルバージョンがあまりにもフォーエバーだけども、しかしいかんせん、録り方が古い。いにしえの光学録音特有のカサカサした音を、自分はそんなに好きでないし。

そのいっぽう、実はこのたび初めて知ったことだが、シリーズ前作「ゴジラ FINAL WARS」におけるキース・エマーソンの起用、それもまた自分的には憎めない趣向。エマーソンの電気オルガンのギコギコギコッという「昭和」の臭気もふんぷんたる響きが、《怪獣映画》にはよく合っているように思われた。
FINAL WARS」の映画全編はまだ見てないが、音楽パートではそっちのほうが、やや好みかも。……いやしかしその「ゴジラ FINAL WARS」は、ゴジラ映画史上有数の不人気作だとも聞くけれど。

2. 赤ムケゴジラが、いなばの白ウサギ!?

音楽パート以外に注目し、「シン・ゴジラ」のよかったところは、初上陸直後の未成熟(?)ゴジラのみっともなさ。その造形の見苦しさ、痛々しさ。
いやさいしょ、まさかあれがゴジラだとは思わなかったし、とてもそうは思えなかった。シリーズの第2作ゴジラの逆襲(1955)で、《アンギラス》がライバルとして登場するけど、そういうポジションの別怪獣なのかな、とばかり!

それと、えーと記憶があまり定かでないのだが、確か金子修介ガメラ 大怪獣空中決戦」(1995)でも、ライバル怪獣《ギャオス》が、ガメラよりお先に登場する。それに近い構成なのかな、とも。

ところがそのみっともないやつこそがゴジラ、胎児みたいに未完成を思わせるいい加減なフォルム、さもなくば進化の途上の両生類、しかも全身のいたるところが赤ムケで痛々しい、そしてその赤ムケの痛がゆさに耐えながら彼は、新しい環境である陸上への順応をはかっていたのかと……。そんなお話なのかと自分は受けとったが、そう思えばあとからなっとくできたし、いいなとも感じられた。

それとまあ特撮がいい、全般的な映像に一般的な迫力あり、とも言いたい気はするが、しかし自分が現在のこういう映画をあまり見ていないので、その他もろもろのSFX映画らよりもいいと言えるのかどうか、それは不明。

3. 人らもうらやむ《いいイス》への安住……と、その終わり

では次に、映画のデキのよしあしには関係ない(かも知れない)が、「シン・ゴジラ」を見ていてムカついたところを指摘。
さてこの映画の登場人物らは、そーり大臣を筆頭に、官公庁関係のおエラ方がほとんど。そして映画が映し出す、その彼らの根城となる執務室や会議室、そしてそこに設置されたイスら……。

このイスらに自分は、思わず注目させられてしまう。

どこからどう見ても《いいイス》であり、その座面のクッション性のよさが想像されてやまない。そこに腰かけた瞬間、「あれェ? 重力《1G》の存在は、フィクションだったのかな?」などと錯覚をきたすほどの、快いソフトさとフィット感がありそう……うっとり……。

……って、このクソ役人どもッ! われわれ国民から搾り上げた血税であがなった、そんな《いいイス》にケツ載せやがって! 《公僕》という字ヅラの意味が分かってンのか、コラッ!! と、ここで、自分は激しいねたみと怒りの発作に襲われるのだった。

いや。だいたい自分は嫉妬羨望の念とか薄いほうの人間だと自覚しており、まあそこが逆にダメなのだろうが、よその他人らが高級スーツを着ていても、高級コンドミニアムに起居していても、美食の限りをつくしていても、性的行動らをハッスルしていても、さして羨ましいと思わない。代わってくれ、とは別に思わない。
だがしかし、《いいイス》となれば話は別。なぜかそこに、異様なねたましさと胸苦しさを感じるのだった。とのことを、いま現在、貧弱なイスにあやうく腰かけながら述べているので、この言表にはおのずと迫真力があるはず(と、期待)。

でまあ、この映画「シン・ゴジラ」はそこらでウソを描いてはいない。官公庁らのある種の場所には、じっさいこのレベル――もしくはそれ以上――の《いいイス》らが設置されている、それは自分の貧しき見聞からも確か。
でまあ、見ていてそれが異様にムカつくのだった。「総理のイス」とか「社長のイス」とか、ことばで言われるだけならまだしも、しかし見てしまえばどうにもならない。そして私企業のシャチョーならまあいいけど、しかし公僕らが過剰な《いいイス》に座っていたら?

そしてその《いいイス》らにゆっ……たりと身体を沈めながら、「この巨大生物どうしたもんかねェ」、などとのんびり相談している連中を、応援する気にはなれない。いやむしろ、「ゴジラよ、立て、闘え! このてのやから皆殺しにしちゃえ!」、などと思わなくもなかったが、なのにあいつは一般庶民に迷惑をかけるばかり。やっぱり怪獣なんて役立たず、大魔神さまとはわけが違うな、と、自分はため息をついたのだった。

……ところが映画のお話はご存じのように進行し、やがて日本政府の中枢は都心から立川市への移転を余儀なくされる。そしてその立川の急ごしらえの仮庁舎では、見るからに安っぽいパイプ椅子――座って5分くらいでお尻が痛くなってきそうなアレ――、ほとんどの誰もがそれに腰かけて、執務等をいたすハメになる。
それを見届けて、自分はようやっと心がやすらぎ、「じゃ、人間らもがんばったら?」と思うことができたのだった。よかった!

4. 《ポスト・フクシマ》状況を水で薄めて水に流そうと

……がんばろう日本?
……がんばろう日本?

ところでさいごに、映画「シン・ゴジラ」のダメだった点。これは無数にあってきりがないので、できるだけかいつまんでお伝えするつもり。

日本語のウィペド(ja.wikipedia.org)に書かれた作品概要によると今作は、<往時の(シリーズ作らの)ファミリー・子供向け路線から一転し、政治色を前面に出した群像劇>だそうだ。という文言の、前半の当否は知らないけれど、しかし後半がめっきりとおかしい。

だってこのお話には《政治》が存在せず、《行政》しかない。

つまり。ゴジラが出たからといって、ミサイルを撃とうとすると野党が反対する――特別立法で対策しようとすると議会が反対する――政府が求めるあれこれに対して自治体らが反対する――秘密兵器の使用に対して外国政府や国際的環境保護団体あたりが反対する――かつ、それらの“すべて”に対して一般ピープルや報道メディア等が反対する――として、そういう反対らをいかにしのぐか、いかにねじ伏せるか、といったことが、《政治》なのではないか。

まあウィペドの執筆者らは《政治》と《行政》の違いなんて考えてもみないし、ことによったら「シン・ゴジラ」の関係者もそうなのだろうか。

と、そういうなまぐさくもめんどうくさい《反対者》らのいない世界で、支配者らのおもわくや都合らのみが描かれる。という言い方をすると、この「シン・ゴジラ」の脚本を書いた人による旧作テレビアニメ新世紀エヴァンゲリオン(1995)にしても、まあそんなお話だったかな、ということにもなる。
シトの出る世界もゴジラの出る世界も変わらない、いずれも個人的でゆ~とぴあチックな、ドラマ性を回避したスペクタクル(見世物)だったのだろうか。かついずれにしても、民衆とか大衆とか呼ばれる《われわれ》の出番のなさが、きわめて逆に印象的。

いや、「シン・ゴジラ」に関しては多少そこらが意識されているふしがあり、SNSらで怪情報らが飛び交ったり、また<ゴジラは神だ>とヘンな主張を唱えるモブが行進したり……といった描写が、付け足り的には存在している。
すなわち、「ゴジラとその出現は何を意味するのか」ということを、関係させられた者らそれぞれが、けっきょくは自分で考え判断しなければならない。ゴジラはまあ実在しないものだけど、しかし多少は似たような現象や存在らが実在しないわけではない。その過程で《われわれ》は、軽々な誤解や臆断に及んだり、または過剰な順応をきたしたり……といったことらをなしうる。
と、そうしたムーブメントの一端らが、チラチラッとこの映画にも描かれているわけだが。しかしそこらを掘り下げてはおらず、ただ行政サイドの視点でまとめ上げていることは、皆さまもご覧の通り。

と、このくらいを述べたらほぼ十分だろうが、しかしほんとうのさいごに、もうひとつだけ。

そもそもの話、「シン・ゴジラ」におけるゴジラは、何を目的として――いかなる理由で――東京に上陸、日本を襲ったのだろうか?
……と、このことを言い出すと、このシリーズの全編を通じてゴジラが日本を襲う合理的な理由は別に存在しておらぬ気配、という問題もまた浮上してしまうらしい。が、まあそこまで大きなことを問うつもりはなく。

だけれども、「シン・ゴジラ」の発表は2016年。つまり《ポスト・フクシマ》の時代の産物である以上は、その点にきわめて合理的な理由をつけることができたはずだ。
すなわち。海中に投棄された放射性廃棄物を喰らいつくしてしまったのでゴジラは、福島あたりに放射能のニオイを嗅ぎつけ、それを喰らうために襲来したのだ、と。

ということをぜんぜん考えてなかったとしたら、「シン・ゴジラ」の製作関係者たちはスカポンタンしかない。まさかそんなことはなく、考えてはいたけどそこを逃げた、とでも思っていたほうが、まだしもどこかで気が休まる。いや別にそうでもないか?
そういうほんとうのことらを描けなかった、彼らは逃げた。そうして行政サイドから、「がんばろうニッポン」とか何とかの号令が、いい気分で発せられる。これは政府後援の国策映画、だったのだろうか。

James Ferraro: Night Dolls with Hairspray (2010) - 校長センセイがド変態!

われらがヴェイパーウェイヴのほうから見て縁のあるアーティスト、ジェームズ・フェラーロ。彼による超イカしたロックンロール・アルバム「ナイトドールズ・ウィズ・ヘアスプレー」(2010)を評してみる、だがその前にちょっとしたゴタクを……。

1. 気持ちよくなるための装置としての《ジャンル》 と、その否定

……生まれて初めて聞いたロックンロール・バンドのナマ演奏は忘れない。地元の町内文化祭のしょっぱいステージで、しかもどういうわけか、ベースギターとドラムだけが、ブホブホブフォン、ドダバタドゥン、と鳴っているライブだった気がするのだが、ギター兼ボーカルの人が病欠でもしてたのだろうか?
しかしそれでも子どもの自分は、「やッべぇぇ〜! この音クソカッコいい〜!」とシビれまくった。とくに、床から脳天に向かって突き上げるベースの響き! それ以来のベース好きなのだった。

そのように、曲っていうほどの楽曲もなく、ベースとドラムのみがドデデドデン、ドチャズチャズン、とビートを刻んでいるだけで気持ちがいいし、ノレるし踊れる、むしろ唄とか要らない。そういう感じ方も、いまだと逆にふつうな気もするが。
かくして音楽というのはそれぞれのジャンルで、楽曲以前の気持ちよくなるための装置をあらかじめ用意している、というかその用意された装置らが《ジャンル》の実体なのだ、という気がしてくる。いや自分の信念としては楽曲がもっとも重要なのだが、しかしそれ以前にも何かが大いにあるな、と。

だいたいわれらのヴェイパーウェイヴにしたって、「遅くしてリバーブ音を付加すると、なぜかイイ感じじゃない?」というていどの装置が用意された上で、どうにか成り立っている感じ。そこらにヴェイパーの気持ちよさの核が、少なくともそのひとつがあるだろう。
ゆえに、「とりあえず人の曲を遅くしてみた」ていどのしろものが、いちおうはヴェイパーっぽく聞こえてしまうのも、ちょっとしょうがないことではあるっぽい。

ところが。ところがそういう装置らのご用意を、あえてまるっきり放棄してくれちゃっているのがジェームズ・フェラーロというお人なのか、と思えてきた。ゆえにその音楽らは、常にジャンル分け困難であり、しかも気持ちのよさにかなり乏しい、のでは……。
修行だと思ってアレらをず〜っと聞いてるうちに、そういう考えに到達したのだ。とくに、約120分間もノイズっぽいのがタレ流されている系の大作「Rerex」(2009)を聞き通したのが実に修行チックだった、イヤハヤ。

別の記事でご紹介したフェラーロさんのインタビュー()、そのお話はかなりごもっともであり共感できるとしても、しかしそこで語られるコンセプトと、いっぽう現に提示されているサウンドらとの関係は、きわめてつかみにくい。
フェラーロの考えていることは初期からわりと一貫しているようなのに、しかし出ているサウンドらは、インダス風、サイケ風、コラージュ風、ローファイロック風、シンセポップ風、そしてネオクラシカル風と、バラエティがありすぎ。たぶんフェラーロさんのコンセプトと各手法らをつないでいる経路が、自分のような凡人には視えていない。

《手法》とただいま申し上げたが、じっさいフェラーロは多様な音楽のジャンルに手を出しているわけではない。各ジャンルそれぞれの美学を意に介していないのだから。
よってそのインタビューで本人が、ジャンル分けされることに対して強く抵抗しているのは、“逆に”正当だ、と言える。何かのジャンルの《風》ではあっても、それ自体であることがまったくない。

2. 《ポップアート》ヴェイパー vs. 《コンセプチュアルアート》フェラーロ?

さて。何か自分がかん違い・読み違いしていることが大いにありえそうだが、ともあれ仮にフェラーロの方法を、このように言い換えてみたとする。

<機能不全のポピュラー音楽モドキ──ただしポップ特有の蠱惑(こわく)性はキープされているものとする──の捏造と、そのむやみな流通が、なぜなのか高度情報資本主義の欺瞞と脆弱性をあばきたてることを期待>

その後段の、効果のところはいざ知らずとしてだ。前段である、<機能不全のポピュラー音楽モドキ──ただしポップ特有の蠱惑性はキープされているものとする──の捏造>というところで、フェラーロは常に成功しているのだろうか?

言うまでもなく、その最大の成功例が、かの「Far Side Virtual」(2011)。もしもそのアルバムが存在しなかったら、自分らがフェラーロのことを気にかける理由も存在しなくなる。

まあその? われわれのヴェイパーウェイヴが現代美術の《ポップアート》とか《アプロプリエーション》に相当するところあるとすると、フェラーロは《コンセプチュアルアート》にまでイッちゃっているのかも知れない。
ポップアートにしてもコンセプトのあるアートではありつつ、しかし見た目の平俗でストレートな快さに訴えるところも大いにある、ちょっとズルい、もしくは商売がうまいのだが。けれど、そのいっぽうのコンセプチュアルアートまで行くと、もはや感覚に訴えるところがまったくない(はず)。

3. ことばとしてのみ呼び出される、甘美さを喪った《快楽》……

いや、ここでやっと、伝説のロックンロール・アルバム「ナイトドールズ・ウィズ・ヘアスプレー」の話になる。で、まず、その楽曲らはかなりいい、面白い。いちばん印象に残るトラック「Leather High School」は、ハレンチ学園的なハイスクールのらんちきぶりを描写したナイスナンバー。

校長センセはズボンの下に、女のパンティをはいている
ヤツらはそのケツをぶっ叩く、叩きまくる、血が出るまで
レザー・ハイスクール、レザー・ハイスクール
わたしを教室でムチ打て

また、これがきわめてローファイなオルタナ・ロック(風)ということで、比較の対象になりそうなハーフ・ジャパニーズやゴッド・イズ・マイ・コパイロットあたりとも聞き比べてみたが。むろん、こちらによっぽどのキレがある。
あちらのアレらはプライベートな頭のおかしさをごひろうしてるだけ、みたいなものだけど──ゆえに、他人の下着のシミを眺めてるみたいな気分にさせられるのだが──、そうではなく「ナイトドールズ・ウィズ・ヘアスプレー」は、社会をターゲットにブチかましている。とんでもなく時代をジャンプして、初期パンクのさわやかPOPな反逆スピリットを現前させているようなところがある。

だがしかし、なまじ楽曲や演奏らがいいだけに、作為的で過剰なローファイさが感覚的な気持ちよさを消し去っていることには共感できづらい、という感想にもなってしまう。あまりその意図が分からず、また手段も分からなくて、そもそもカセットテープ等のおチープな手段だけで録音したとしても、ここまでパサパサしたヘンな音にはならないはずだし。

ポップアートのポップさがわざわざ打ち消されているような、実にヘンな感じ……。ただしフェラーロの方法がこういうものなのかも知れず、感覚的な快楽は否定していくということ、なのだろうか?

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

……ってすみません、「ここはかしこい人が見るブログだから、話はもう通じてるはず」と思って、以上のところでいったん終わりにしてたのだけど。だが、それはやや無責任かと思い直し、以下を補足。
つまりさいしょに述べた気持ちよさの装置(ら)を、フェラーロさんはムリにでも無効にしているな、と。ここでついついよけいなことを考えてしまうと、ふだんフェラーロはどんな音楽を聞いているのだろうか? そもそも、音楽に感動しちゃったりしたことがあるのだろうか?

<アングル氏の作品は、過度の注意の結果するところであって、理解されるためにも、等しい注意を要求する。苦痛の娘たちであって、自らも苦痛を産み出す。>
────ボードレール「一八四六年のサロン」(1846)

まあそんなことは大きなお世話でよけいな想像だとしても、彼が意地でも音楽から快楽を追放している、それはストイシズムなのか方法論の徹底なのか、はたまた単なる意地悪なのか……。とにかくすごい人いるなと、自分は感心してしまうばかりなのだった。

2018年のWebコミック総括!? かってに選んだベスト10っ!!

1. 【2018年スタートのWebコミック、かってに選んだベスト10】

01/02 ふじのきともこ「絶対に壊れない友だちをください。」まんがライフWIN

  • 圧倒的な闇の深さで1年間、暗黒の輝きを放ち続けた珠玉の作品

01/31 松本ゆうす「星デミ+」(リィドカフェ)

  • 圧倒的な品のなさで全Webまんが界をリードしまくり、珠玉というか玉と棒が大乱舞

02/10 カズタカ/智弘カイ「デスラバ」(マガポケ)

  • 童貞集めて生きるか死ぬかの野球拳大会、王様ゲーム、そして逆襲の自家発電……物語のなぞは深まるばかり

03/01 千代「ホームルーム」(コミックDAYS)

  • コミックDAYSのサイト創設と同時にスタート。金八もどきの情熱家センセイが、実はド変態だった……この数年はやりのストーカーまんがの代表として、ここに晴れて選出!

03/07 渡辺潤「デガウザー」&等々々々(すべてコミックDAYS)

  • その他に、新井春巻「魔法少女になれません。」、さおとめやぎ「あいだにはたち」、若槻ヒカル「被虐男子 藤咲くん」、沢真/柴田ヨクサル「ブルーストライカー」……等々々々、コミックDAYS立ち上げ期からの連載らは、マズくはないけどもうひとつエキサイトできづらい、てのが多し?

04/13 津島隆太「セックス依存症になりました。」(週プレNEWS)

  • セックスに依存しすぎたせいで、女性にハンマーで殴られ死にかけた、てな衝撃の手記

04/26 みかわ絵子「忘却バッテリー」少年ジャンプ+

  • もっかの最新話にてボケ少年が記憶回復で逆の危機、今後のギャグ担当は誰がッ……!?

04/27 ビーノ「女子高生の無駄づかい」連載再開(コミックNewtype

  • 新規の作品ではないが、無情の打ち切りからの復活おめでとうということで選出

08/14 栗原正尚/かざあな「ナノハザード」少年ジャンプ+

  • 前にもご紹介したけど、《ナノロボット》という設定に新味あり

08/19 柞刈湯葉/中村ミリュウ「オートマン」(コミックDAYS)

  • モーニング誌によく載っているような地味さをきわめた職業人まんが……かと思ったら、SFでパラレルワールド。刮目すべき異色作!

[選出の対象] 2018年に掲載がスタートしたWebコミックで、紙媒体にベースがないもの
[各項目の見方] 掲載スタートの日付 作者名「作品タイトル」(掲載サイト)
[例外的措置] 「複数タイトルまとめて一項目」、「打ち切りからの再開」、なんてのも同梱

2. 【2018年のWebコミック界で、自分が気になった動向と話題】

花月仁「ゼウスの手」(2017-, eヤングマガジン)、目立たずひっそりと快調に進行

  • ギリシア神話サイバーパンクノワール。すっごく面白いと自分は思う、悪のヒーロー《百鬼(なきり)くん》しゅきしゅき、そのうち必ずちゃんとした記事にする。
    ……がしかしこれ、あまり世間の話題にはなっていないもよう。むぅ……たとえば、《eヤンマガ》のサイト構造がすっごく分かりづらい、そのあたりに問題はないだろうか?

がちょん次郎「のんきBOY」(2014-, ニコニコ静画)、アマチュア扱いなのに更新頻度がすごい

  • たぶん原稿料などが出ていないはずなのに、ほぼ新聞4コマなみの連日更新、というあっぱれな壮挙。

谷川ニコ「わたモテ」(2011-, ガンガンONLINE)、まさかの人気再燃!

  • プロフェッショナル的Webまんがとしては草分けの部類に入る作品、通称「わたモテ」こと私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!。アニメ化等の勢いに乗った2013-14年あたりが人気のピーク、以後はダラ下がりかと目されていたが、それが17年初頭ごろから現在までに、まさかの人気再上昇。発行部数とかは知らないけど、とにかくいまファン層がアツい。《百合》ムードの演出が人気のひみつかッッ?

縦読みまんが》、韓国発のニュースタイル? ジワリ侵入の気配……!

  • ここで言う《縦読みまんが》とは、見開きで見ることが考慮されていないWeb専門のまんがスタイル。韓国発祥のもの、と聞いた気がする。
    で、そちらからの翻訳作品を中心に、日本語のまんがとしてもチラホラ見かけるようになったけど、しかし古いまんが読者の自分には、とうてい受け容れがたい。日本では普及してほしくない。

《となジャン》にて、いささかムリのある《イッキ読みキャンペーン》

  • 6月30日〜7月4日、《となりのヤングジャンプ》にて『迫稔雄嘘喰い全539話(完全無料で)イッキ読みキャンペーン』が実施された。……これはまた太っ腹、いよぉ大統領! と、賞賛したいのはヤマヤマだが。
    しかし単行本では全49巻にもなるものを、たった5日間で読了するのはムリっぽい。てかムリだった。
    どんなにヒマで時間があったとしても、集中力のほうが続かなそう。けっこう読者に頭を使わせるお話だし……。まあ、読了させようと思ってないんだろうけど。
    なお《となジャン》では、追って11月にも、貴家悠/橘賢一テラフォーマーズについて、ほぼ同様のキャンペーンが実行された。

東毅「バドミントンガールズ」、なぜなのかふいに連載中止

  • 2018年12月28日
    コミックNewtype「バドミントンガールズ」連載中止のお知らせ
    <10月30日から連載を開始した「バドミントンガールズ」ですが、著者の東毅先生のご都合により、第2話をもちまして連載を中止させていただきます>
    東毅は「電波教師」等で多少有名なまんが家、「バドミントンガールズ」はDMMゲームズ関係のタイトル。……で、何かがあった風なので、ゴシップ好きの方々に、ぜひとも原因等を究明していただきたい。

James Ferraro: Troll EP (2017) と、山口美央子4thアルバム「トキサカシマ」の気配

ボードレールの美術批評「一八四五年のサロン」などを見て思ってしまうことのひとつは、「この人、残念な作品らをそれとなく紹介するのがうまい」。意外に社交性とか商売っ気みたいのが、なくもなかったっぽい? ただしそれらが、実の世間にはまったく通用しなかったようだが!
そこで自分もボードレールを見習いたいけれど、しかし見習ってなお、もっとひどいオチがつきそうなことは目に見えている。でも……。

で、以下もまた、グーグルさんがチョイスしてくれた《ヴェイパーウェイヴ》関連の最新情報らしいんだけど()。

──山口美央子、35年ぶりとなる4thアルバム『トキサカシマ』 松武秀樹との制作過程を語る──
テクノポップ旋風吹き荒れる80年代に登場し、3枚のアルバムをリリースした”シンセの歌姫”こと山口美央子が、実に35年ぶりとなる通算4枚目のオリジナルアルバム『トキサカシマ』をリリースする。(中略)
松武秀樹(Logic System)と共に作り上げたサウンドスケープは、ヴェイパーウェイヴやフューチャーベースなどに親しむ若い層にもきっと響くことだろう。(2018.12.27)

という、この記事の2ページめでアルバムからのサンプル2曲の動画を視聴できるが、しかしこれらは<ヴェイパーウェイヴやフューチャーベースなどに親しむ若い層>に対して、どうなのだろうか? いやそのリアクションはまったく想像もつかないが、自分としては「まあいいけど、1990年代にもあったようなサウンドだな」……という感想になってしまう。

ただしヴェイパー等をムリヤリにねじ込んできた人の気持ちも分かるので、もしこれが「オールドファンが待望・感涙!」というだけの話で終わっていたら、まったくもってつまらない、身もフタもない。だから、ウソでもいいので現在や未来らにつながる感じを出しておきたかった、その気持ちは分かる。気持ちは。
ただしさいしょにヴェイパーなんて言い出したことが逆に、「聞いてみたら古いじゃねーか」という受け手の反応を誘発している。……諸刃の刃ッ! うかつに振り廻すものじゃないらしい。

ならば、負けずに自分も関係なさそうな話をねじ込んでみると、この記事を発見したとき、ちょうど「James Ferraro: Troll EP」(2017)を聞いているところだった。ジェームズ・フェラーロはヴェイピストそのものではないが、そこに大きな影響を与えたとされるアーティスト。

このフェラーロはまったく型にはまらない創造者で、そのこんにちまでの作風は大まかに、超ローファイなインディロック→シンセポップ→ネオクラシカル、くらいな感じで変遷しているもよう。そのコンセプトやアチチュードといった部分には一貫性がありそうにしても、しかしスタイルが大きィ〜く変わっている。そしてシンセポップ時代の代表作「Far Side Virtual」(2011)が、ヴェイパーウェイヴの誕生を予告したものと高く評価されている。

そして「Troll EP」は、スタイル的にはシンセポップの部類に入りそうなミニアルバムだが、しかし名作「Far Side Virtual」あたりに比べたらひじょうに混沌とした──実に自由な──正直よくは分かりきれないしろもの。だがしかし、全5曲中の第2曲と第4曲あたりには女声ボーカルが入っており、そして調性感がなくもないメロディをごひろうするので、わりと親しみやすい。
このボーカルを提供した歌手が何ものなのかは、判明していないようだ。《レジデント・アドバイザー》のレビュアーは「ボーカロイドか?」と書いているが、でもあまり確信もなさそう。かつその唄、歌詞は英語のようでもあるけど内容はよく聞きとれない、とのこと()。

そして、そのオリエンタルなニュアンスをたたえるマシーンめいた女声ボーカルが、自分の中では、美央子先生の唄声とイメージがピタリ重なるのだった。まあ客観的にも、ぜんぜん似てないということはないだろう。
で、それと「トキサカシマ」の動画とを、入れ替わりで再生していたら、一瞬にしたって、ほんとうに区別がついてない状態に陥った。それで、あれぇ美央子先生の新作いいじゃん!?……なんて思ってしまったんだけど!

じっさい美央子先生は「Troll EP」くらいの新しい自由なことをやるべきだったので、古くさいポップのフォーマットを守っているだけの表面的な新作とか意味ない。そうじゃないならオールドファンらが悦ぶだけ、そのいっぽうの<ヴェイパーウェイヴやフューチャーベースなどに親しむ若い層>へのアピールなどムリなのでは?
かつ、実のところわざわざスタジオに入るまでのこともなかったようなところで、むかしの音源らをグチャグチャに崩して再構成してしまうだけでも面白い、表面的な創作よりも、よほど。……といった、そこまでの発想の転換を期待してしまうのはムリ難題なのだろうか?

と、あの、いや……。わが心の師匠ボードレールを見習って、ムムッと思うところでも、マイルドな評言を工夫するつもりだったのに。いや美央子先生の楽才や感性の鋭さなどは信じきっているので、ぜひこの次の作品ではプラスしてナウなところを、と……。

ヴェイパーウェイヴの洗礼のヨハネさん、ジェームズ・フェラーロと出遭い直したい件

キーワード《ヴェイパーウェイヴ》で新しい話を検索したらヒットしたウェブページだけど、しかし実体をよく見たら、ヴェイパーウェイヴという語を含んでいない。たぶんこのへんが、グーグルさんのシステムの利便性=ウットーしさ。
《ジェームズ・フェラーロ》すなわちミスター・ヴェイパーみたいな人であろう、という独自の判断でガイドされているもよう。その判断の是非は別とし、まあこの場合は自分に利便だったのでよしとするも。

<ジェームス・フェラーロとショッピング モールの美学 - SSENSE 日本>(

この記事を見たらフェラーロを自分なりに捉え直したくなったので、そこで、主要であるっぽい彼の作品らを聞き直し始めたら、前に聞いた時とずいぶん印象が違うところが…。
少し考えをまとめて次の記事にしたい。