ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

James Ferraro: Night Dolls with Hairspray (2010) - 校長センセイがド変態!

われらがヴェイパーウェイヴのほうから見て縁のあるアーティスト、ジェームズ・フェラーロ。彼による超イカしたロックンロール・アルバム「ナイトドールズ・ウィズ・ヘアスプレー」(2010)を評してみる、だがその前にちょっとしたゴタクを……。

1. 気持ちよくなるための装置としての《ジャンル》 と、その否定

……生まれて初めて聞いたロックンロール・バンドのナマ演奏は忘れない。地元の町内文化祭のしょっぱいステージで、しかもどういうわけか、ベースギターとドラムだけが、ブホブホブフォン、ドダバタドゥン、と鳴っているライブだった気がするのだが、ギター兼ボーカルの人が病欠でもしてたのだろうか?
しかしそれでも子どもの自分は、「やッべぇぇ〜! この音クソカッコいい〜!」とシビれまくった。とくに、床から脳天に向かって突き上げるベースの響き! それ以来のベース好きなのだった。

そのように、曲っていうほどの楽曲もなく、ベースとドラムのみがドデデドデン、ドチャズチャズン、とビートを刻んでいるだけで気持ちがいいし、ノレるし踊れる、むしろ唄とか要らない。そういう感じ方も、いまだと逆にふつうな気もするが。
かくして音楽というのはそれぞれのジャンルで、楽曲以前の気持ちよくなるための装置をあらかじめ用意している、というかその用意された装置らが《ジャンル》の実体なのだ、という気がしてくる。いや自分の信念としては楽曲がもっとも重要なのだが、しかしそれ以前にも何かが大いにあるな、と。

だいたいわれらのヴェイパーウェイヴにしたって、「遅くしてリバーブ音を付加すると、なぜかイイ感じじゃない?」というていどの装置が用意された上で、どうにか成り立っている感じ。そこらにヴェイパーの気持ちよさの核が、少なくともそのひとつがあるだろう。
ゆえに、「とりあえず人の曲を遅くしてみた」ていどのしろものが、いちおうはヴェイパーっぽく聞こえてしまうのも、ちょっとしょうがないことではあるっぽい。

ところが。ところがそういう装置らのご用意を、あえてまるっきり放棄してくれちゃっているのがジェームズ・フェラーロというお人なのか、と思えてきた。ゆえにその音楽らは、常にジャンル分け困難であり、しかも気持ちのよさにかなり乏しい、のでは……。
修行だと思ってアレらをず〜っと聞いてるうちに、そういう考えに到達したのだ。とくに、約120分間もノイズっぽいのがタレ流されている系の大作「Rerex」(2009)を聞き通したのが実に修行チックだった、イヤハヤ。

別の記事でご紹介したフェラーロさんのインタビュー()、そのお話はかなりごもっともであり共感できるとしても、しかしそこで語られるコンセプトと、いっぽう現に提示されているサウンドらとの関係は、きわめてつかみにくい。
フェラーロの考えていることは初期からわりと一貫しているようなのに、しかし出ているサウンドらは、インダス風、サイケ風、コラージュ風、ローファイロック風、シンセポップ風、そしてネオクラシカル風と、バラエティがありすぎ。たぶんフェラーロさんのコンセプトと各手法らをつないでいる経路が、自分のような凡人には視えていない。

《手法》とただいま申し上げたが、じっさいフェラーロは多様な音楽のジャンルに手を出しているわけではない。各ジャンルそれぞれの美学を意に介していないのだから。
よってそのインタビューで本人が、ジャンル分けされることに対して強く抵抗しているのは、“逆に”正当だ、と言える。何かのジャンルの《風》ではあっても、それ自体であることがまったくない。

2. 《ポップアート》ヴェイパー vs. 《コンセプチュアルアート》フェラーロ?

さて。何か自分がかん違い・読み違いしていることが大いにありえそうだが、ともあれ仮にフェラーロの方法を、このように言い換えてみたとする。

<機能不全のポピュラー音楽モドキ──ただしポップ特有の蠱惑(こわく)性はキープされているものとする──の捏造と、そのむやみな流通が、なぜなのか高度情報資本主義の欺瞞と脆弱性をあばきたてることを期待>

その後段の、効果のところはいざ知らずとしてだ。前段である、<機能不全のポピュラー音楽モドキ──ただしポップ特有の蠱惑性はキープされているものとする──の捏造>というところで、フェラーロは常に成功しているのだろうか?

言うまでもなく、その最大の成功例が、かの「Far Side Virtual」(2011)。もしもそのアルバムが存在しなかったら、自分らがフェラーロのことを気にかける理由も存在しなくなる。

まあその? われわれのヴェイパーウェイヴが現代美術の《ポップアート》とか《アプロプリエーション》に相当するところあるとすると、フェラーロは《コンセプチュアルアート》にまでイッちゃっているのかも知れない。
ポップアートにしてもコンセプトのあるアートではありつつ、しかし見た目の平俗でストレートな快さに訴えるところも大いにある、ちょっとズルい、もしくは商売がうまいのだが。けれど、そのいっぽうのコンセプチュアルアートまで行くと、もはや感覚に訴えるところがまったくない(はず)。

3. ことばとしてのみ呼び出される、甘美さを喪った《快楽》……

いや、ここでやっと、伝説のロックンロール・アルバム「ナイトドールズ・ウィズ・ヘアスプレー」の話になる。で、まず、その楽曲らはかなりいい、面白い。いちばん印象に残るトラック「Leather High School」は、ハレンチ学園的なハイスクールのらんちきぶりを描写したナイスナンバー。

校長センセはズボンの下に、女のパンティをはいている
ヤツらはそのケツをぶっ叩く、叩きまくる、血が出るまで
レザー・ハイスクール、レザー・ハイスクール
わたしを教室でムチ打て

また、これがきわめてローファイなオルタナ・ロック(風)ということで、比較の対象になりそうなハーフ・ジャパニーズやゴッド・イズ・マイ・コパイロットあたりとも聞き比べてみたが。むろん、こちらによっぽどのキレがある。
あちらのアレらはプライベートな頭のおかしさをごひろうしてるだけ、みたいなものだけど──ゆえに、他人の下着のシミを眺めてるみたいな気分にさせられるのだが──、そうではなく「ナイトドールズ・ウィズ・ヘアスプレー」は、社会をターゲットにブチかましている。とんでもなく時代をジャンプして、初期パンクのさわやかPOPな反逆スピリットを現前させているようなところがある。

だがしかし、なまじ楽曲や演奏らがいいだけに、作為的で過剰なローファイさが感覚的な気持ちよさを消し去っていることには共感できづらい、という感想にもなってしまう。あまりその意図が分からず、また手段も分からなくて、そもそもカセットテープ等のおチープな手段だけで録音したとしても、ここまでパサパサしたヘンな音にはならないはずだし。

ポップアートのポップさがわざわざ打ち消されているような、実にヘンな感じ……。ただしフェラーロの方法がこういうものなのかも知れず、感覚的な快楽は否定していくということ、なのだろうか?

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

……ってすみません、「ここはかしこい人が見るブログだから、話はもう通じてるはず」と思って、以上のところでいったん終わりにしてたのだけど。だが、それはやや無責任かと思い直し、以下を補足。
つまりさいしょに述べた気持ちよさの装置(ら)を、フェラーロさんはムリにでも無効にしているな、と。ここでついついよけいなことを考えてしまうと、ふだんフェラーロはどんな音楽を聞いているのだろうか? そもそも、音楽に感動しちゃったりしたことがあるのだろうか?

<アングル氏の作品は、過度の注意の結果するところであって、理解されるためにも、等しい注意を要求する。苦痛の娘たちであって、自らも苦痛を産み出す。>
────ボードレール「一八四六年のサロン」(1846)

まあそんなことは大きなお世話でよけいな想像だとしても、彼が意地でも音楽から快楽を追放している、それはストイシズムなのか方法論の徹底なのか、はたまた単なる意地悪なのか……。とにかくすごい人いるなと、自分は感心してしまうばかりなのだった。