ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

猿渡哲也『TOUGH―タフ―』 - “遥かなるアフリカ編”より、私たちへと向けて

私たちの猿渡哲也先生、バイオレンスアクション劇画のゆるぎなき第一人者……。
その一連の傑作らを代表する崇高さのきわまり『タフ』シリーズについては、皆さまもよくご存じのことでしょう。知らないとは言わせません!

そして。いまここでは、シリーズの第二作である『TOUGH―タフ―』から、およそひとつのエピソードを見てまいりましょう。

【挿入されたまえがき】 すみません、あとで自分で読み返してみて〈流れがとても分かりにくい!〉と痛感しましたので、少しまえせつを追加させていただきます!

……名著『人間不平等起源論』(1755)にてJ-J・ルソーさんは、〈原始の人間らはみな平等で平和的だったのに、追って文化や社会の発達が、不平等と戦争をそこへもたらした〉──のようなことを主張されていそうです。

そういうものかなと、私もばくぜんと思っていましたが……。

しかし、〈そうなのかなあ?〉と、強く疑問が生じてきたのは、後日ですけどユーゴ戦争のことを少し調べたりしてからでしょうか。
それが、《本能》であるとか、《本質》であるとかの、雑な決めつけはしませんが。しかし人間らの中に、総称しての《暴力》──たとえば、殺人・略奪・レイプなど──をいとわない傾向は、確かにある、と考えられる。

仮にその傾向が、百人の中に数人あるくらいの相対的にマイナーなものだったとしても、です。しかし彼らの暴力行使を抑制する仕組みがなかったら、いずれ集団の全体に暴力が横行、となってしまうでしょう。

ですので、《文化》というものは、ひとまずそういう暴力を抑止するためにある、とも考えられる。
ここで私が言う文化とは、フロイトさんが『文化への不満』(1930)で叙述されている《文化》です。

そうして、人類の全体は、暴力を行使しない《文化》の確立に向かい、少しずつですが向上しつつある、のようにも言えなくない……のでしょうか?

『TOUGH―タフ―』単行本の、30巻。そのなかば、ヒーローである《宮沢熹一》らの潜在的なライバルとして、《日下部覚吾〔くさかべ・かくご〕》という人物が、ストーリー内に浮上します。
この覚吾さんは、秘伝の必殺武術《幽玄真影流》の、ナンバー1の使い手です。怖ろしいまでの強さを持っていそうなことが、風評のみでいきなり明らかです。

じっさいここから、シリーズ第二作『TOUGH―タフ―』の結末まで、覚吾さんは重要な役割を担いつづけます。
そのいっぽう、私たちが《キー坊》と呼んで愛する熹一くん。彼たちの流派は《灘真影流〔なだ・しんかげりゅう〕》であり、〈あちらの側は陰に対立している支流派である〉と、お互いに考えているようです。

で、さて。お話の中で覚吾さんの名前が出ると、劇画の叙述は、彼本人による回想シーンへと展開します。
どれほどむかしのことなのか、ある時期の覚吾さんは、東アフリカの某国に暮らしていました。そこでのエピソードに、“遥かなるアフリカ編”というサブタイトルが与えられています。
そしてその某国は、果てしなく引きつづく凄惨な紛争の中にあり、そして飢えと貧困と理不尽な暴力が、そこを支配していました。そのようなアフリカ某国にたどりついた理由を、覚吾さんは、こう考えます。

子供達に日本武術を教え心身ともに健全になって欲しい…
ちょっとした社会貢献のつもりだった
苦しんでいる人たちの力になりたかった
気がつけばこの世界最貧国に流れ着いた
(“遥かなるアフリカ編③” 運命の引き金)

しかし彼は、その想いを、すぐに自分で打ち消さないことができません。

健全…? 笑わせるな
生きるか死ぬかの戦争のまっただ中で何が健全だ

しかもそれが、通常の意味での〈戦争〉でさえもない、ということに注意すべきでしょう。

覚吾さんと子どもたち
覚吾さんと子どもたち

とは、この某国には、〈6つの氏族 16の準氏族〉が存在し……。そして、〈1960年の独立から 常に氏族間での 覇権争いが続いていた〉、とか。
つまり人々の氏族への帰属感が強固すぎて、《国民意識》というものが存在していない、ということのようです。ゆえに、氏族が違えば同国人らがへいきで奪いあい殺しあう……。

これは、現実のアフリカにもあることです。われらが猿渡先生の認識と描写は、きわめてリアルです。

そしてそのようになっている、その理由や責任らの半分は、ヨーロッパの旧宗主国らにあります。
征服欲にかられた彼らがアフリカを分割支配した、そのときのかってな山分けの境界線が、現地の事情を無視した、現在までの国境線となっているからです。

そして、そういう氏族らの争いに、当時の〈米ソ〉が介入。武器らの供与などをした結果、いっそう内戦は激しさを増し……。それでもう、めちゃくちゃでしかない状態に、この某国はあります。

強盗 略奪 誘拐 レイプ 殺人…
より悪事を働いた者が英雄となる世界

そのようにしか言えない国で、私たちの覚吾さんは──。
比較的まともそうな人々が暮らす難民キャンプにて、たぶん武術の基礎と精神を子どもらに教え、あわせて、その人々の生活を守ろうともしていますが──。

しかし、どうにもできません。

エピソードの冒頭、現地の〈警察〉を名のっている事実上のギャング団が、難民たちへの支援物資らを略奪し、独占しようとします。返せと言っても返さないし乱暴してくるので、覚吾さんは──おそらく不本意ながら──、実力行使で物資らを奪回します。

悪徳!カブドゥル署長
悪徳!カブドゥル署長

するとやがて、報復のため、その上の〈署長〉を名のる人物が出現。そしてロケットランチャーまでを撃ちまくるので(!)、そこでさすがの覚吾さんも、あえなく捕縛されてしまいます。

そして囚われの覚吾さんに、署長さんが死刑を宣告します。そして、その執行人としてその場に引きだされたのは……。
難民キャンプで暮らしていた子ども、とてもよく覚吾さんになついていた少年である、《イッサ》くんでした。
ここで覚吾さんを殺さなければ、まずお前を殺すと、イッサくんは脅迫されているのです。

……もともとイッサくんは、彼たちのキャンプを縄張り扱いしているゴロツキ私兵団から、スカウトされつづけていました。
小さな少年も7歳くらいになれば、人殺しグループに加わる資格は十分──、というのが、そのやからの見方なのです。
で、このとき、死の脅迫をもって、イッサくんはそれを命じられたのです。

それらの事情を察してか、覚吾さんは、とうてい耐えられない恐れと罪悪感にふるえるイッサくんに対し、自分を〈撃て〉、と言います。
イッサくんが彼の小さな手に持たされている、怖ろしい自動ライフル銃を、〈しっかり狙って撃て〉、と。
そしてイッサくんは、ついに引き金を弾いてしまいます。

……そして、まあ、この……。ストーリー的には、〈しっかり狙って〉撃てという発言が、ひとつの伏線です。
ややネタバレくさいことを、述べてしまえば。ここでイッサくんが、ターゲットの胴体の中央あたりを〈しっかり狙って〉撃った、それゆえに──。覚吾さんは、達人の眼力でその弾道を察知し、そして適切な対応ができたのでした。

ですが。するとこのさい、イッサくんの側の──強いられたものではあるにしろ──《殺意》の存在は、否定できない、ということになります。
何という哀しい、この《成功》でしょうか!?

そしてここから、形勢が逆転。幽玄真影流の誇る殺人技の数々をもって、覚吾さんが署長さんらのド外道一味を皆殺しか何かに──、いいことであり、また私たちの胸がすく場面でもありますが。
しかし、それでどうなるのでしょう?

この署長さん一派を根絶したとしても、また別の派の外道らが、その後継としてのさばり始めるだけでしょう、おそらく──このような国にあっては。

それやこれやを分かっていてか、覚吾さんは死闘のさなかに、独り自問しはじめます。

この悲惨すぎる国に自分がやってきた理由、その真の動機は、むしろこうした死闘こそを求めて、だったのではなかろうか、と……。
極限にまで鍛えぬいた身体をもって、幽玄の必殺技らをぞんぶんに行使し、他者らを破壊し無力化すること──、それを《享楽》したかったのではないか──と。

そして、“そのこと”にいそしむ彼の姿は、まるで《鬼》にでも見えたもようです。
署長さんおよびその配下らを制圧しおえた覚吾さんが、ぼうぜんと座りこんでいるイッサくんに、〈大丈夫か〉と、声をかけます。しかし少年はただおびえるだけ、ライフルをその場に放り出し、どこかへと逃げさってしまいます。

そして……。

ああ、私たちの覚吾さん。その地獄めぐりはこんなところではまだ終わらず、さらにいろいろとあり、そして“プラハ編”と呼べそうなところへ続くのですが……。
べつにアフリカのほうだけではなく、ヨーロッパの文明社会の裏側にも腐れド外道どもが、うじゃうじゃと──ということが、そこでは描かれますが……。

……しかし。
いくらおタフが稀代&至上の名作で傑作だからといって、私ごときのうまくもない説明が、もう長すぎているですよね? いや、つい。

では、もう、つまり。

われらが灘や幽玄の達人たちは、自動ライフルで武装したギャング団あたりにも負けない、というか勝てる、一種のスーパーマンだとして。
ゆえに局面の事象を解決できはするが、しかし、社会や国家までをどうにかすることは、できないのです。

何かヒーローめいた人物が、悪党や外道らを皆殺か何かしさえすれば、すべて“問題”は解決し、社会も世界もよくなる……?
そんなのんきな空想を描いているお子さま向けのマンガやアニメとは、まったく異なるのです。この現実の世界──および、それを迫真のペンで活写されている猿渡先生の卓越した劇画作品たちは。

そして前記のような苦い認識を、キャラクターとして端的にあらわしているのが、現在の灘一族の良心とも見られる、キー坊の父《静虎〔せいこ〕》さんです。

彼は誰よりも正しい心を持ち、技と力の鍛錬をつねに欠かさず、そして悪の存在を哀しみ憎んでいます。
しかしその力をもって、すすんで悪をせん滅しよう、などとはしません。また〈正しいこと〉みたいな考えを、広く他者に押しつけようともしません。

それらの代わりにふだん静虎さんがしていることは、灘の活殺術の《活》の部分である指圧などの施術、そして地道さをきわめた町の美化清掃活動です。
おのが力をもって社会に《正義》を実現しようなどということは、一種の越権、そしていずれは単なる不法な暴力へと堕ちる……。それを理解しているのでしょう。

かつまた。静虎さんの双子の兄であり、『タフ』シリーズ中のトリックスター/かき廻し役として悪名高い、あの《鬼龍〔きりゅう〕》さん……。
この人にしても、少し似たようなことを思っているふしがあります。

まず何よりも《善》を想う静虎さんとは異なり、鬼龍さんが何よりも愛するものは、《美》であるようです。
ところがここまでにも見てきたように、醜悪すぎるものがこの世界には、あまりにも数多い……。

そして、いくら鬼龍さんが強くとも──ある時期には作中で最強とさえも思われましたが──、この世界の中の醜悪な要素らを、根絶などはできようもありません。
その苦悩が彼をして、その数々の過剰な露悪的行為らに走らせているのだろうか、とも考えられる。

いやまあ、〈露悪趣味〉などという愛きょうありげなことばで片づくような、そんなはんぱな悪さだけをしているのでは、まったくありませんが!

そうとはしても、《悪》は鬼龍さんにとって何かの手段ではなくて、あるひとつの目的です。彼の中の何かが──おそらくは《美学》が──鬼龍さんに対し、《悪》を生きることを命じているかのようなのです。
……そういうところも分からなくはないとして、だが、いつもやりすぎですが!

しかしまあ、作中人物らのことは、ひとまずはいいでしょう。魅力ある存在としてリアリティをそなえ立体的に描かれているとはいえ、実在はしない──むしろ実在しようがない──ものたちなのですから。
いっぽうで私たちを囲むものとして実在しているのは、猿渡先生が描かれているとおりの、この世界です。

灘や幽玄のスーパーマンたちであったとしても変えられない、この世界を私たちは、いかにして少しでもよく、より美しくすることができるのでしょうか。
静虎さんばりの、忍び耐えつづける強さ──その人を評して覚吾さんは、誠実な人格者、〈“忍辱〔にんにく〕”の衣を纏〔まと〕っている〉、と言いました──それが、私たちの一人ひとりに求められているのでしょうか。

【挿入されたあとがき】 ハイ! またお会いしましたね、そしてさいごに。

……『タフ』シリーズの主人公たち、覚吾さんをも含めたこちら側の人物たちはみな、格闘技ごときではない極限の《殺人術》の鍛錬にはげんで──というか、人生の“すべて”をそれに捧げています。
なぜそんなことをしているのかといえば、〈支配されないため、暴力に屈しないため〉、というのが答になるでしょう。

その姿勢が、どこまですじの通ったものだろうか、ということは、いまひとまず問いません。

ですがそれにしても、覚吾さんほどの高潔な人でさえもが、そうは言うけど実は《無意識》において暴力を好み、その行使を愉しんでいる、ということを自覚させられるのです。

手段はともあれ、対象はともあれ、また《正義》やら何やらの口実たちはともあれ……他者らを制し、傷つけ、無力化すること──その悦びから私たちは、いつ自由になれるのでしょうか?
せめてそれらを、まあリングの中の格闘技あたりへと、すっかり囲いこんでしまうことは可能なのでしょうか? 《文化への不満》を、どうにかごまかし通そうとするための文化の樹立……。

というか、実は、あまりこういうふうにまとめたくなくて。

『タフ』シリーズをはじめとする猿渡先生の傑作劇画たちは、現実の世界そのものです。無数のアングルからそれを、いかようにも見ることができます。
よってここまでに申し上げてきたことらも、私というごく小さな視点からの見え方たちの、いくつかでしかありませんのです。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

【付記】 以下は余談でありかつ、一種のネタバレそのものです。本編を未読の方々は、それをご承知の上、ご閲覧をご検討ください。

……おタフ連作の第一弾、『高校鉄拳伝タフ』の8巻で、ある人に対してキー坊が、次のように自己紹介しています(第76話)。

ボク宮沢熹一ですっ
昭和51年生まれのセブンティー

というキー坊のご主張を、いちおう信じてまいりましょう。

だとすると……いっぽうの覚吾さんのプラハ滞在は、1975年あたりのことである、と考えられる。なぜなのか、そういう計算にもなるのです。
そして、そうとすると。その当時、社会主義チェコスロバキアの首都だったプラハが、〈こうだったのかなあ?〉という気も少しするのですが……。しかしまったく私の気のせいですね!