〈逆張り芸人〉と呼ばれる方々が、インターネットの言論空間めいたところには、大いに栄えているらしい──。というお話も、例により、知と真実しかない空間と呼ばれる《タフスレ》で知ったことなのです(☆)。
そして。そういうことばを憶えてから、〈自分にもできないかなあ?〉……と、心のすみで、ずっと考えつづけているんですよね!
何しろ私は少年のころから、ひねくれ者であまのじゃく、ようは変わり者だとの、定評を誇っている人物です。その《個性》を大いに活用し、ちょっとは名を挙げたい──みたいなことは、少し考えないでもありません。
ところが意外に、これだと思える〈逆張り案件〉が、見つかってこないんですよね!
むしろヴェイパーウェイヴその他、まったくもって珍奇さとアンダーグラウンドさがきわまった音楽(もどき)などをご紹介しつづけていることが、すでに〈逆張り〉のきわまりッ!?
……そこに、“すべて”がつきている……のような気さえも、してきます。
ともあれそんな、〈逆張り芸人〉のスピリットからすれば──。
先日ご紹介した、ニッポンを代表するJポップの音楽業者《O山田・K-Go》さんのことにしても(★)、以下の感じに言うべきだったのでしょうか。
この人物を、東京五輪2020の音楽担当から、降ろしてはならない!
いじめ大国/人権意識が中世レベルのニッポン国──その揚々たる国威を、全世界に知らしめるために!
そしてこの、恥辱にまみれた汚いオリンピックのシンボルとでもせよ!!
……まったくいやはや、耐えられんねェ、です。意外に私は、〈逆張り芸人〉の素質に欠けているのかも知れません。
ちなみに、試行された〈逆張り〉の内容は……。2006年サッカーW杯ドイツ大会におけるジネディーヌ・ジダン氏の劣悪な愚行を、ちょっと擁護してないでもない感じのボードリヤールさんのテクストを、やや参考にしました(★)。うまくないにしても。
ところで、《O山田・K-Go》さんのことに戻ると──いや、何度も戻りたくなるような面白いお話では、まったくないんですが──。
彼がどうであれ、事情がどうあれ、〈“ネットリンチ”はよくないゾ〉、などと、述べている方もいるようです(☆)。この方もまた、そうした〈逆張り芸人〉たちの、はえある一員なのでしょうか?
しかし、私は。その高みからの目線で《現象》らをくくった〈ネットリンチ〉なる用語の使用に、きわめて大きな違和感を覚えたのです。
かつまた。ことによったら、私の書いた記事なども、その〈ネットリンチ〉の一環であるくらいに、少し言われた気もしないではなくて。
いや、そもそもの話、〈ネットリンチ〉とは何なのでしょう? ちゃんとした定義ができている、その上でのご発言なのでしょうか?
そうして私は、〈下から〉でしか──、具体性ある個物たちからでしか、ものを見られず、考えられない人間です。
そういえば関連する記事で、某三流大の社会学科にいたことがあるなどと、つまらぬ自供をしましたが。しかも《社会学》とは何なのか、ほとんど分からぬまま卒業してしまったことをも、ついでに白状します。
大学なんかに入ろうとしていたころの自分は、《社会》というものが実在し、かつそれを操作できる可能性がある……といった厨二くさい想念にとらわれていたのでしょう。きっと。
追ってそれから、《精神分析》──私が興味を感じつづけています。これは心理学の一種ではぜんぜんないし、まして哲学でもないです。人間操作のマニュアルでもなく、抽象的で高尚なトークでもありません。
まず、目の前のクライアントたち──ジャック・ラカンさんに由来する学派では、その方たちを《分析主体》と呼びます──その個々が苦しんでいることに対し、何ができるか、何をなすべきか? 分析はそこに始まり、そこに終わるもののようです。
ですがそのさい、やみくもの場当たりだけで対応するのも不誠実。ゆえに、《理論》みたいなものが練られないことはありません。
そうして、話を戻しますと、〈ネットリンチ〉とは何なのでしょうか? 〈上から目線〉の抽象的なおしゃべりをにがてとする私は、まず個々人らの行動に着目することからしか、話を始められません。
……まず、前提として。《基本的人権》とやらを認められている国家の成員らには、〈思想・言論・表現の自由〉のような権利が、あると考えられます。
そして私たちが、ネットの掲示板やSNSなどに何やらを書き込むことも、そういう権利の行使だと言えそうです。
ですが、そのいっぽう。以下はニッポン国の話ですが、言論について、完全に無制限の権利や自由があるのではありません。
法律上の罪として罰せられる可能性がある──、そういう種類の発言があるということを、私たちは憶えておかなければなりません。
そこらの詳しい説明は、法の専門家たちにゆずりますが。ひとまず、発言に対して与えられうる刑事罰として、〈名誉毀損罪/侮辱罪/信用毀損罪〉が、あるとされます(☆)。
であるので、そうした罪をなす発言たちを、なさないべき。そのいっぽうで、それをなす個々人らが、取り締まられたらよいわけです。
どうであれ個々人の発言は、個々人らによる個々の発言です。その中に非合法や不適切なものがないかどうかは、個々についてしか判断できません。そして個々人に、その責任を求めたらよいでしょう。
実に明快と、いちおう思えます。〈ネットリンチ〉なる抽象的であいまいさをきわめた聞いたふうで粗雑な用語、その登場する必要性が、どこにあるのでしょう?
であるので、問題は何もない──とまで考えているのでは、ないのですが!
たとえばの話。〈死ね!〉との発言があったなら、それは侮辱罪を構成するらしいですが。しかしそれを婉曲化し、〈あなたのような人が生きていることに、やや疑問が感じられなくはありません〉とでも、言ったなら?
しかもそうした陰険なメッセージが、ほぼ毎日のように送りつけられるとしたら?
じっさい世の中にはそういういうこともあり、そういう人もいて、そのことをネットは過剰に可視化する──。そういうものだと、考えるしかないでしょう。避けるとすれば、まず身を慎み、そして発言を慎むべきでしょう。避けようとするならば!
いっぽうメカニカルな対処として、SNSならコメントやリプライを不可能とする、それも一策です。とはいえ、5ちゃんねるや〈ヤフコメ〉あたりでの〈炎上〉は、阻止できません。ですが、ダイレクトでなければ、やや心理的にましかも?
……ここで、どういうわけか、梶原一騎先生の名作たちが思い出されます。
あまり意識されていないようですが一騎先生は、メディアが代弁する私たち大衆──あるいは“やじうま”──、その視線のきびしさと冷たさを、繰り返しその名作たちに、描き込んでいます。
すなわち。飛雄馬くんやジョーくんたちが、多大な努力のかいあって競技での勝利を重ね、スターダムに乗る。するとスポーツ紙らのメディアは、実にいい調子で彼らを賞賛します。
ですけど彼らに、つまづきが生じたら、とうぜん手のひらをくるりです!
そして昨日のヒーローたちが、いま〈結果を出す〉ということができていない理由は、無数に考えられます。慢心、怠惰、そもそもの才能のなさ、人格のいたらなさ!
それらをメディアは豊かに想像し、そして面白おかしく書きたてます。いっぽう、不振のかげで私たちのヒーローたちが、どういう大きな努力や苦悩をしていたとしても、それが何なのでしょう?
ですが、そういうものであるしか、ありません。
そうして飛雄馬くんにしろジョーくんにしろ、物語の終盤では、一種のニヒリズムめいた心境にいたっている──その描写の重さ。
しかし現在のスポーツ紙的なメディアは、また違います。〈ネットではもっぱら、かくかくの悪評が……〉と、責任の生じない形式でどういう苦労もなしに、墜ちた英雄らをディスって私たちを悦ばすことが、大いに可能です。
まさに、〈ネットは万能〉の時代が到来してしまったのでしょう。
というか、テクノロジーが変わっても《人間》なるものは、古典文学の時代から、まったく変わっておりません。私たち現代の大衆は、ギリシア悲劇らに登場する、おセンチで無責任な《コロス》です。
……インターネットの登場と普及は、人が一夜にしてスターになれる可能性を、まあ、拓きました。
たとえば。名もなき少女らしかった人が、SoundCloudに自作曲をポストしたことから、すみやかに彼女は《ビリー・アイリッシュ》になった──、のように。まあこのサクセス・ストーリーも、思っていたほどシンプルではないのかもですが。
そして、2021年6月。そのビリーさんが中学生のじぶんに撮影されたらしい〈アジア人差別動画〉なるものが世に出て、彼女のSNSが一時、〈炎上〉しました(☆)。
さいわい対処がまずくなかったようで、現在は鎮火しているかと思いますけれど……。
このように。世に出ることも、そして名誉を失うことも、同じシステムの産物なのです。プラスであろうとマイナスであろうと、〈バズり〉は等価です。
そのことを、前提として。《心理学》でも研究すれば、私たち大衆を巧みに操作し、せめてマイナスのバズりのきわまりを避けることが、可能となるやも知れません。
いや。はっきり言うなら、《心理学》は蔑視していますが。しかし最低限のそれさえ知らないことが〈炎上〉を招き、さらにはそれを大火災としているのでしょう。
そうして私はきょうもまた、何かぐっとくるような〈逆張り案件〉を、まあ、心のすみにおいて探しつづけるのですが……。