エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

Kenny Burrell & Rufus Reid: A La Carte (1985) - 貧しさが生み出す(かも知れない)ものにつき

かの偉大なるジャズギタリストケニー・バレル、1931年・デトロイトにて生誕。この人に関連し、ついつい思い出すお話がある。

アリストパネス古代ギリシア喜劇「福の神」なんだが、そのエピソードの一部を、(記憶に頼って)説明すると──。
すべての人を裕福にして貧しさを根絶する、画期的な方法が発案される。人々はその実現のために、道を急ぐ。
すると彼らの前に立ちはだかったのは、貧乏の女神。彼女は言う。

〈人々よ、お待ちなさい、そして考えてもみなさい。
すべての人が十分な富を手に入れたら、働くものが、いなくなってしまうのではありませんか? パン屋がパンを焼かなくなり、大工が家を建てなくなったら、あなた方はどうやって暮らすのですか?
つまり、あるていどの貧しさは、ただの悪ではなく、むしろ社会に必要なものなのではありませんか?〉

──などと、多少もっとらしいことを言うが、しかしもちろん人々は耳を貸さない。で、そのあとは、本格的なハチャメチャ喜劇が始まってしまう。

さて、このお話がどうしたのかというと? ケニー・バレルのどれかのレコードの解説で、こんな記述を読んだ気がするんだよね。

〈彼の若き時代、おジャズの世界の花形はだんぜんテナーサックス奏者だった。で、ケニー少年もまた、当初はテナー志望だった。
しかし彼の家は貧しく、サクソフォンなどは高価でとうてい購入不可能。ゆえに、安物のギターを鳴らすことから、彼の音楽の道は始まった。〉

いま確認してみたら、まあこれ大筋は事実であるっぽい()。

そして、だ。バレルさんほどの楽才があれば、仮にテナー奏者になっていたとしても、大きな名をなしたのでは、とも考えられる。しかし、オレ的にはギターでよかった。
ギターだから、よかった。〈おジャズの世界の花形〉なんて、いやもうマジでクソ喰らえなんだよね。
で、そうこうとすると、貧乏の女神の申しようも、あながちただの自己弁護ではないのかも? 知れないのか?

それで。ご紹介したいアルバム「ア・ラ・カルト」(1985)は、バレルさんとベース奏者のデュオによるライブアルバム。これはどうもCDとかで出ていない、けっこう珍しいブツのよう。
ゆえにこのArchive.orgの音源も、かなり聞き込んだらしいアナログ盤からのリッピング。針の音がプチプチ入っているが、でもいいよね……!

それとこれ、ライブなんだけど。しかし客席から出るくだらないノイズは、きょくりょくレベルを抑え込まれている。
そのことが、また実に正しい。〈おジャズの世界の花形〉が、ブヘェ〜、ボヘェ〜、とオモシロい《ブローイング》をカマしまくる、そのテの音楽とはモノが違うんだから。

まあほんと、こんなの聞いてると、むかしはいい音楽があったし、また音楽を分かっている人たちがいた、みたいな気がしてきちゃうよね。いま21世紀の音楽めいた何か等は、それらのパロディでしかないのかも。
で、そうであるゆえ自分は、開き直った悪ふざけのインチキなパロディ音楽(もどき)、すなわちヴェイパーウェイヴに、一定のヘンな正しさ、逆の道義性を、ちょっと感じているのか。

そしてこのような21世紀音楽の貧しさ、あるいはそれもただの悪ではなく、次の《何か》を生み出すために必要なこと──だったりしているのだろうか?