ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

書評:ジョン・マウチェリ「指揮者は何を考えているか」(2019, 白水社) / ハーマン「サイコ組曲」 by マウチェリ

ジョン・マウチェリ「指揮者は何を考えているか」、これは図書館でたまたま目についた本だけど興味深かった。けっこうその内容が頭にこびりついているので、記憶に頼ってその一部をご紹介。
なお著者のマウチェリは1945年生のアメリカ人で、レナード・バーンスタインの弟子らしくも見られる指揮者。その録音での大きな功績は、英デッカ社の「退廃音楽」(ナチスによって弾圧禁圧されたレパートリーら)シリーズのコルンゴルト作品など。
さて、そのマウチェリさんによれば──。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

〈いやしくも指揮者であれば誰でも、長大複雑な楽曲のブ厚い総譜(スコア)の隅々までをも研究し、考えぬいた上で、それぞれの解釈をひねり出している。そりゃもう苦労しているのである。
ところが一部評論家の方々は、楽譜の1ページをも見ることなしに、「俺のお気に入りの名演とは解釈が違うから」と軽〜くダメを出してくださる。〉

ストラヴィンスキーの自作自演盤を聞くと、作曲者本人であっても必ず最善の解釈やディレクションができるわけではない、という事実への分かりみが深い。〉

〈ある夜プッチーニか誰かのオペラを振って、しかし歌手や楽団が棒についてきてくれず、さんざんな演奏に終わり、私は激おこ
そこで楽屋で関係者に当たり散らしてやろうとしたら、逆に彼らが口々に言った。
「ジョン! すばらしかったよ!」
「このレパートリーを何百回聞いたか分からないけど、今夜が最高だわ!」
「涙、ただもう感涙!」
……まったくわけが分からないが、こういうリアクションはまれによくある。そしてその逆に、自分自身にとっての会心の演奏ができたとしても……?〉

フルトヴェングラーが戦後間もないドイツでベトベン《合唱》か何かを振ったとき、その終盤、棒がエキサイトし過ぎてオケがまったくついていけず、とんだズッコケ交響曲になった。後年それをレコードで聞いて、少年時代の私と友人らは大爆笑
ところが演奏時の聴衆らはこれに強く深く感動し、偉大なるマエストロの歴史的名演としてずっと語り継いでいるのだ。こういうコンサート会場の魔術というのは実在する。〉
(そしてそんな“魔術”をしりぞけたグレン・グールドの態度にも、著者は一定の理解を示していたように記憶)

〈オーケストラ運営の上層部には現代音楽の信奉者がけっこう多く、そういうレパートリーを強く推してくる。だが演奏者であるこちら側の感じ方は、正直「どうせウケないし、めんどくさい」。
あるときエリオット・カーター作曲の委嘱作を演んなきゃという義理が楽団の側にあって、しかし演りたがる指揮者がおらず、私も振りたくなくて……(後略)。〉
(と、マウチェリさんは現代ものに対し意外と冷淡。カーターとかオレはけっこうイイと思うけど、あるいはよほど演奏がめんどうなものなのか)

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

ところでこういうマウチェリさんの、また別のライフワークが、映画音楽へのクラシック界からのアプローチなのだった。彼のおとくい作曲家であるコルンゴルトが、ナチスに追われ亡命後ハリウッドで仕事し、そこで映画音楽に初めて芸術性をもたらした──という説があるのでちゃんと話がつながっている。
動画のヒッチコック:サイコ」組曲(作曲:バーナード・ハーマン)は、その多大な成果の中のひとつ。スコアの校訂もマウチェリさんによるとか。

しかしこれ、オリジナルサントラが現前している荒々しいムキ出しの狂気・渇望・暴力・恐怖らの表現──映画を別としても音楽史上空前の達成──と比べたら、いかがだろうか。実にていねいな演奏で逆にキレイすぎちゃっている気もするんだが、しかし楽譜の1ページをも見たわけじゃないので、あまり強くは言い張らない。