ポ  サ  研

─ Post-Truth Sound Lab, Vaporwave / Désir Duplication Répétition ─

《仮想夢プラザ》シリーズ (2015) - ヴェイパーウェイヴと、ある種の言説 と、ヴェイパーウェイヴ

1. ヴェイパーウェイヴの横行は、《音楽》なるものを絶滅へ…ッッ!?

ヴェイピン?(ごあいさつ!)
さて、Vaporwaveとかいう実にアレなあれについて、最新の動向や評判を知ることに余念なき、貴方の報告者であるこのしもべ。それでちょっとネットを検索なんかしたりしたら、何か引っかかってきたものがあった。

《網守将平と音楽問答。我々は「音楽そのもの」を聴いているのか? - CINRA.NET(2018/11/22)》(

さいしょに概要を紹介しておくと、これは「網守将平: パタミュージック」(2018)という音楽アルバムの、宣伝記事なのではないかと思われる。記事っぽいけど“PR”という文字が出ているので、つまりは広告なのかと。

そして網守将平というミュージシャンは、<東京藝術大学音楽学部作曲科卒業、同大学院音楽研究科修士課程修了という経歴を持つ生粋のエリート>。かつ、<ポップミュージックからサウンドアートまで総合的な活動を展開し、様々な表現形態での作品発表やパフォーマンスを行う傍ら、CMやテレビ番組の音楽制作も手掛ける>、だそうだ。

まあそれはいい、われわれの関心の対象はヴェイパーウェイヴなので。そして、その<生粋のエリート>氏が――などという皮肉は見苦しいと思うが、しかしあちらがこういうリアクションを要求していると感じられたので奉献――、宣伝記事内の談話でちょっとヴェイパーに触れているという、そこが引っかかってきたところ。
で、じっさいどのように語っているかというと。

今回のアルバムでは、毛利(嘉孝)さんが解説を書いてくれたのですが、そのなかでヴェイパーウェイヴの話に触れているんですね。危機感の話はそこともつながっていて、問題意識で言えば、音楽の絶滅を食い止める、みたいな意図でやっているところもあります。

…とは、われわれが聞いていない話の続きになっているらしいので、あまり仔細がよく分からない。が、おそらく、ヴェイパーの横行蔓延は《音楽》なるものの絶滅を引き起こす、というご主張なのだろうか。

それなら、すごい! たぶんそこまでの力あるものじゃないにしろ、そういう言われ方をされることが、すごい、カッコいい、誇らしい。もっといただきたい!
いやもうこれは、ガロ初代編集長の長井勝一が、われらの至高なる梶原一騎について、「悪名は無名に勝る」との賛辞を浴びせたことの再現なのだろうか。関係ないだろうか。

…それはあまり関係ない気もしてきたが、しかしもう少し調べてみると、さきの談話の前提となっている解説文が、別のサイト(話題のアルバムの発売元)に掲載されていた。そこから、ヴェイパーに関連する部分を引用()。

―― 毛利嘉孝「もう一つの惑星の音楽(のようなもの)」(網守将平「パタミュージック」解説文) ――

ポストモダン」と呼ばれた1970年代からの企ての多くはある種の「メタミュージック」の要素をはらんでいた。彼(網守)の特筆すべき点はそれを徹底化し、極限まで拡張しようとしたことにある。

最近の音楽で、このような徹底化は、たとえばVaporwaveと名付けられたYouTubeを中心に展開してきた一連の音楽群に見出すことができる。1980年代のポップス、特に日本のシティポップとバブル前夜の消費社会に対する奇妙な強迫観念と異国趣味が混在するVaporwaveだが、その特徴は、過去に対する郷愁ではなく、その逆で音楽に関する徹底的な無関心にある。それは、音楽が終わったあとの音楽、人々が音楽に何の感情も動かさなくなった時代の音楽なのである。それは「メタミュージック」の一つの到達点なのだ。

Vaporwaveを一つの極北とした時に、網守の「パタミュージック」はもうひとつの別の極に向かっているように見える。しかし、それは、あらためて「音楽」を単純に復権させることではない。むしろ、Vaporwaveと問題関心を共有しつつ、〈メタ〉ではなく〈パタ〉な視点を持ち込もうとしているのだ。

この執筆者である毛利嘉孝東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授)という方について、考えたら自分は、何かを存じ上げている感じ。同じ小さな空間に、一瞬だけ同時に存在していたことがあるかも――たとえばエレベーターの同じカゴに乗り合わせていたとか――。
まあそんな言い方もアレなので、推断臆測をはっきり述べれば。先日の《「vaporwave芸術大学」@東京藝術大学》という催しにて、そのお姿を拝見したように思うけれども、もし人違いだったらまことに面目ない。

が、それにしても、やはり日本でヴェイパーに関心を持ったり言及をされたりする方は実に数少ない…よってこの世界は狭い、ということを思い知らされてしまう。

2. カスタマー志向のポピュラー音楽ビズネス…君は完ぺきさっ!

さてなのだが、いままでの話とちょくせつ関係ないかも知れないけれど、《音楽の絶滅》《音楽の極北》、みたいな威勢のいいスローガンを耳にすると、自分の心には言いようのない虚しさがあふれてくるのだった。そんな話はもう何度めだろうか、と。

ひとつつまんないものを持ち出すと、《音楽の極北》ということばでしばしば形容されてきたのがデレク・ベイリーというイギリスのフリージャズみたいなギタリスト…。なのだが、しかし誰がこんな、歯が浮く宣伝文句を考えついたのだろうか?
別にベイリーの演奏を完全ナッシングだと思っているわけでもないけど、でもまあ、お好きな方々が聞いたらいいんじゃないのと、そういう感想にしかならない。そこに内部的な押し詰まったものが感じられないではないが、しかし社会に向かって侵食していくベクトルがない。そういうタイプの《極北》、でしかない。

また。立花隆が著述した武満徹の本で、とある尺八の名人が達人すぎて、その吹いている音が、自然の風が竹の節穴を偶発的に鳴らす音と、てんで変わらない…てな話が出ていた。そしてわれらの徹ちゃんが、こんな名人に過剰に思い入れ込みそうになるのだが。
で、それきりだったら、それっきり武満は作曲ができなくなっていたかも。そんなところにさえ、音楽の滅亡やら極北やらめいたワナが、ないではないらしい。
だがそうではなく。そうした個人性の棄却にまでいたった達人らの個人性を棄却し、自然の風が偶発的に音を出すような現象らをシステム化して、そしてエンターテインメントである方向にもっていく。そういうタイプのブライアン・イーノの叡智が、ここでまさに輝くところだ。

で、その関係でいままでにいちばん、プラスのヤバみを感じたのは1978〜80年あたり、さっき出たブライアン・イーノ制作による「V.A.: No New York」(1978)というオムニバス盤たった1枚に凝縮され象徴されるNYアンダーグラウンドのものすごい実践、《音楽否定》《音楽無視》といったことばらが脳裡に浮かぶようなそれ、またいっぽうのイギリスには、パブリック・イメージ・リミテッドジス・ヒート、ついでにザ・ポップ・グループらのごとき“真の”オルタナティヴ。あまりにもエキサイティングで、こりゃーもう、《音楽の終焉》に自分は立ち会っちゃっているのかな、とばかり考えたりしたが…。

しかし、それから、何が変わったのだろうか? ふと背中に寒さを感じ、「あれっ?」と思ったころに流行った曲がカルチャー・クラブ「Do You Really Want to Hurt Me」(1982)、すなわち自己憐憫のタレ流し。こんな唄が、“われわれの祭”のクロージングテーマなのだろうか、と感じたことは憶えている。
またこの「Do You Really Want 〜」なる楽曲に、「君は完璧さ」というありえない日本語の“訳題”(ッ!?)がくっついていたのも、逆に何かを言いえていたのかも知れない。つまり完ぺきであるなら、何も変わる必要がない。よって、何も変わらない。

そこらでいいかげん、分からなければならない。どんなに中身がからっぽなものであっても、需要者らが存在する限りは受容される、と。そういう意味では、《音楽の絶滅》なんて話は杞憂であるしかない、まことに残念なことだが!
よってもって、下劣で低劣な音楽資本らのプロモートしアドバタイズしてくるクソくだらないポップもどき、見下げ果てた音楽のカス、それらに対するわれわれの抵抗に、全面勝利などはぜったいにありえない。だがしかし、抵抗し続けなければならない

…なんてまあ? ヘンに想いつめた自分の気持ちなんかを申し上げたって、まったく何にもならないし。

だからこの、ヴェイパーウェイヴ――自分にとっては《パンクロック〜オルタナティヴ》、《アシッドハウス〜テクノ》らに続く、3コめの“ムーブメント”――とか何とか呼ばれるクソを、実にイージーなエンターテインメントとしてご紹介し、ちょっと関わりたいな、と。それが、現在のスタンス。

3. 紋切り型もきわまった稚拙でわいせつなラクガキを描き続けて

そういうところから言わせていただければ、われわれヴェイパーウェイヴの陣営は、それほどには音楽を虐待しているつもりが、ない。《主体》としての人間らが、音楽を虐げる権利を、または権能を持つ? …そんなことは、考えてみたこともない。たぶん全世界のヴェイピストらの、誰もない。
むしろ《人間》なるものを、われわれは虐待し踏みつけにしている。

そもそもあんなヒドい音響を世に放り出し、さらにそのアプリシエートを求めるなんて、人権じゅうりんもいいところ! いくら人間ごときでも、あんなものを聞くためにふたつの耳をそうびして生まれてきた、とはとても思えない。
そんなひどくてひどくてどうしようもないものを、愉しめ! 「享楽せよ」という命令、「愉しむことは義務である」という超自我の要求。それをわれらのヴェイパーウェイヴは横から捏造し、そしてムリヤリに挿入しているのだ。

かつ、そうした一連の振るまいに、とくべつのオリジナリティがあるわけでもない。これらはすでに全面的になされていることの繰り返し、ミミクリ(ものまね)であるに他ならない。誰かがシリアスに(カネ目当てで)やっていることらを、悪ふざけとしてヴェイパーはたわむれになしている。

赤い薔薇の花ことばは、「美」「情熱」そして「愛」…

または。すなわちヴェイパーは何度も申している「放棄されたショッピングモールに最適化された音楽」なのであり、人間らが滅び去ったあと、無人のモールの廊下のふかふかソファにゆったりと腰かけ、そしてありし日の人間どもの《欲望》の残響をはらんだミューザックに、ゆうゆうと耳を傾ける。Mmmm... So smooth! …と、そんなことをぬくぬくと空想しているのでわれわれは、邪悪でありかつ有罪であるようだ。

もしくは。フーコーが言ったとかいう《人間の消失》のあとの砂浜にわれわれは、紋切り型もきわまった稚拙でわいせつなラクガキを描いている。どうしても絵心の足りないやつは、何かてきとうな画像をコピペする。《自分》がおそらく存在したらしいことの証しをわれわれは、なぜかそのような形でしか、世界に刻み込むことができない。

と、ここで告発したくなるのが、テレパシー能力者による一大プロジェクト《仮想夢プラザ》の、どうしようもなさ。このシリーズはすべてのアルバムが約30分間の1曲で構成されており、それが31コで、合計の演奏時間が約15時間半。
そして別にめんどうなことをしなくとも、このBandcampページ()を開いてプレイのボタンを押せば、その15時間半がみっちりと再生されるはず。その間にまんいち、何かシステムの問題が生じない限り。

自分はいちおうその全部を聞いたはずだが、しかしまったくもってイヤハヤ。まさにこれこそ、ヴェイパーウェイヴなどと呼ばれる<紋切り型もきわまった稚拙でわいせつなラクガキ>の典型なのではないだろうか。

ちょっと分析してみると、この《仮想夢プラザ》シリーズそれぞれの30分間は、何らかの既成のポップソングやイージーリスニングみたいな音楽らをだいたい半速で再生、そしてどこかの段階でリバーブとEQをかます、というおなじみの手法によってできているもよう。その結果、無責任にも甘ったるい夢幻の響きが、ずぅ〜っと続く。
だがそれにしても、たったの1曲を30分にまで引き延ばすのはあんまりだろうと。もたねえよ、と。
もとが5分でも半速で10分間にしかならないので、何らかのタイミングでダカーポとかしているはずだが、そこはよく分からない。グジュグジュにあふれるリバーブ音らが、そのつなぎめをうまいこと隠しているのかも知れない。

で、いまさっき、久々にこれを一部にしろ聞き直してみて、自分は反省した。てのは、前にご紹介した「S E L F - B E I N Gの減価償却: 一目ぼれ」(2018)について…()。
あれはこの《仮想夢プラザ》と、製造プロセスはほぼ同じのようだけど、しかしよっぽどちゃんと造っている。後発なりの努力と工夫なのだろうか、あれできちっと構成している感じが、ありありとある。
いや、あのときはあまりにも大量なS E L F - B E I N G作品群()のオールチェックに忙殺されて虫の居所が悪くなり、つい少し皮肉っぽい評言になったが、しかしそれはよくなかった。あれはほんとうにいいと、前言をやや修正。しかし、カバーアートのアレなセンス(稚拙で卑猥なラクガキ風)までも、このパイセンを見習ってしまっているけれど。

だが、そのいっぽう? さらなる皮肉っぽい評言を挑撥している感じの《仮想夢プラザ》だが、しかし最終的には、「とはいえ、これもアリか」…という感想になってしまう。なぜならこれが、<紋切り型もきわまった稚拙でわいせつなラクガキ>、その典型だからだ。それがヴェイパーウェイヴであり、そしてそこにしかわれわれがいないのだ。