エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

トイレからトイレへ。かしこいブタと、ただのブタ。またはジョージ・クラントン、異物感のないことの異物感。

前の記事にて《ジャンクヴェイパー》《フェイクヴェイパー》、ということばを自分は提示したけれども()、あれ実は、あの駄文を書き始めた時点ではぜんぜん考えていなかったこと。即興でやっちゃった、エヘヘ。
と、即興で申しちゃったことだけに、ち密でないな…と、いまは思うわけで。以下ではそこらを、ちょっと反省してみせる。

1. やせたブタより太ったソクラテス - Floral Shoppe から FLORAL COP まで

まず、《ジャンクヴェイパー》とか申したけれど。だがしかし、まったくもってジャンク臭のないようなヴェイパーウェイヴってあるものだろうか?
もしくは、「ジャンクもまたウェルカム」くらいの姿勢のない人間が、あの「Chuck Person: Eccojams Vol.1」(2010)や「Macintosh Plus: Floral Shoppe / 花の専門店」(2011)らの歴史的メイ盤らを、ずっとガマンして聞き通せるものかどうか? いや、何せヴェイパーだから、《人間》でおられるような方々にじっと聞いていただく“必要”はないにしても。

すなわちジャンクをよしとする根性は、あらかじめヴェイパーには織り込みずみであるほかない。

ここで想い出すんだが、「家畜人ヤプー」で有名な沼正三のエッセイで初めて見た話、中国の伝統的なトイレの構造はブタ小屋に直結だそうだ。うわっまじかよと、当時中学生だった自分は思ったが…。
しかし追って読んだ司馬遷史記(前91)の、《呂雉》が夫である劉邦の寵妃を責め殺す場面にも、そのような描写あり。ならば、まあほんとうなのかなと。
と、人間らのアレをブタがアレして肥え太るシステムらしいんだけど、しかしそのブタから出たものはどこへ行くのだろうか? ほどほどにジャンクであるようなヴェイパーから、ジャンクでしかないヴェイパーへ、そして…。いったいうちらはどういうものにつきあっているのか?

そのようなジャンク以下のヴェイパーらに対し、《スカムヴェイパー》もしくは《Shitwave》といった尊称をたてまつることも、考えてはみた。でも、けっきょくは同じことなのかな…と。
ヒトから出たものとブタから出たもの、同じではないけど「変わんねーよ!」という感じ方も、また多少はもっともだ。ブタにはそのあたりの区別がついているのだろうか? われわれはその区別がつくほどにかしこいブタなのかどうか? または、そういうブタであるべきなのかどうか?

つまり資本主義コマーシャル文化の産出した既成曲らをあれしたヴェイパーのクラシックらと、それらをまたさらにあれしたスカムヴェイパー(仮称)らと、そこに質的差異を認めるべきか否か。どっちもウンコですのでいただけません、という俗世間のブタどもの見方があることは当然として、ただのブタであるわれわれがそこに階層をいきなり設定していくのか。

ところで図示したMACINTOSH PLUS: FLORAL SHOPPE 911 - FLORAL COP」(2015)は、ご覧のとおりのあわれな《Vapormeme》、パロディヴェイパーでスカムヴェイパーであるようなしろもの。何の因果か「Floral Shoppe / 花の専門店」のパロディアルバムらを自分が聞きあさっていた、そのころに出くわしたブツ。このアーティストはこれ1コしか作品が出てないもよう、在マイアミを自称しているので「フロリダのMACプラス」と自分内で呼んでいるけど。

ただし、そんなに聞き苦しいものではない。「犯罪捜査の専門店」みたいなコンセプトに従って、刑事ドラマのサントラ等を「遅くしてみた」、という感じの5曲入りミニアルバム。そして、なぜあまり聞き苦しくないのかをはっきり言うと、それほど手間をかけてないから(!)。
すると多少のセンスよさを除外すれば、「犯罪捜査の専門店」みたいなコンセプトしか残らないようなしろものだが、しかしパロディヴェイパーとしたらこんなものかなと。オススメなどはしないけど、これをまあよしとしないならば、ヴェイパーなんか聞いている理由がなくなる。ともあれ「もっとヒドいものらにつきあってみてから言いやがれ」…とは自分で思うわけで、それはそのうちやる。

2. ジョージ・クラントン - 害毒なき楽園創造による社会的勝利者

次に。《フェイクヴェイパー》とか申したけれど、しかしこんなジャンルにおいて、単なる駄作でしかないものに《フェイク》のレッテル貼りは意味のあることかどうか。

ここで逆に自分が思うのは、《ESPRIT 空想》ことジョージ・クラントンのこと()。この場ではエスプリ空想名義のやつしか扱わないつもりだけど、その初期のアルバム「girlsonly」(2012)や「summer night」(2013)らには、「むかしのR&Bらをとりあえず遅くしてみた」の気配がかなりある。
ただしそういうものとしては、センスのよさが抜き出ている風。これらに比したら、「Eccojams Vol.1」なんてゴツゴツしたものは聞いていられない(…失言っ!?)。

それから2014年の「virtua​.​zip」ではサンプリングを使わない方向にズズイと進み、そして2017年の「200% Electronicaが、まあヴェイパーヒーローとしてのブレイクの決定打ということになるか。で、いまでは積極的にメディアへと顔出しし、またいい気分で唄まで歌っちゃうし、てめー《セレブ》かよ…といったことは…いや、別にいいとは思っていない自分がいるようだ。

この人の制作物らの、あっぱれな一貫性。過去のどこかに存在したかも知れないパラダイスの現前をプログラムしようとし続けているところ、かつそのプロセスの手ぎわよさセンスよさ。まずそのあたりは、評価しなければならない感じ。
ところがそうして描き出されたパラダイスの幻影らには、われわれの思うヴェイパーにはつきものの、違和感、異物感、喪失感らが、逆に喪われている。もうはっきり言えば、害毒性に乏しすぎる。そこらに逆の異物感を、自分は感じさせられる。

エレクトロニカ》という別世界のキーワードを平気で濫用しているところからしてそうだが、しょせんはちょっと振り向いてみただけの異邦人、なのだろうか。…と、ここでボクたちの大好きなシティポップの話題?
あ、うん、いや…。なおまた、クラントン本人としては、Vaporwaveなることばにみょうに執着があるようだけど。だがアレらは、その前身のひとつとされるチルウェイヴに向けて逆行してはいないだろうか。
そう、ヴェイパー特有のザラリとした劣等デジタルの感触を、彼の制作物らはいまだに残しているけれども。いまはサンプリングしないで作っているはずなのに、ずいぶんとローファイに仕上げてくるものだが、それを彼は実に巧妙に利用してふんいきを作っている。効果的に。

ヴェイパーウェイヴの手法らは即コンセプトでありアチチュードであるのに、クラントンはその手法(だけ)を用いて巧妙にすてきなポップをこさえ上げている。そのポップらの今日性、いっそファッショナブルだと言いたいようなところ、それはある。が、これはヴェイパーウェイヴなのだろうか?
駄作凡作珍作愚作のはんらんなどは、この世界においてはどうということはない。いやそうじゃなく、「続けたまえ」とも言うべきなところだ。だがむしろクラントンのような《成功例》のあり続けたりすることこそが、いずれこの世界を逆に腐らせてしまうのかも知れない。

薔薇の香りとやすらぎを、ここで貴方に…

【あとがき】 この記事の仕上げの段階で、「Chuck Person: Eccojams Vol.1」のソースであるウェブページを探していたら、それが何と、そのパロディらの大はんらんのおかげで、大元の所在地がさっぱり見つからない! もうめんどくさくなって、《sq10》のアーカイブをソースとして示したけど。しかしこんなんでは、パロディヴェイパーの横行蔓延などはどうということはない、と言っていいのかどうか!?