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山口譲司「不倫食堂」 - まさかのエロスのルーチン反復

山口譲司「不倫食堂」2 - 集英社 S-MANGA

集英社グランドジャンプ』にて2016年から連載中の山口譲司「不倫食堂」は、B級グルメ探訪および人妻エロコメであるようなまんが作品。平凡な妻子持ちのサラリーマン、しかし隠れた美味らの追求を趣味とするヒーローが、日本各地の出張先にて、地元の名物らを喰い歩くはずみで、なぜかスケベ行動に及んでしまう。単行本は第9巻まで刊行中、版元公式サイトに紹介・試し読み等あり()。

さてこの「不倫食堂」について考えようとすると(…考える“必要性”の有無はともかくとして)、
「まさかのエロスが、いちばんエロい」
…というテーゼが、自分の脳裡に浮かんでくる。創作関係の話で、エロ要素がまったくなさそうな作品に意外なタイミングでチラリと立ちあらわれたハダカやセックスのシーンらが、みょうに強く印象に残る、さらには《トラウマ》にまでなっちゃう、てなことはないだろうか。

「まさかのエロス」で、アムロくんとあの人が…!?

それ関係でちょっと言うと、富野喜幸(現在は由悠季)による小説版「機動戦士ガンダム」(1979-81,角川文庫)で、おなじみアムロくんがまさかの相手と性交をなす、というお話が不意打ちであり、きわめて衝撃的だった。何ヤッてんの〜?
でもまあこのエピソード、ショックはショックでも、興奮させられるようなそれではなかったので、この場での例としてはあまり良くないか…。トラウマチックでは確かにありそうなのだが…。

「まさかのエロス」の、演出・現出。美少女コミック・エロまんがの作者たちあたりも、ここらを多少は考慮していそう。だいたいそもそも成年指定のまんが(等)であれば、作中人物らが性交めいたことをいたすに決まっており、そこに「まさか」という意外性のありようがない。逆に不自由。で、せいぜいヒロインらを清純・貞淑らしく描いて、そこからの意外性を出す、かつまたシチュエーションの特異さから意外性を演出…といったアガキを?
それと当然その一方、創作世界のエロスには、過剰さのオーバードーズでショックを与えようというアプローチもあるわけで、これのほうがむしろ通常かつ一般的か。ただしそれ方法としての面白さに乏しいので、ここでは取り上げない。

ことを逆からも考えると、そもそも《意外性》や《驚き》は、むしろエロチシズム成立の前提であるのではないか、とさえも思われてくる。エロス研究の第一人者であるジョルジュ・バタイユが、確かそんなことを延べていなかっただろうか。そこで今後、各位らが何らかのコトやモノらにエロスを感じてしまわれたとき、その興奮をいったんだけ押しとどめ冷静に、そこに意外性や驚きの要素らはなかったか、と考察なさってみてはいかが。

理性などうち棄ててソレらに喰らいつく人妻たちの放恣な痴態ッ!?

山口譲司「不倫食堂」4 - 集英社 S-MANGA

と、いうことで、この「不倫食堂」。重ねて言うけどグルメまんがとエロコメを兼ねた作品であり、とくにスケベでもないヒーローが、仕事の出張先でついでの喰い道楽に及び、各地元の名物料理らの美味さをたっぷりと描写し称揚もした上で、そこで意気投合した人妻たちと、ふしぎな勢いでスケベ行動に及ぶ。
…この毎回々々の定まってしまったルーチンが、ちゃんといちいち「意外な展開」になっているのが奇妙であり、そしてすごい。意外性などまったくないはずなのに、なぜか常に意外だ。驚きを感じさせる。
エロスの以前のグルメの部分が、かなりしっかりと描かれているように思われる、それが効果的なのかも知れない。そこで読者を美味の世界に深く引き込んでいるからこそ、直後のエロスへの展開に意外性が生じている。これがスケベの前の言い訳ていどの薄い描写でしかなかったら、そうはいかないはず。

かくて。いちばんエロいものであるかも知れない、「まさかのエロス」…それはなかなか意図的には生産できないものであるはずなのに、それを今作が、まさかの量産までしちゃっていることに、自分はいたく感動させられている。

もともと作者の山口譲司は、「色気ある女性を描かせると絶妙」という印象のあるまんが家で、逆に言うと(失敬だが)、自分にはそれ以上の印象が乏しかった。そしてこの「不倫食堂」は、その作者の最大の武器を最大限に活かせる題材だったのだろうか。
そもそも食事シーンの段階から、各話のヒロインである人妻らは、現前している美味に酔いしれ、あやしく顔を上気させ、はしたないまでの身振りを示しながらそれらをむさぼり、その快楽にズブズブと身をゆだねている。…このところの描写が、えも言われぬ色気にあふれていることが、その直後のスケベシーンへの飛躍を、飛躍だけれど飛躍じゃない、と感じさせる。そこらが実にうまい、よくできている、常にはないもの、画期的だ、と自分に思わせるのだ。