エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

サクラSAKURA-LEE: Star Virgin EP (2018) - 処女厨ホイホイ・Hが私のエネルギー!

《サクラSAKURA-LEE》という人は、ペルーのアーティストらしいんだけど()。それはともかく、今回の題材はひさびさのフューチャーファンク()。

で、実のところ、自分がフューチャーファンクをあまり分かってはいないので。ゆえにこのサクラ・リー氏による、“Star Virgin - EP”が、いいのか悪いのかも、あまり分かってはいない。
ただ……。そのカバーアートを眺めていたら、何か不快でもない微苦笑のわき上がってくるのを感じたんで、ついつい取り上げてみるんだよね。

さてこれがどういう性格のアルバムかというと、1988年ニホンで制作の特撮SFビデオドラマ『スターヴァージン』)へのオマージュ、みたいなものと考えられる。
よって“Star Virgin - EP”のカバーアートは、『スターヴァージン』サントラ盤のジャケをパロったもの。オビの部分やタイトルロゴらはそのまま流用し、そしてビキニ鎧武装したヒロインの姿を、実写からアニメ絵へと置き換えている。Kawaiiii〜!!!

と、そこらまでは仮に、よく分かったものとして。いや別に〈分かる〉ということが重要だとも思えないんだけど、ともあれ。
そのいっぽうで自分に分からないことは、“Star Virgin - EP”のサウンド面が、『スターヴァージン』のサントラと関係あるのかどうか、ということなんだ。

聞いてみると“Star Virgin - EP”は、1980年代のアイドルソングっぽい素材らを、よくあるようなフューチャーファンクへと料理した作品のよう。はっきりは言わないが、たとえばあのSEIKOタンの……いやまあ、はっきりは言わないけど、まあそういう。

で、そこまではいいんだけどさ。

いっぽうで『スターヴァージン』のサントラは、そういう感じに使われそうな唄ものを、2曲ほど含んでいる。その主題歌「スターヴァージン」(唄:岩間梨絵子)と、挿入歌「Hが私のエネルギー」(唄:黒木永子)。
そんな楽曲らなんてマイナーのきわまりだと思うんだが、しかし現在ようつべで、何とか聞くには聞けるんだよね。その本編らしきものを丸揚げしちゃってる動画の、いちばんラストに2曲が並んで収録されていて()。

で、聞いてみたら、それらが意外といいんだな……。その作曲担当は、かの川井憲次先生なので、道理でというか。または、〈意外なお仕事しておられっスね?〉というか。
ちなみに音楽が川井憲次氏による映像だと、押井守作品でオレのいちばん好きな紅い眼鏡が1987年の製作。その翌年が今『スターヴァージン』なので、この'80年代って濃いっスねェ〜。

ではあれ主題歌のほうはまだしも、何をいきなりタイトルが「Hが私のエネルギー」っていう挿入歌はどういうことだ。ヒロイン役の女優さんが歌ってるんだが、そのボーカルがまた、実にシロート丸出しもいいところだし。

ところがしかし、なぜかそれがいいんだな……。いや、“誰も”がいいと思うようなものじゃないだろうけど……。でも何か、この時代の女性アイドル歌謡みたいのに、特有のあいきょうが感じられて……。

──と、ゆーよーに。映像作品としての価値は分からないけれど、しかしかなりいい感じの音楽資源を世に遺してくれた、『スターヴァージン』。
で、そのいっぽうの、“Star Virgin - EP”。このアルバムを3〜4回は通しで聞いてみたんだけど、しかし『スターヴァージン』からの素材が入ってるようには、聞こえなかったんだよね。もし聞き逃しのカン違いだったら、そくざに謝るけれど。

せっかくなんで、ちょっとくらいは使ったらよかったのでは? 『スターヴァージン』主題歌の、〈スタァ〜・ヴァ〜ジ〜ン!〉と高らかに謳い上げちゃってるフレーズだけでも! 処女厨・大勝利》の凱歌として!!

【追記】 とまでを書いてからよく調べ直してみたら、今アルバムの続編である“Star Virgin II - EP”では、ヤッちゃってらっしゃるんだよね。サクラ・リー氏が、『スターヴァージン』主題歌の、丸使いフューチャーファンク・バージョンを()。
だとしたところで、それがオレたち処女厨のアンセムとするに足るトラックなのかどうか……。その判断は、同志である皆さま各位へと丸投げいたします。どうにもオレにはフューチャーファンクってものが、やっぱよく分かンないんだよね!

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
サクラSAKURA-LEE seems to be a future funk creator living in Peru. Actually, I'm not familiar with future funk, but when I was looking at the cover art of his "Star Virgin - EP", I felt a slight bitter smile that wasn't unpleasant, so just picked it up.
By the way, this album “Star Virgin EP” can be thought of as a homage to the SFX sci-fi video drama “Star Virgin” produced in Japan in 1988. The seductive cover art is a parody of the sleeve of the “Star Virgin” soundtrack album. The part of Obi is diverted as it is, and the figure of the heroine armed with “Bikini armor” is replaced from a live-action picture to an animation picture. Kawaiiii〜!!!

That's right, but I think this album doesn't use elements from the drama “Star Virgin” soundtrack. I'm sorry if it was my misunderstanding.
And I think the theme song and insert song of the drama “Star Virgin” are the obscured masterpieces by Kenji Kawai, a famous Japanese score composer. So I thought it would have been great if Mr. Sakura had created a cool modern sound by reusing them.

...Oh... After writing up to that, I looked it up again and found that it was done in the sequel to the album, "Star Virgin II - EP", A future funk version of the theme song of drama "Star Virgin" ().
So, is it a track that is enough to be an anthem for us Virgin Worshipers? The decision is completely left to YOU, all of our comrades. I don't really understand the taste of future funk!

カゴシマ・タンジェリン: Lemon (2017) - まもなく閉店のお時間でございます。

いまこの場では、仮に《カゴシマ・タンジェリン》と呼ばせていただくが。しかしこのヴェイパーウェイヴ・クリエイターの、正規っぽいステージネーム表記は、絵文字のミカン(タンジェリン)なんだ()。
けれど、ちょっとそういう絵文字とかを、この場には書きたくなくて……。
いや、そんな絵文字ごときを読もうとしてTo Loveるようなブラウザなんか、いまはもうないだろうとは思うんだけど。しかし自分の気が小さいので、ここはふつうの文字で代替してひとつ。

さてこの(仮称)カゴシマ・タンジェリンさん、お名前の通り、ニッポンの鹿児島に在住を主張。そして2014年から活動しておられるもよう。
ただ失礼だけど、ワリにさいきんまで、あまり目だっている存在でもなく、通のみぞ知る人だったような? と、そんなことを言う自分にしても、既報の《ドリームパンク》系オムニバスで初めて、彼のサウンドに触れたんだ()。

で、そこから興味をもって、他のいろいろのタンジェリン作品らを聞こうとしているんだけど。が、また少しめんどうなことに……。
現在までのタンさんによるアルバムら、そのタイトルたちがまたまた絵文字、通常のキャラクタでない(!)。じゃあもう、それらもふつうの文字に言い換えてしまうよ?

すると。まずセルフタイトルの初アルバム『タンジェリン』の発表が、2014年。続いて、『キウィ』と『スイカ』が16年。そして『レモン』、『チェリー』、『グレープ』らが17年──というリリース歴が、あるっぽい。さわやかフルーティなラインナップなのです!

だが、その2017年をもって、タンさんの活動はいったんとぎれていた感じ。しかしそれが今20年に、再起か何か。
そして前記ドリームパンク大会などのコンピレーションらに参加、さらに久々のアルバム『月見』をリリース! それでか、その名を拝見する機会も増えた気がするし、ここへきてブレイクの予感っ!?

そしてそのタンジェリン氏の音楽性、もしくは方法論みたいなものは、初期からほぼ一貫。だいたいのところ《ミューザック》と言えそうなイージーリスニングらの素材に、ここで自分が主張している《ヴェイパー処理》をカマし、もうひたすらに眠たぁ〜い響きを作っている()。

ただし素材らの選び方には、時期につれて多少の変化がなくもない感じ。
まずいちばん初期には、ブラス系の楽器らをスロー化した〈ブフォ〜〉という響きの厚みが印象的だった。それが17年ごろには、ストリングスの響きが支配的だった風。
そして最新アルバム『月見』では、収録・全4曲のタイトルらが「ピアノ 一〜四」である通り、ピアノがメイン。ここらは、わざとつけている変化なのだろうか。

また、タンさんのアルバムらをばくぜんと聞いていると──この音楽を聞くにあたり、〈ばくぜん〉以外の態度はありえないと思うけど──、たまに1960年代ごろのヒット曲らのメロディが聞きとれる。そのタイトルたちを、はっきり書いたりはしないが。
けれどそれまた、素材になっているのは原曲らではなく、《ミューザック》化されたバージョンでしかない。ここは、意図的にしている感じ。

で? このようなタンジェリン式《音楽》の、印象はというと?
そのユルさダルさのきわめつくしはまるで、デパートやショッピングモールらの、閉店時間のお知らせ放送をずぅ〜っと聞いてるみたいなのだった。

(音楽:「ほたるの光」 or ドヴォルザーク「家路」)
……まもなく……当店は、閉店のお時間でございます……

そんな放送の流れている時間の倦怠のふんいきが、はてしなく続くんだ。

ここでついまた、いつも言うようなことを言うと。オレら人類のここまでの《文明》の流れ、それがすでに店じまいの時間を迎えつつあるが、しかしそこからがむやみと長い──。実に長々しい終末のときを、《現在》として延々と消化しつづけている、そんな時間帯のためのBGMなのだろうかコレは──、っていう気がしてきちゃうね!

ってまあ、そんなチープな悲観論はともかくとして。

こうしてタンジェリン作品らをいろいろ聞いて、自分がいちばんひき込まれたのは、『レモン』
これは何と、梶井基次郎の1925年の掌編小説檸檬(れもん)にインスパイアされたアルバムみたいなんだ。よって各トラックのタイトルが、〈えたいの知れない不吉な塊が私の心を〉……うんぬんという、あの小説「檸檬」冒頭からの引用文になっている。

ただし音楽はいつもとあまり変わりなく、いつも通りの夕暮れ倦怠ムードをだるぅ〜んと叙述しているばかり。小説「檸檬」の結末の《レモン爆弾》みたいな爽快感なんて皆無だが、まあそれもいいのでは。

そして。この駄文の参考にしようかと、ひさびさ小説「檸檬」を読み返したら()──ごく短いので手間はなかったが──、するとこのお話やべェな!
本屋さんの重たい画集の棚をゴチャゴチャに引っかき廻し、さらにナマモノであるレモンを置いて去るなんて、タチの悪い営業妨害もいいところ(!?)。これが現在のことだったら、作者のSNS等が大炎上していることに疑いなしっ!

作り話だとしても、バカな人が読んでマネしたらどうするんですか? 作者さんの常識を疑います! 文学者の社会的責任を自覚してください!!

で、調べてみたら往時には、厨二病を患った文学青年たちがほんとうに、作中に実名が出ている書店《丸善》の書棚に、ひんぴんとレモン爆弾を投下してたそうなんだが──。

──しかしそういうことが、シャレとかではすまない、この息苦しい現代社会。まあこういうのも、ひとつの《文明》の末期の症候なんでしょうかねえ……と、おチープに世相を批評しながら終わるっ。

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
The Vaporwave creator, who we call Kagoshima Tangerine here, claims to live in Kagoshima, Japan. It's up to you to believe it.
He made his debut in 2014 and released 6 albums by '17, but it didn't seem to be much talked about. Then he resumed his activities this year in this 2020, and released his 7th album 「月見」 in a long time. In this way, it seems that it is getting more and more attention now.

And Kagoshima Tangerine's music is to slow down the playback speed of easy listening songs such as Muzak to create a sleepy and slow sound.
And those impressions are like listening to the announcement broadcast of the closing time of department stores and shopping malls. In Japan, songs such as the folk song “Auld Lang Syne” and Dvorak's “Goin'Home” are used for such broadcasts. Such a feeling continues endlessly.
This makes me feel as if our civilization itself is approaching the time of store closure, but the extended end-time continues on and on, as the present, is it BGM for that time?

山本弘『MM9』 - 21世紀の《怪獣》耽溺者, または SF と 観念論

どうにもオレらが《怪獣》ってものをいまだ、すこりすぎなキライを感じてしまう、21世紀のいま現在。
現実的には怪獣なんて、出てもいないし、その被害をこうむった人もいないはずだが。けれども怪獣を語るお話らの出現は、いっこうにあとを絶たないよね?

まあ逆にその《現実味》のなさがよいのかな、とも思う。これを戦争や災害の惨禍とか、クマやイノシシらの《害獣》を駆除するお話とかに置き換えたら、リアルであっても軽みがなさすぎ。
するとエンターテインメントとしての《怪獣もの》は、根本的には〈なさそうなお話〉──ゆえに安心してエンジョイ可能──に、ほどほどの何かのリアリティを加味。そのバランスが、制作の勘どころなのだろうか。

さてなんだけど。このブログの7月上旬の、〈2020年下半期、かってに注目のWebコミック・ベスト5〉とかいう記事()。
そこに自分は、《怪獣》という語がタイトルに入ったまんがを、2コもピックアップしていた。井上淳哉『怪獣自衛隊)、松本直也『怪獣8号』)、というふたつの作品。

別にわざわざ怪獣ものを入れようと思ったわけもなく、じゃあ自分もやっぱり《怪獣》をすこりっぱなしなのか、と自覚させられる。かつ、それが自分だけの特殊な嗜好という気もしなくて。

そして。当該の記事にも書いたようなことだが、ここでそれら二作の、〈なさそうなお話に少しリアリティ〉のさじ加減を見ておくと……。

まず『怪獣自衛隊』で出現する怪獣、それ自体は巨大なクジラに触手がついて人を喰うようなバケモノで、ハリウッドSFX映画とかにも出てそうなヤツ。で、それに対する、自衛隊とか人々の反応や対応にリアリティがある──もしくは、リアルな描写が目ざされていそうな気配がある。

いっぽうの『怪獣8号』は、シチュエーションをわれわれの現実と共有していない。こっちの世界で台風や地震が発生するのと近い感じで、その世界には怪獣がひんぴんと出現、そして多大な害をなす。という設定はともかくも、主人公であるオッサンに近い青年、その造形にリアリティそして魅力があって……等々の詳細は、実作ならびに当家の過去記事をご参照。

このように、現在も流行っていなくもない(かも知れない)、《怪獣もの》。ただ、自分がふだん注意してるのは、まんがというメディアで出てるものだけだけど。

そのいっぽう、SF小説という分野から、こういう21世紀の《怪獣もの》をリードした作品が、山本弘『MM9』(エムエムナイン)であるのかも。このシリーズは2005年に雑誌初出、書籍刊行が2007年。
そして自分が目を通した『MM9』は、2010年刊行の文庫版。さらにその続編や姉妹作らも出てるようだが、とりあえず第1弾の感想文を、以下に少し。

さて。さきに名を出したまんが2作のところから遡及して見ると、『MM9』には、それぞれの性格や組み立てに、先鞭をつけているところがありげ。

まずそれは、特異なテクノロジーや奇抜な組織などを出しておらず、自衛隊あたりが現実的な手続きと手段で怪獣に対処するという点で、『怪獣自衛隊』に先立っている。
かつそれは、われわれの《現実》とはかなり異なったパラレルワールドのお話みたいであり、また怪獣の出現が天災らに近く見られている点で、『怪獣8号』に先立っている。
ちなみに『MM9』の〈MM〉とは、《モンスター・マグニチュードの略。地震に見立てて怪獣らの脅威度を、数値化する単位だ。それと似たようなものが『怪獣8号』では、個々の怪獣事例らの《フォルティチュード》と呼ばれている。

とすると、これらの間に影響関係みたいなものがあったりするのかどうか──。

いや、そんなことは分からない。だいたい自分は《怪獣もの》に詳しくなんかないし、もっと影響力の強い作品が、他に何かないとも限らない。

そのいっぽう。自分が『MM9』で興味をひかれたのは、そもそもどうして《怪獣》なんてしろものが存在できているのか──という、そのりくつ、もしくはへりくつの部分なんだよね。

というのも。あの空想科学読本シリーズ(1996〜)とかでさんざん言われてた気がするんだけど、《怪獣》なんてしろものの存在には、きわめて多大なムリがある、物理的&生物学的に。ヘンにマジメに考えたらの話、ではあるけれど。

たとえば『怪獣ずかん』みたいな文献らによりますと、怪獣らの体重は、おおよそ2万か3万トンくらいだそう。しかしそれほどの大きな体重は、あの《ゴジラ》たちの細っこい脚では、とうてい支えられはしない。
と同様に、あんな小さな翼で《ラドン》らが空を飛ぶのも不可能。また《モスラ》がいちおう昆虫なのだとすれば、循環呼吸機構がド貧弱なので、あんなに巨大ではありえない。

……と、そういったところを、いっさい考慮しないような怪獣ものも、ありうるというか、現に多いんだろうけど。しかしそこいらの難点(?)に、『MM9』はいちおうのりくつをつけているんだ。

すなわち。『MM9』作中に出現する怪獣たちは、既知の物理法則には従っていないんだとか。
今作中では小型の怪獣が《妖怪》と呼称されているんだが、逆にそこから〈今作中の怪獣とは巨大な妖怪である〉と言ったほうが、適切だとも考えられる。要してしまえば、不合理で不条理な存在でしかないんだ。

では次に、なぜそんな大小の妖怪たち──物理法則らを無視しまくりの不合理でやっかいな連中──が、そこには存在しちゃっているのだろう?
するとその理由は、人間たちが妖怪(ならびに怪獣)らの存在を、“信じている”から、だと言われるのだ。

つまり『MM9』の舞台である世界は、〈人が思うことは、成る〉という世界であるらしい。そのことが作中では、《多重人間原理という架空の科学理論によって説明されている。
トッピなようだがそういう世界観が、われわれにきわめて縁遠いもの、というわけでもない。たとえばそういうのを精神分析は、《観念の万能》と呼んでいる。

そしてこちらの世界で《観念の万能》は、幼児的(さらには病理的)な思い込みでしか、ない。しかし『MM9』の舞台である世界では、観念が万能だったとしても差しつかえない。どうせ自由なパラレルワールドの物語なんだから。
けれど。観念が万能である世界──しかも物理法則らが安定していない世界──でありながら、こっちの世界と似てなくもないような科学やテクノロジーらが発達しているということに、矛盾が感じられなくはない。もしも魔法やESPが使える世界なら、科学も技術も必要ないであろう、的に。

であるがゆえ。人に害をなす大妖怪(=怪獣)が出現したところで、自衛隊がマシンガンやミサイルを撃って物理的にやっつける、ということがヘンに思えるんだ。むしろ、祈とうや呪術の力で退治するくらいのほうが、お話として《自然》なのでは?

ところで。そんなお話にまで発展してしまった『MM9』を読んでいて──自分の感じだと、《多重人間原理》のへりくつは、シリーズの流れの中でどんどんと“発展”しちゃったものっぽい──、ついつい思い出したのは、唯物論の哲学者である戸坂潤(1900-45)の、次のようなことばだったんだよね()。

現代の哲学思潮の凡ゆる傾向は文学の内に多少とも現われているし、又その逆も真だ。主観的観念論と心理主義又身辺小説とか、客観的観念論と各種ユートピア文学(科学小説も含む)とか色々の一対があるわけだ。

(「現代哲学思潮と文学」 from 『読書法』, 1938)

ここでまず目をひくのは、あまり近ごろ言われない感じの、〈主観的観念論〉と〈客観的観念論〉との対比。どうやら前者は《独我論》みたいなものであり、対する後者はカント以降の、やや洗練されて、社会の中で“実用”に供しうる(!?)観念論であるもよう。
そして後者の〈客観的観念論〉が、SFめいた文学らのバックグラウンドにある。……と、潤先生はおおせなんだと思う。

がしかし『MM9』を読んでいると、何かがヘンになってその背後にむしろ、てんで客観ではない〈主観的観念論〉を背負っちゃってるのでは──と、いう気がしたのだった。

とはいえ?
何しろ《トンデモ》のご批判で世に知られる著者・山本弘先生が、《多重人間原理》のようなトンデモ理論を、本気で提唱しておられるわけでもない、はず。それはエンターテインメントを成り立たせるための仮構であるにすぎない、はず。弱いにしても。
じゃ、それなら今作『MM9』が、どういう性格のエンターテインメントであるかというと?

このシリーズの目ざしているところは、〈われわれが幼時から親しんできた《怪獣もの》が、幼児向けのナンセンスなたわごとに堕しきらざるよう、どうにかして延命させる〉──。そういうことではないのかと、自分は感じたんだよね。
なので、実在しうるような怪獣を出そうということは、ほぼしていない。その逆に、いままでのポピュラーな《怪獣もの》が描いてきた荒唐無稽な怪獣らのイメージらに対し、通りそうなりくつを──『空想科学読本』ごときによっては打ち消されないようなソレを!──、ムリにでもつけ直そうとしている気配。

とすれば実にご苦労な試みだ、とは思う。がしかし、そういう《怪獣業界》の内側を見ているみたいな創作の構えには、あまり共感できなかった、という《お気持ち》も表明しておきたい。
そういうわけなので自分がもっとも面白く感じた『MM9』は、いわゆるマスゴミ的なテレビ取材班が怪獣退治の実態を、一般ピーポォの歓びそうな面白く分かりやすいドラマへと演出(=ねつ造)しようとする第四話。……風刺的っ!

そうやって《SF》といえども、単に逃避的なエンターテインメントであるだけでなく、何かオレら人間の社会とか《現実》とかに触れているところがなきゃダメ──。と、それが自分のかってな思い込みらしいんだよね。イェイッ

Macroblank: 絶望に負けた (2020) - そして何かと負けすぎるオレたち

《Macroblank》、マクロブランクを名のる、正体がまったく不明のヴェイパーウェイヴ・クリエイター。今2020年の6月にデビューした感じで、すでに4コのアルバムをリリースしている()。
この人による作品たちが、どういうものかというと。いちばんすなおな自分の感想は、こういう風に言える。

〈ワシの個人的なベストでエヴァーのヴェイパー・ヒーローである《haircuts for men》、その全盛期の作風にクリソツすぎやんけワレェ!〉

……あっ、少しご説明させていただけば。まず、自分がすこなホノルル在住らしきヴェイパー・クリエイター、《ヘアカッツ・フォー・メン》のことだけど()。
彼の作品はほとんどぜんぶイイと思っているが、にしてもいちばんキレがあったのは、2014-17年あたりか、とも考えられる。現在までの観測では。
そしてその時期のヘアカッツ作品の特徴は、まずアルバムやトラックらのタイトルが、意味不明で意味ありげで陰気なニホン語だったこと。いっぽう音楽の内容が、チルアウトよりの憂いあるヴェイパーホップ()だということは、おおむねずっと一貫。

ただ……。けっこう長いこと、〈チルアウトよりの憂いあるヴェイパーホップ〉を作り続けてきたヘアカッツさんだが、しかし今後は違ってくるのかも、という予感もあり。
てのも現に、彼のいま現在の最新トラック「優位性」(10月13日・発)は、ちょっとよく分からないインダスっぽいエレクトロニカだし。またその前の、karaoke night at harukiya's”(9月15日・発)は、何かヘンにチープな打ち込みで作ったカバー曲集だし。

かと思えば、そのまた前作であるアルバム“1989”(8月6日・発)は、自分のいちばん愛してきたヘアカッツ式ヴェイパー、それそのものなのだった。これはいい!
と、そんな感じで、トーンが落ちてきてるとも言いがたいんだが、でも何かちょっと不安定な感じの、ヘアカッツさんの近況。

というところへ登場してきたのが、この文章の主役であるマクロブランク氏。その作品らの印象が、述べた〈全盛期のヘアカッツ〉にクリソツ。
すなわちその楽曲らは、〈チルアウトよりの憂いあるヴェイパーホップ〉だし。そしてアルバムとトラックたちのタイトルが、〈意味不明で意味ありげで陰気なニホン語〉だし。あ、あと、カバーアートのセンスもほぼ同じだと言えそう。

しかもマクロブランク氏によるアルバムたちは、〈全盛期のヘアカッツ作品ら〉に比して、マスタリングのあたりにプロっぽさを感じさせる。
いやヘアカッツ氏の作品らにしても、とくにマスタリングがオソマツではないが。しかし優劣を言えば、現在のマクロブランクが上かと。
それやこれ、ことしデビューのド新人クリエイターとしては、何だか万事がデキすぎのように思えるのだった、このマクロさんは。ヴェイパー界の基準にしても、水準が高すぎる。

さてこの現象を、どう解釈したらいいのだろう? 〈同じ〉って言うならさらに、それぞれのBandcampページに、〈chillwave〉および〈soundtrack〉という、なくてもよさそうな感じのタグが入っているところまで共通。ヘア&マクロの両クリエイターらについて。

ようは、マクロ氏が熱烈すぎるヘアカッツ・フォロワーなのか、またはヘア氏が別名義で店開きしたのか、そのどっちかではあろうけれど。しかし自分には、どっちという結論の出しようもない。
……と、そうやって自分がとまどいを感じているうちに、すでにヴェイパー界の注目アーティストになっているマクロブランクさん。ともかく作風としては自分の好みなわけなので、愉しみながら両アーティストらの今後を見守ってまいるのです!

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
Macroblank is a Vaporwave creator whose identity is completely unknown. It seems that he made his debut in June 2020, and has already released four albums.
And everything about his works reminds me of the characteristics of haircuts for men (he is my first and best Vapor Hero!), when I wanted to call it the “heyday”.
What they have in common. First of all, the songs are melancholy Vaporhop that are close to chillout. The titles of the albums and tracks are in cryptic, meaningful and gloomy Japanese. And it can be said that the sense of cover art is also common.

What does this mean? Is Macroblank a follower of haircuts who are too enthusiastic? Otherwise, did haircuts open a new store under another name?
The only thing I can say is that the songs by Macroblank are not inferior in quality to those of haircuts. They are of a high standard.
Therefore, while having fun, I would like to keep an eye on the future trends of both artists.

Patricia Lalor: Sleep Talk (2020) - そのティーン歌手が忘却の甘みを密売するから

アイルランド出身の天才美少女シンガーソングライター、《パトリシア・ララー》。2006年生まれと伝えられるので、やたらと若い! 独特のやさしみと眠みのある歌声が印象的な、フォークよりのドリームポップ歌手だと言えそう()。

このララーさんは、2018年くらいからYouTubeに自作曲を投稿し始めて評判を呼び、ちょっと話題のシンガーになっているようなんだけど。
でもいまだ、《アルバム》のリリースがない。だからなのだろうか、Discogsや英語ウィキペらにも、このララーさんの項目はいまだない。調べにくい!

そういうところも今後変わっていくのかと思うが、しかしどうだろう? ミュージシャンであれば《アルバム》を出すべき、出したいはず──、みたいな先入観は、もはや古い人らの思い込みになり下がっているかも。

それにしても自分が強調しておきたいのは、パトちゃんの比較的さいきんの楽曲、“Sleep Talkのすばらしさについて。
例によって自分の大好きな、21世紀の催眠的な子守唄なのですばらしい。すでにわれらのパトちゃんは、アストラッド・ジルベルトクロディーヌ・ロンジェあたりから続く、ささやきと眠みのディーヴァ(歌姫)たちの系列にしっかり喰いこんでいると言える。

またこの曲“Sleep Talk”、その歌詞が、何ともモーローとした内容のようで。雑に要約すれば──。

あなたの夢をみた気がするけど、はっきりは憶えてなくて
そういえばあなたの名前も思い出せなくて
友だちと一緒にいた気もするけど誰だったんだろう?

──これではまるで、《ドリームパンク》の領域に入っているのでは?

恋人っぽい人がいたような気もするが、でもいなかったかも知れないし、まあどっちでもいい。ただ、モーローとしたあこがれだけが心を満たしている。
そしてそのいっぽうで、言われるところの《現実》とやらに対する軽視だか侮蔑だかが、実にはなはだしい。ここまで来られちゃ、ドリームの《パンク》だと言われてもフに落ちるってもんだ。

いや。パトリシア・ララーの音楽とヴェイパーウェイヴとの間には、何の関係もないっちゃないんだけど。
しかし何か奥底で、アチチュードのところで、眠みの甘さを追求しすぎているあたりで、通底しているものがないとも言えないかも。