エッコ チェンバー 地下

─ €cco ₵hamber ฿asement, Vaporwave / Đésir đupłication répétition ─

George Clanton & Nick Hexum: S/T (2020) - 放心しながら見上げる空のやたらな青さ

ジョージ・クラントン。もとはといえばヴェイパーウェイヴの《ESPRIT 空想》として名を挙げ()、いまはインディポップ界の有名人になっているようなお人()。

そしてその2020年7月発の最新作、“George Clanton & Nick Hexum”。これは、オルタナ/グランジ系のミュージシャンであるニック・ヘクサムのボーカル&ギターをフィーチャーしたコラボ作品。全9曲・約33分間のフルアルバム。

感触としてはチルウェイヴに近いもので、サウンドのモヤモヤ感が耳に快い。ヘンにトガった音がないのがよい。
まず、さいしょのトラックで鳴っているバスドラムの奇妙にこもった音質、これがいきなりイイんだよね。そのセンスには大いに共感させられるっ。

アルバム全編がスムースに愉しめるけれど、いちばんドキッとさせられた瞬間は、4曲めからその次への移りぎわ。インターバルなしに5曲めがすぐ始まるんだが、その〈モヘァ〜〉っていう立ち上がりの鳴り方が鮮烈。

と、サウンドのことばかりホメているけれど、もちろん楽曲らがよかった上での話。

実は自分、ここでクラントンと組んでいるヘクサムさんのことを、まったく知らなかったが()。その過去のトラックらをチョコっと聞いてみたら、楽曲に対する真しな姿勢、実にていねいな演奏、といったことばらが、脳裡に浮かんできたんだ。
チカラまかせに押し通しているようなところが、まったくない。そういう姿勢が、このクラちゃんとのコラボ作品にも出ていると思う。

あとヘクサム氏で面白いのは、レゲエの影響がチラホラ感じられるところなんだが。しかしその特徴は、今アルバムには出していない風。

……で、そうとはしてもこのアルバムは、全体として、どういうエモーションを訴えているものなんだろうか?

というと何か、いつも言うようなことしか言えないんだけど。──喪失感に裏打ちされた空虚な明るさ、放心的なリリシズム──?
が、それはまあオレ個人の印象なので、皆さまが聞いたら、また別のものが感じられるかも。ではぜひどうぞ!

Jenevieve: Baby Powder (2020) - 世界のポップ とサイボーグポップ そして、さいごの人間らの欲望(想い)

《Jenevieve》──ジュヌヴィエーヴというR&Bの新進女性シンガーは、マイアミ出身でLAをベースに活動中の22歳()。そして“Baby Powder”は、その2020年3月発の2ndシングル曲。
かつそれが話題のナンバーで、おそらくは息長くヒット中。

そして、その《話題》の一端は、この楽曲のトラック部分のほとんどが、杏里「ラスト・サマー・ウィスパー」(1982)のサンプリング、きわめて豪快な大ネタ使いだということなんだ。

いや、まず。とくに構えることもなく「ベビー・パウダー」を聞いて、〈ああ、これはイイっスね〉と自分は思ったんだ。《いま》のR&Bとして、ふつうにイイなと。
で、次に原曲「ラスト・サマー・ウィスパー」を聞いてみたら──このテの曲は、むかしだいたい聞いたにしても忘れてるので──、それが思わずあっけに取られちゃったんだよね。ジュヌさんの側が、あまりにも変えていない、ほとんどそのまんまなんで!

おそらく原曲の低音あたりは、うまくツヤを出して補強されているもよう。コンプやEQらの操作の巧みさを感じさせるが、しかしピッチやテンポ等は、ほとんど変えていない気味。

さて、杏里「ラスト・サマー・ウィスパー」は、アルバム「ヘヴン・ビーチ」のA面・第2曲。その作詞&作曲は角松敏生、編曲は瀬尾一三による。
そして、もう40年近くも前に制作された楽曲で……。それがちょっとはお色直しされているとはいえ、なぜこの《いま》のサウンドに聞こえているんだろう?

いやはやまったく、杏里のサイドもすごかったし、そしてジュヌヴィエーヴの側もマジ卍。そして1980年代シティポップのポテンシャルの高さを、オレらはここでまた思い知らされたんだ。

ところで。こんなことを書いているにも、少しはワケってもんがあるんだよね。

とは、さっき何かのマチガイで、何かクソみたいなJ-Popに、うっかり数分間も耳を貸してしまったんだ。〈テクノポップ風味のアイドル曲で……〉か何かいう触れ込みに、ついつい引きこまれたのがアダ()。

ったく、何を考えてこんなクソをまき散らすタコがッ? ふだんヴェイパーウェイヴなんていうゴミ同然の音楽(もどき)を聞いてウハウハと悦んでいるバカタレを、ここまで怒らすのも大したものだが──。

──で、このあとにイヤミっぽいことをクダクダと書こうとしていたが、でもそれはよす。そんなのを見る皆さまも愉しくないし、自分のメンタルにも別によくないんで。

ともあれ最大の問題だと言いたいのは、いまどきのJ-Popで目だっていやがる、グルーヴ感がないを通り越して《リズム》とさえも呼べない、ガチャガチャしてセカセカしてるだけのビート。
ワールドワイドのポップらを、まあ少しずつチェキしてるけど、しかしそんなのに類するものはない。あるとしても、そのテのJ-Popの影響を受けちゃったものだけと、考えられる。
そしていまさっき〈ワールドワイドのポップら〉の現状を、あらためてザザッと調べていたら、ジュヌヴィエーヴ×杏里さんのゆかいな話がほっこりと出てきたんだよね。

で、そんなみごとなガラパゴス世界が、1990年代以降のJ-Popの、なかなか小さくもない部分。いっぽうでいま現在、角松氏あたりを筆頭として、80年代ニホンのシティポップが全世界からのリスペクトを、強力に集めつつあるってのに。
──なぜそれが、ここまで墜ちたのか? ソニーJVCDENONらの凋落と、わざわざシンクロしやがって?

あまりそんなことは考えたくもないが、しかし思い当たったことがあるんだ。
〈グルーヴ感がないを通り越して《リズム》とさえも呼べない、ガチャガチャしてセカセカしてるだけのビート〉、そんなものをことさらに追求していた先覚者──面白いお人──、それは平沢進大先生

じゃあアレか、ニホンのローカル音楽市場にて、オレらはススムちゃん先生の大勝利をまのあたりにしてるってのだろうか?

かつまた。もう10年以上前から思ってンだけど、あの《ボカロ曲》ってのがヘンに音らを詰め込んで、メカニカルなメロディをガチャガチャ・セカセカと鳴らす傾向が、大いにある。そこらにもまた、平沢進先生の影響が及んでいるのかも知れないが。
そしてオレの言う、いまどき特有のJ-Popらには、そんなボカロ曲らを人間がマネしてるようなおもむきが、大いにある()。いま名づけてこれを、《サイボーグポップ》とでも呼ぶ。

そんなサイボーグポップだが、しかしその存在に、何の意味もないとは言いきれない。いずれAIらの挙動をマネすることが社会生活のルールとなる未来、それへの意識下の訓練として、有用かも知れない。

……出てきた当時、あれほどクールでメカニカルに聞こえた最初期のエレクトロポップらが、いまはグルーヴィなヒューマニティのカタマリにしか聞こえない。ただそれは、もともとそういう性格があったんだと、オレは考える。局面により、違う部分らが目だってくるんだ、と。
かつ、20世紀の《テクノ》って音楽は、コンセプトからしてアイロニカル。別に人間の機械化を、本気で求めていたワケではないハズだ。逆にヒューマニティを照らしだすための契機として、メカや電子らを愉しんでいた。それは概観・概説として。

けれど当節のサイボーグポップには、すでにそんなアイロニーなど存在しない。スマホを持たないヒトがもはや人間扱いされない、そんな世相のシンプルな反映でしかない。
そしてゆくゆくは脳に直結で、もろもろの情報とコマンドらが瞬時に届き続けるような、効率的でクリーンな世界をそれは、あらかじめ声高らかに謳歌している。こういうことを、《加速主義》っていうの?

そしてそんなときに、オレらヴェイパーウェイヴの徒は、廃絶されたテクノロジーのゴミらを盾に、人間としての自分を守ろうとするのだろうか? たとえばVHSカセットの頼りないプラケース、その中身によせるファンタジーが、さいごの人間らの想い(=欲望)になり果てるのだろうか?

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
“Baby Powder”, a spring 2020 hit by R&B news star Jenevieve. The track for this song consists of a sampling of the 1982 number "Last Summer Whisper" by Japanese City Pop singer Anri.
When listening to and comparing both songs, the originality and sophistication of the original song are the most striking. Also, the Jenevieve production staff who reused it are really wonderful.
In this way, the respect for Japanese City Pop in the 1980s has increased in various ways. We also are Japanese, so we are proud of that.
However, the times have changed, and in the present J-Pop, the groove feeling of the former City Pop does not exist. It's just mechanical and has a hasty beat. We want to call them cyborg pop, along with dislike.
And is the cyborg pop a hymn of the future when humans become slaves to AI? At that time, can we human beings on the side of Vaporwave protect themselves as humans by using the garbage of abolished technology as a shield?

【参考Webページ】:[インディR&B] 2020年注目すべき女性アーティスト 7選 - Sakura Taps 音楽部(
余談だけれど、このサイトはタメになる。Sakura Tapsさんの選曲センスには、すごく共感させられる。それが自分の中の、やや趣味のいい部分に共鳴しているんだ。

ながいけん「第三世界の長井」 - ニセ者の色は、グリーン or レッド?

傑作であるとか名作だとか、言いきることもできないが。でもなぜか、ごく一部の人らの心にへばりつき続けているまんが、ながいけん第三世界の長井(2009-19, ゲッサン掲載)。以下、「長井」。

そして自分もまたその〈一部の人〉みたいなので、その「長井」のご紹介か感想のような記事を2本、デッチあげたのが今2020年6月のこと。どのようなまんが作品なのかという説明は、その記事らをご参照です!(#1 / #2

とはいえ特殊な事情があって。まず、この「長井」は未完の作である。

ハンパなところでゲッサン誌への掲載が止まった理由が何なのか、それは明らかでない。そして単行本は4巻まで出て止まっており、雑誌には掲載された未収録分が、約90ページ。

で、それらがこれからどうなる見通しだ、と言えるのか? というわけで自分の「長井」記事らを、ワリに悲観的なトーンで〆くくるしかなかったのが、残念だったんだよね。

だがしかし? まさか自分の記事らが何か機能したワケではなかろうが、その6月の下旬から、ちょっとした関連の動きが──。

──どういう動きか。簡潔に言ってツイッターに、第三世界の長井【公式】》を称するアカウントが誕生。〈ながいけん先生の委託を受けて、スタッフが運営しております〉として、「長井」の下描きみたいな画像らを、6点ほどポストしているんだ()。
そしてその画像らが、ちゃんと「長井」の中断地点からの続きに見えているので悦ばしい。《ニセ長井星人》の登場から続いたであろうシーンら、その一部分に。

いや【公式】と称しているけれど、だがこれが本当に《公式》なのか、現状どういう確証もない。〈ニセの色は緑〉というような、分かりやすさはない。
だがこのアカウントの誕生からすでに1ヶ月、騙りにしては、あまりにも長命なのでは? それと前記のように、うpしてる画らがそれらしいので、オレとしては信じちゃってる気味なんだ。

だがしかし? このアカウントはいったい《何》をアナウンスしているものなのか、それが現状ナゾなんだよね。

ふつうだったら掲載の再開──商業か自主メディアか、それはどっちでもイイけど──、そういう《何か》を宣伝するものなのでは。あるいは制作継続のための資金を、どうにかして募るとか。
そういう何かが《何》であるのか、いまだぜんぜん明らかでない。まあ、そうしてムダにナゾが多いのが実に「長井」的だ、といえばまったくそうだがっ……!

ただ、どういうことになるにしろ、かの《ながいけん閣下》が何か動いているらしいと、そんな風説だけで〈一部の人ら〉をワクワクさせる。そこまでのカリスマまんが家で、この作者はあるのだ。……一部で
何しろこの天才さん、1980年代中盤のデビューから現在まで、出した単行本は約12冊しかない。平均しちゃえば4年に1冊強、W杯なみのレアイベントになっている。

それほどのありがたい玉稿らを今後、月に1ページずつでも拝むことができたら、かなりの幸いなんだがっ……!!

【参考Webページ】 ながいけん第三世界の長井』 未回収の伏線 - 多分すぐに飽きる日記(

Aseul: Slow Dance (2020), Neon Bunny: Stay Gold (2016) - 新生!韓国のエレクトロ系ディーヴァたち

《Aseul》(아슬, アスル)を名のっている女性は、ドリーミィでセクシーなエレクトロポップの歌手/プロデューサー()。韓国ソウル市生まれ。そして“Slow Dance”は、今2020年3月発、そのフルアルバム第3弾。

コレも一種の《K-Pop》、ということになるんだろうか。ところで自分は韓流何とかみたいなものをまったく知らないし、ハングルもぜんぜん分からないんだ。
なのにコレへと興味を抱いた理由は、エレクトロ系だからというよりか、そのカバーアートを見て何かを〈うっ〉と感じた、むしろそっちなんだよね。ブヘヘヘヘ。

と、まったくもってオトコなんて、どうしようもないわけだが。それはともかく、聞いてみたアスル「スローダンス」がどういう音楽なのか、知っていることばで説明しようとすると。

それが意外にビックリするほど、自分の耳には親しいものだったんだ。

その構成要素は、まずインチメートでセクシーなウィスパー・ボーカル。そして、シティポップ(・リバイバル)風でもあるおセンチ&ドリーミィな楽曲ら。さらには、チルウェイヴっぽいモヤモヤ〜っとソフト&スロウなエレクトロサウンド

ちょっとこれへと関わっていそうな人名らを列挙すると、アストラッド・ジルベルトクロディーヌ・ロンジェフランソワーズ・アルディジェーン・バーキン、ミカドとリオ(Lio)、そしてニッポンのコシミハル早瀬優香子インスタントシトロン、サノトモミ……等々々の各位。
──って、まあ、ワリにノスタルジックな歌姫らの名ばかりを並べてしまったけれど。もっと新しいドリームポップやエレクトロ系らの影響もあるんだろうが、それらは気がついた皆さまが、追加してくだされば。

とにかくもう、これではまるで、オレの好きなものらの詰めあわせ。何か、申しわけないような気ィさえしてきちゃうぜェ〜。
いや、まあ。こういうタイプの女性ボーカルものって、存在としてはか細いが、でも意外になくならないんだけど。だがそうとはしても、韓国のほうからそのサービスを受けることは、ぜんぜん予想外だったんだよね。

だがしかし、そんな驚きの理由は、ただ自分の認識不足によるものだったらしい。

ってのも、このアスルさんについて調べていたらすぐ、Bandcampのコラム〈Kポップではない:韓国の新興エレクトロポップシーン〉という記事につきあたった()。これがすでに、2016年というむかしの情報。
つまり《韓流》みたいなアイドル系でもロックでもない、先進的でDIY精神のポップが、そこでクールに勃興しつつある、とのこと。そっと言うけど暑っ苦しいイメージの《韓流》カルチャーばかりでは、もはやない、ってことらしい。

その新しい流れの代表格が、まずご紹介してきたアスルさんであり。またもうひとり、その記事のトップでメインを飾っている《ネオンバニー》(イム・ユジン)という女性歌手/プロデューサーが、またスゴいんだ()。

実のところ、このふたり、〈ウィスパーボイスのセクシーボーカル&エレクトロサウンド〉という方向性は、ほぼ同じ。かつ、ほとんどの作詞作曲制作を独りでこなす、DIY者であることも同じ。
ただネオンバニーのほうが少し活動が先行し、2011年にアルバムデビュー。また、バニーとなる以前の音楽歴も多少あるっぽい。
そして、そのバニーさん1stアルバム“Seoulight”も、かなり高い評価を受けたようだが。しかしサウンドのエレクトロ度をさらに高めた2ndアルバム“Stay Gold”(2016)、これがもうほんとうの傑作。

もう少し両者を比較してしまうと、アスルのほうが気持ちだけ未来的&ニホン的なサウンドで、いっぽうバニーさんの音楽には、過去のよい英米ポップらのなごりが、やや強く感じられる。かつバニーさんには、たまにお琴(?)みたいな音が鳴っているなど、韓国の伝統音楽の要素らも入っている風。

で、話が行ったり来たりでスマンですが、さっき触れなかったアスルさんの初期の活動について──。
まず彼女は2012年、《Yukari(유카리)》というなぜかニホン風の名前でデビュー()。当時の音楽性も現在とあまり変わらず、ただ時期を追ってサウンドが、よりソフトタッチになっているだろうか。

そして。ヘンなことを申すんだけど、オレがこういうポップの近未来に、つい期待してしまうこと。そのサウンドを、もっともっとソフトにモヤモヤに、かすみや霧の中へと埋めていって欲しいんだよね。つまり、眠みの大増強!
いままでの流れがソフト化だったんで、それをさらに推進してもいいんじゃないか。思わず淫夢をみるような──もしくは淫夢そのものであるような──《セクシー催眠エレクトロポップ》、その静かなる爆誕に大きな期待っ!?

[sum-up in ԑngłiꙅℏ]
Aseul and Neon Bunny are South Korean electro-pop divas. their songs are soft, mellow, sexy and electronic... splendid!

《乳房ペロ舐めドクター事件?》の高裁判決から - そして無意識を抑圧し続ける世界

乳腺エコーのイラスト - かわいいフリー素材集 いらすとや
乳腺エコーのイラスト - 画像はイメージです

ふだんお届けしてるノンキな音楽(ついでにまんが)のお話とは、ぜんぜんおもむきの違う話題なんで、実に恐縮っス!
──だがこの件について、〈こんな意見はオレ以外からは、出てこないのではないか〉、という危機感をいだいたので。そして他に適当な場もないんで、《ここ》に書かせていただくんだよね。ヨロシクっス!

さてお話は、2016年に発生したとされる、仮称《乳房ペロ舐めドクター事件?》のこと。昨2019年2月に地裁で無罪判決、しかし今2020年7月に高裁で逆転有罪と、事態が混迷している感じ。
そして知る限り、江川紹子氏による一連のレポートが、いちばんうまく経緯らをまとめていると考えられる。

《ペロ舐め事件?》関連のYahoo!ニュース by 江川紹子1, 2, 3

けどまあ江川氏からの情報に頼りきりというのも何なので、告発側からの見方はこうだ、という話もご紹介。

準強制わいせつに問われた乳腺外科医は、どうして逆転有罪判決になったのか。【女性患者側弁護士が解説】(

そして、このペロ舐め行為が、あったのか、なかったのか? その物理的な検証可能性は、ここまでの審理で追究されている通り。つまり一審無罪で二審有罪、どっちとも言えないヤブの中。

ただその心理的な可能性・蓋然性について、自分には考えるところがある。

 女性の胸が仕事の対象であり、週に数百人もの胸を診ている乳腺外科医が、5年間診てきた1人の患者に対し、手術の直後に、人が頻繁に出入りする病室の、隣のベッドからは気配が分かる位置で、いきなり欲情して胸にむしゃぶりつき、一定時間なめ続け、さらに、カーテンのすぐ外に患者の母親がいるのが分かっていてマスターベーションまで行う……。

 あまりにも現実離れしてはいないだろうか。

江川紹子「乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?」

と、社会的なストーリー(犯罪実話)は破綻しているが。しかし、告発側の描いた心理的なストーリーは、りっぱに成り立っている。

まず。オレがオトコなんで言いきれはしないけど、女性にとっての乳房は、きわめて大切なものだと考えられる。ちょっとカンタンには言えないような重みがあるんだと思う。
そしてそれを主治医が切除、すなわち剥奪したのである。そして剥奪するくらいなので、彼はその乳房に対し、超よこしまな欲望をいだいていたとしか考えられない。

というストーリーが、まったく破綻していない。整合性は、大いに存ずる。

そして麻酔の影響によるせん妄状態が、この《無意識》の描いたストーリーを、リアリティありすぎるかたちで何か現前させた。そして告発側の女性は、そのリアリティに呑まれ続けているのだ──としか、考えようがないが。

ただ問題は、この社会が《無意識》を抑圧していること。無意識という語を用いた説明らが、〈非科学的〉だとか何とかで、自動的に却下されるシステムが確立されている。

注射を受ける女性のイラスト - かわいいフリー素材集 いらすとや
注射を受ける女性のイラスト

同じようなことが、《子宮頸がん予防ワクチン》をめぐる問題についても言える。ご存じのようにそのワクチンについて、あるようなないような副作用の訴えが、少なからずある。訴訟も起きている。
いや、まず、すべてワクチンの類には副作用がありうるにしても。かつあわせて、こういうことがあるのでは。

子宮頸がんの大きな原因であるヒトパピローマウイルス(HPV)への感染、それはまあ事実上の性病みたいなものであるらしい。するとHPVワクチンを打つことは、〈性病のリスク要員〉というレッテルを貼っていることにはならないか。
そして、性交の経験がないとかわずかであるような少女らが、そのレッテルの貼られることを、どう感じるのか。その《無意識》の葛藤と苦しみが、身体症状として現れることはないのか。

そしてその〈無意識の葛藤と苦しみが身体症状として現れる〉ことを、フロイトは《転換ヒステリー》と名づけた。

ただし、こういう議論は事実上、まったくの無意味。なぜならば、無意識、フロイト、ヒステリー、こういった用語の指すものらは非科学的なエビデンスなき妄想の一種だと、この社会がきっぱり断定しているので。
いやもうむしろ、心理的な〈葛藤と苦しみ〉そのものが、妄想の一種なのではないだろうか。そんなものらの存在に、どういうエビデンスがあるってのだろうか。

そしてフロイトのテーゼ、〈意識されない(抑圧された)ものたちは、《反復》される〉。ゆえにこういったことどもは、延々と反復され続けるだろう。
そしてまたいわく、〈無意識の内容を意識化すること、それが《精神分析》のタスク〉。しかしわれわれはそれを拒み、分析そのものを抑圧し、それを無意識の底に沈めて安らいでいる。